2012年12月8日土曜日

説教集C年:2009年12月8日(聖マリアの無原罪修道会)




第1朗読 創世記 3章9~15、20節

第2朗読 エフェソの信徒への手紙 1章3~6、11~12節

福音朗読 ルカによる福音書 1章26~38節



   聖マリアの無原罪と聞くと、多くの人はあらゆる罪の穢れを免れた完璧な清さだけを考え勝ちです。それは正しいのですが、しかし、罪に穢れた私たちの現実をあまりにも高く凌駕している、そのような清さだけに注目するのは、片手落ちだと思います。もっと大切なことは、聖マリアが救い主に先立って、神からの特別の恵みであるそのような清さをもってこの罪の世に生れ、子供の時から生涯、私たちの想像を絶するほど多くお苦しみになったことだと思います。お心のその超自然的清さ故に、聖マリアは罪に穢れた他の子供たちや社会の人々の言うこと為すことに、人知れず苦しみ悩んでおられたのではないでしょうか。なぜそんなことを言うのか、なぜそんな酷いことをするのか、などと。生来罪の穢れに慣れている私たちとは、感じ方が大きく違っていたと思われます。

   聖マリアは、子供の時から頻繁に体験したその苦しみ故に、ひたすら神の助けを祈り求めつつ生活するようになり、やがてご自身を「神の婢」と思うようになられたのではないでしょうか。そして天使からお告げを受ける前にも、無数の苦しみを世の人々の救いのために神に捧げて祈っておられたと思います。察するに、救い主を産み育てた後にも、生涯主の救いの御業に合わせて、その苦しみを捧げておられたのではないでしょうか。聖マリア無原罪の祭日に当たり、聖母が人類の救いのために救い主と一致して耐え忍び、捧げて下さったその数え切れない程のお苦しみにも感謝致しましょう。

   余談になりますが、128日は仏教諸宗派でも祝日とされています。幾つかの古い仏教経典によると、釈尊は128日に輝く明けの明星を眺めた時に悟りを開き、何ものにも束縛されない自由の境地に到達したと伝えられているからです。その日付は太陰暦のものですが、今日ではそれを太陽暦の日付に読み替えて、例えば福井県にある大本山永平寺では、毎年121日から8日の早朝まで、雲水たちが断食してひたすら座禅し続ける修行をなしている、と聞きます。私たちにはそんな苦行はできませんし、その必要もありません。しかし、明けの星に譬えられる聖マリアの無原罪の光輝く清さ・美しさだけではなく、同時に人類救済のために耐え忍ばれた聖母の無数のお苦しみをも崇め讃美しつつ、私たちの日々の労苦や奉仕の務めを喜んで神にお献げする決心を新たにして、本日の感謝の祭儀を献げましょう。