2011年12月30日金曜日

説教集B年:2008年聖家族の祝日(三ケ日)

朗読聖書:
Ⅰ. 創世記 15: 1~6, 21: 1~3.
Ⅱ.ヘブライ 11: 8, 11~12, 17~19. 
Ⅱ. ルカ福音 2: 22~40.

① 本日は聖家族の祝日であります。この世にお出でになった神の御子イエスを囲むヨゼフとマリアの聖家族を模範として、私たちの修道的家族共同体についても、またこの地方に住む無数の家族たちの家庭的幸せについても考えてみましょう。第一朗読に登場しているアブラム、後のアブラハムは、神の声に従ってハランの地を去り、カナアン人たちの住むモレの樫の木の所まで来た時、主が現れて「あなたの子孫にこの土地を与える」という約束を下さったので、そこに祭壇を築いて主に感謝したのですが、いつまで待っても妻に子が生まれず、自分も妻も既に高齢に達していたので、家の僕エリエゼルを自分の蓄えた資産の後継ぎにしようと考えていました。すると神が幻の中でアブハムに語り、「恐れるな、アブラムよ」「あなたから生まれる者が後を継ぐのだ」とおっしゃって彼を外に連れ出し、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」と、アブラムの種から数え切れない程多くの子孫が生まれることを予告なさいました。
② 自然的、人間的には考えられないことですが、神の全能を信じるアブラムは、神のそのお言葉をそのまま受け入れ、信頼を表明しました。神に対する幼子のように素直で従順なこの心を神はお喜びになり、やがて妻サラが男の子を産むという奇跡的恵みを与えて下さいました。そしてその男の子イサクが成長して妻を迎える程になるまで二人は長生きしました。アブラハムは妻サラの死後にも第二の側女ケトラを娶って、更に6人の子供を残す程にまで長生きしています。当時は家庭に若い後継ぎがいる、子供がたくさん生まれて来るということは神よりの祝福と考えられており、実際その家庭を喜びで満たしていたと思います。長年その喜びを待たされていたアブラハムは、最後には本当に大きな祝福と喜びを神から与えられたのではないでしょうか。私たちのこの修道的家族も、神よりのその祝福と喜びを待たされているように思いますが、いかがなものでしょう。望みを捨てずに全能の神に恵みを願いつつ、アブラハムの信仰心で希望をもって生活するよう心がけましょう。そしてこの地方の地元民のためにも、同様の恵みを祈り求めましょう。
③ 第二朗読の中で使徒パウロは、そのアブラハムの信仰について語っています。アブラハムはひたすら神に心を向けながら生活し、神が真実な方であることを少しも疑わずに、ただそのお言葉がどのように実現するのかを、どこまでも忍耐強く待ち続ける人であったと思われます。長年待たされて歳老いてから漸く生まれた、神の約束なさった独り子イサクを、神が火で焼き尽くすハン祭のいけにえとして献げよとお命じになった時も、よくその試練の苦しみに耐え、すぐにそのお言葉通りに実践しました。「神が人を死者の中から生き返らせることもお出来になると信じたのです」とパウロは解説しています。この世の自然界では経験することも考えることもできない「復活」という奇跡までも、アブラハムは神を見つめながら想定し、神の御言葉に忠実に従っていたのだと思います。本当の家族的幸せは、このような神信仰に生かされ支えられるところから産まれるのではないでしょうか。不安や問題の多い現代社会の中にあって、私たちも小さいながら、そういうアブラハム的信仰の生き方を今の世の人たちに証しするよう心がけましょう。
④ 本日の福音は、神の御子イエスを恵まれたヨゼフとマリアが、律法の規定に従って鳩二羽を代わりに捧げるという形で、その子を神に献げるために、ベトレヘムからエルサレム神殿に上って来た時の話です。神の霊はその御子とヨゼフ・マリアの家族の中だけではなく、初めて出会う人たちの中でも働き、家族を祝福し教え導いて下さるのです。その神の愛の霊に心を向けながら日々の生活を営む所に、家族の真の幸せがあると思います。修道的家族共同体においても、同様だと思います。自分個人のことや、人間理性の考えだけではなく、自分たちの中に働く神の霊の現存と働きにも、心の眼を向けながら生活するよう努めましょう。すると、神が実際に働いて下さるのを体験するようになると思います。神は、そういうアブラハム的生き方を実践する人を、今も待ち望んでおられると信じますから。

2011年12月25日日曜日

説教集B年:2008年降誕祭日中のミサ(三ケ日)

朗読聖書: 
Ⅰ.イザヤ 52: 7~10.  
Ⅱ. ヘブライ 1: 1~6.
Ⅲ. ヨハネ福音 1: 1~18.

① 本日の日中降誕祭ミサの福音は、ヨハネ福音書の冒頭を飾っている荘厳な序文からの引用です。旧約聖書の冒頭を飾る創世記は、「初めに神は天と地を創造された」と万物の本源であられる神から説き起こしていますが、使徒ヨハネもそれに模して、新約の福音を全知全能の神から説き起こしています。神の言(ロゴス)によって万物が創造されたのであり、そのロゴスが万物を生かす命であり、私たち人間を照らす真の光であると説いてから、そのロゴスが人間となってこの世に来臨なされた福音を説き始めたのです。それで本日は、ヨハネのこのような神観念について、少しご一緒に考えてみましょう。

② と申しますのは、第二バチカン公会議が「世界に開かれた教会」を一つの努力目標に掲げましたら、ヘブライズムの思想的流れの中で生まれたキリスト教は、生まれてすぐギリシャ・ローマ的な理知的哲学思想の流れの中に広まり、その流れの中で生まれ育った人々に教えを宣べ伝えるために、ごく自然にその哲学思想の影響を受けて、自由や動きの乏しい堅苦しい神学に傾いてしまったが、今日では主イエスの原初の自由な精神に立ち戻って、開放的自由と動的力に溢れた福音を、思想的に多様化している現代の諸民族に宣べ伝えるべきではないかというような思想が、公会議後の一部の知識人たちの間に広まり、キリストの福音を相異なる各民族文化の受け入れ地盤に適合し易い形で宣べ伝えようとする道が模索されているからです。南米での「解放の神学」をはじめ、アジアの一部の国々、そしてわが国でも様々な試みがなされました。

③ しかし、ローマ教皇庁はそういう動向に対しては、公会議の精神を誤解した偏った試みとしていつも警戒しているように見えます。公会議開催中のローマに留学していて、多少なりともその精神を体験して来た私も、同様に感じています。教会は数々の問題を抱えて苦しんでいる現代世界に大きく心を開いて、それらの問題の解決に協力しようとしていますが、しかし、神が救いの御業の主導権を握っておられ、私たちは神の導きに従って生きる従順によって救われるのだという、主キリスト以来の教会の大原則については少しも変わっていないからです。理知的な人間の発想が主導権をとったり、人間の産み出したさまざまな文化が中心になって、福音を文化圏毎にいろいろと多様化させてはならないと思います。それらはいずれも価値ある存在ではありますが、神の御前では陶工の前にある粘土のような手段に過ぎず、神の霊に徹底的に従おうとする信仰精神がなければ、それらから神に喜ばれる実りは期待できないと思われます。

④ 使徒ヨハネは、一切の妥協を許さない光のイメージで罪の闇を退ける強い神、その光を隠して近づく神の言(ロゴス)を受け入れ信じる人を救い出そうとしている強い愛の神を提示していますが、公会議後の一部の進歩的神学者や知識人たちは、非キリスト教的諸文化に対する協調精神や柔軟性に欠ける、そういう非妥協的神観念の退け改めようとしているように見えます。その流れに乗ってわが国でも、皆さまご存じのように遠藤周作さんが小説の分野で無力なイエスを描いたりしましたが、しかし、使徒ヨハネの神観念や神の御子理解と理解に真っ向から対立する、そのような現代人的思想に対しては、反対する人たちも少なくないようです。

⑤ 私は、キリスト教が旧約時代のヘブライズムの流れを大きく広げて、ギリシャ・ローマ文化の流れの中に乗り出し、そこに私たちの受け継いでいる伝統的神学を産み出したのは、神の御旨であったと確信しています。1世紀後半から2世紀後半にかけては、ギリシャ・ローマ思想に基盤を置く「グノーシス思想」と言われた異端思想も数多く発生しましたが、使徒ヨハネの孫弟子に当たる2世紀の神学者聖エイレナイオス司教の活躍で、それらの異端説は全て見事に批判され排除されて、神中心・神の御旨中心のキリスト教神学の道が開かれたからです。私は、外的には全てが極度に多様化しつつあるように見える現代においても、神の導きと働きによって確立されたこの伝統に踏み止まって、世界諸民族の伝統文化を神中心・神の御旨中心に新たに統合し発展させるのが、現代のキリスト教会に課せられている神よりの使命と信じています。その使命達成のためには、人間の理知的エゴや各民族文化の伝統が主導権を取るべきではなく、「私は主の婢です」と答えて、神から示された全く新しいご計画に徹底的に従い協力する意思を表明なされた聖母マリアのように、神の御旨に徹底的に従う精神が何よりも大切だと思います。詩編103:14には、「主は…私たちが塵にすぎないことを御心に留めておられる」とありますが、塵にすぎない人間の考えに神の働きを従わせようとするような傲慢な試みは慎むのが、神の祝福を豊かに受ける道であると思います。

⑥ 神の御子イエスは、復活して昇天なされた後にも、世の終わりまで目に見えないながらも私たちに伴っておられ、この御降誕祭には霊的に私たちの奥底の心の中にお生まれになると信じられています。夢のような話ですが、幼子のように素直な心でこの神秘を受け止め信じる心には、神の恵みが実際に豊かに与えられます。多くの聖人たちがそのことを体験しています。私たちもその模範に倣い、この降誕節の間幼子のように単純素朴な心、従順な心に立ち返り、私たちの心の奥の無意識界に現存しておられる幼子の主イエスと共に、感謝と喜びの内に喜びも苦しみも全てを神から受けるように心がけましょう。その時、神の恵みが私たちの生活に豊かに溢れているのを実感することでしょう。…

2011年12月24日土曜日

説教集B年:2008年降誕祭夜半のミサ(三ケ日)

朗読聖書: 
Ⅰ.イザヤ 9: 1~3, 5~6.  
Ⅱ. テトス後 2: 11~14.
Ⅲ. ルカ福音 2: 1~14.

① 紀元前8世紀に第一イザヤ預言者が、今宵のミサの第一朗読に読まれる預言を語った時には、ガリラヤの民は凶暴なアッシリアの支配下に置かれていて呻吟していたと思われます。希望の光が全く見えない、そういう絶望的な暗い搾取社会の中で悩み苦しんでいる人たちに向って、預言者は「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に光が輝いた。云々」と語り始めたのです。「一人の嬰児が私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。云々」とある言葉から察しますと、預言者はこの時、それから六百数十年後のメシアの誕生や、そのメシアの王国の遠い将来の輝かしい栄光などを予見しながら、神の民に明るい未来が神から与えられることを預言したのだと思います。

② その預言の中に、「彼らの負うくびき、肩を打つ杖、虐げる者の鞭をあなたはミディアンの日のように折って下さった」という言葉を読みますと、私は『士師記』7章と8章に読まれる次のような話を思い出します。すなわち士師ギデオンが神の民イスラエルを支配していたミディアン人の陣営を、わずか3百人の男たちを三組に分けて夜に包囲し、その3百人各人に松明を左手にかざさせ、右手で角笛を吹き続けさせたら、神の霊の働きで敵軍12万人の陣営の至る所で同士討ちが発生し、逃げるミディアン人たちを追撃して、彼らとその二人の将軍を殺させることに成功したという夢のような話、並びにギデオンがその後その3百人を率いてヨルダン川を渡り、東方の諸民族の敗残兵たち約1万5千人を率いていた敵方の二人の王たちをも急襲して、逃げる二人を捕えて殺害したら、全軍を大混乱に陥れることにも成功し、こうしてイスラエル人たちが自由と独立を獲得したという話であります。預言者は、神の力によるギデオンのこの大勝利よりも遥かに輝かしい大勝利を、将来のメシアの内に見ていたのではないでしょうか。私たちも、2千年前にこの世にお生まれになった幼子イエスの将来には、罪と死の闇に覆われて苦悩している全世界の無数の人々をその暗闇の中から、新しい光と喜びの世界へと救い出す輝かしい大々勝利が、全能の神によって将来に予定され約束されていることを堅く信じ、イザヤ預言者と共に深い感謝と明るい希望の内に、今宵その幼子の誕生を喜び祝いましょう。

③ 使徒パウロは今宵の第二朗読に、「全ての人に救いをもたらす神の恵みが現れました。云々」と述べていますが、ここで「全ての人」とあるのは、およそ人間としてこの世に生を享けた全ての人を指しており、何億人になるか知りませんが、過去・現在・未来の全人類を指していると思います。全能の神の御子メシアの人類を救う力は、時間空間の一切の制約を超えて、遠い過去や未来の人たちにも、すでにあの世に移っている死者の霊魂たちにまでも波及するのです。私たちこの世の人間の想像を絶するその夢のように大きな恵みの力を秘めて、この世に貧しくお生まれになった神の御子は、受難死を遂げてあの世の神の命に復活なされた後にも、もはや死ぬことのない霊化された人間の体を保持したまま、目に見えないながら時間空間の制約を超越して私たち人類に伴っておられます。主は「世の終わりまであなた方と共にいる」と宣言なさったのですから。その主は、今宵信仰をもってその誕生を記念し感謝する人のためには、霊的に新たにその心の中にお生まれになる、非常に神秘な存在であります。これは私たち人間の自然理性では知ることも確認することもできない大きな神秘ですが、カトリック教会が2千年来大切にしているこの伝統的信仰を、私たちも幼子のような素直さをもって受け入れ、それに従いましょう。すると不思議なことに、神の霊がその信ずる心の中に働いて、恵みから恵みへと導いて下さるのを体験するようになります。使徒パウロも神の御子のその神秘な働きを体験し、その立場からテトスにこの書簡を書いていると思います。

④ 今宵の福音をマリアの証言に基づいて執筆した聖ルカは、神の御子メシアのご誕生を、当時の世界的ローマ帝国の歴史的出来事と関連させて述べています。そのご誕生は、家族的・私的出来事ではなく、何よりも全人類の歴史と深く関係している出来事である、という考えからだと思います。ところで、世の人々がほとんど皆眠っている静かな真夜中に誰からも注目されていない所に生まれるという形で、神の御子がこの世に来臨なされたのは、その御子が何よりも私たち各人の心の奥底に、人知れずそっと生まれることを望んでおられることの徴だと思います。神の御子は、何事も理知的に考え勝ちな人間の意識的な頭の中にではなく、無意識的な奥底の心の中にお入りになりたいのだと思います。主が小さな幼子の姿でこの世に来臨なさったのも、私たち各人の心の奥にある、その小さな夢と愛の世界に神の国の恵みをもたらし、そこから私たちの心と生活の全体を支配し、救おうと望んでおられるからだと思います。実際、私たちの心の奥の無意識界には、幼子のように単純で素直な「もう一人の自分」と言われる心が住んでいます。日々の生活の慌しさや外界からの情報にばかり囚われていると、その心、すなわち「良心」あるいは「本当の自己」と称してもよいその心はすっかり眠っているかも知れませんが、せめて年末年始には、自分のその本来の素直な心に立ち返って、自分の人生の来し方・行く末を思い巡らしたり、神から派遣されてこの世にお出でになった救い主に対する信仰を新たにしたり致しましょう。

⑤ 17世紀後半に各人の心の穢れを極度に強調したヤンセニズムの異端思想がフランスから諸国に広まり、敬虔に生活している修道女たちがどれ程よく心を清めても、一週間に3回以上聖体拝領するのはおそれ多いと考える慣習が、20世紀初頭まで修道女たちの間に定着していた時、小さき聖テレジアは「主がミサの時に祭壇の上にお出で下さるのは、そこに留まるためではなく、何よりも私たちの心の中にお住みになるためです」と主張して、毎日でも聖体拝領したかったのですが、修道院長からどうしても許してもらえず、「私が死んだら、あなたのお考えを変えさせましょう」と答えましたが、その死後10年と経たないうちに、教皇聖ピオ10世が頻繁な聖体拝領を強く推奨する回勅を出して、17世紀以来のそのような慣習を退けました。今宵、神の御子は私たちの心の中にも霊的に幼子となって生まれることを新たに望んでおられると信じます。心をこめて聖体拝領をいたしましょう。

⑥ 神の御子がこのようにして私たち各人の心にお出で下さるのは夢のような現実ですが、奥底の心を目覚めさせて、幼子のように素直にその夢を信じましょう。2千年前のベトレヘムの羊飼いたちは、全てを理知的に説明し教えていたファリサイ派の教師たちからは、律法を知らない罪人として非難され、社会的にも軽蔑されて貧しく生活していました。しかし、その苦境の中にあって一心に神の憐れみと御保護を祈り求め、夢を愛する奥底の心を目覚めさせていたと思います。ファリサイ派の宗教教育を受けなかった彼らは、律法はよく知らないので、「頭の信仰」ではなく「心の信仰」で生きていたと思います。神の御子の誕生についての知らせを最初に受けたのは、そのような「心の信仰」に生きていた羊飼いたちでした。私たちも夢と愛を大切にする「心の信仰」に生きるよう心がけましょう。

2011年12月18日日曜日

説教集B年:2008年待降節第4主日(三ケ日)

第1朗読 サムエル記下 7章1~5、8b~12、14a、16節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 16章25~27節
福音朗読 ルカによる福音書 1章26~38節

① 本日の第一朗読に登場するダビデは、皆様ご存じのように、ベトレヘムで羊の群れの世話をしていた時から神の霊の力によって特別に守り導かれ、遂に紀元前千年頃にイスラエルの王位につき、堅固な城壁に守られていたエルサレムの町を占領して、王国の首都とした人であります。神の霊はその後もダビデ王の中に働いて、まだ周辺の各地に残っていたイスラエル人の敵たちを次々と退け、王国の安泰を確実なものとしましたが、こうして王国の平和が確立されると、王は内政の充実に心を向けたようで、神を崇めるための神殿を首都エルサレムに建設することを思い立ったようです。それで、預言者ナタンに「私はレバノン杉の王宮に住んでいるが、神の箱(すなわちモーセの時からイスラエルの民の中での神の現存を表示する契約の箱)は、(モーセの時以来の伝統をそのままに順守して今も)天幕を張った(移動式幕屋の)中に置かれているが」と、相談してみました。

② それに対する預言者の答えと、その夜に神がナタン預言者に現れて、ダビデ王に告げさせた神の御言葉とが、この第一朗読の内容であります。神は、ダビデ王の厚意の企画を喜ばれたようで、ダビデの子孫の王国を「揺るぎないものとする」と約束なさいます。ここで神が話しておられる「子孫」は、主イエスが来臨なされてからは、神の御子キリストを指していることが明らかになりました。

③ ところで余談になりますが、ダビデの言葉にある「レバノン杉」は、日本の杉のように真っ直ぐに大きく成長するので「杉」と邦訳されていますが、松科の常緑樹だそうです。名古屋の神言神学院にたくさん植えられている「ヒマラヤ杉」も、同様に真っ直ぐ成長する大木なので「杉」と訳されていますが、松科で大きな松かさ(松ぼっくり)を枝につけます。レバノン杉は30mくらいにまで大きくなるそうですが、神言神学院や南山大学の構内にそれぞれ2本ずつ植えられている、メタセコイヤという木も、真っ直ぐに30m位にまで成長する大木です。浜松のフラワー・パークにも2本並んで植えられていて、30m近い高さになっています。ダビデの王宮は、そのような大木を集めて建築された立派な王宮であったと思われます。

④ 本日の第二朗読には、「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです」という言葉が読まれます。現代にはよく「福音宣教」という言葉を耳にしますが、その言葉を口にする人が大きな善意からではありますが、キリストの福音を人々に分かり易く合理的に説明しようと努めているように見えるのは、少し残念だと思います。福音は、あの世の永遠の神が編み出したご計画の神秘を宿しているもので、その神秘はこの世の理知的な人間理性では分かり得ないものだと思います。ですから使徒パウロも本日の朗読箇所の中に、「信仰による従順に導くため」という言葉を付記しています。理性では知り得ない神よりの啓示を、そのまま信仰と従順の心で受け止め、そのお言葉通りに生活しよう実践しようと心がけていますと、その心の中に神の愛の霊が働いて、神の導きや神秘に対する新しい霊のセンスを育てて下さるのではないでしょうか。少年ダビデも、合理主義的な理性の力によってではなく、神から注がれ実践的に磨き上げられたその霊のセンスに導かれつつ、数々の困難を乗り越えて王位に就くことができたのだと思います。私たちも己を無にして、すなわち自分の理知的な考えゃ望みを無にして、神の神秘なご計画に対する信仰と従順に実践的に努めるよう心がけましょう。

⑤ 本日の福音は、おとめマリアに天使ガブリエルを介して告げられた神のご計画であります。日頃から神の御導きに対する信仰と従順のセンスを実践的に磨いていたと思われるマリアは、落ち着いて冷静にそのお告げを受け止め、どのようにしてその男の子を産む種を頂くのかという質問をしただけで、その返答を聞くと、「私は主の婢です。お言葉通りこの身になりますように」と承諾し、神のご計画に徹底的に従います。しかし、天使が去った後には、どのようにしてその神秘をヨゼフに説明し、その子を育てるための協力を得たらよいかなど、人間的にはいくら考えても名案が思い浮かばないことが、次々と心を悩まし始めたと思われます。将来自分を悩まし苦しめることになる様々の出来事については、何も告げられていないからです。でもマリアは、その時その時に苦しむ自分の心に聖霊が働いて導いて下さるという信頼と従順の心を新たにしながら、神へのお任せと信頼の心でひたすら神に心の眼を向けて、新たに生き始めたのではないでしょうか。クリスマスを間近にして、私たちも乙女マリアのこの生活態度に見習うよう心がけましょう。

2011年12月11日日曜日

説教集B年:2008年待降節第3主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 61章1~2a、10~11節
第2朗読 テサロニケの信徒への手紙一 5章16~24節
福音朗読 ヨハネによる福音書 1章6~8、19~28節

① 本日の第一朗読は、バビロン捕囚から解放されて帰国した民に向って第三イザヤが預言したものですが、そこには神から預言者に与えられた召命についても語られています。「主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた」という言葉に始まり、「囚われ人には自由を、繋がれている人には解放を告知するために、云々」と、後年主イエスも故郷ナザレでの説教に引用なされた言葉が続いています。これらの預言は、バビロン捕囚から解放された時にも、また主イエスの時代にも少しは実現したでしょうが、何よりも世の終わりの時、主イエスの再臨によって大規模に実現する情景を垣間見て、預言したものであると思われます。ご存じのように、待降節の前半12月16日までの典礼は、何よりも主の再臨を待望する思想で満たされています。それで、この立場で本日の三つの祈願文も朗読聖書も受け止め、この世の人間社会や家庭が、数々の乱れで内面から崩壊し始める暗い終末的様相を呈する時に、天から神の栄光を輝かせて再臨して下さる主を、忍耐強く待望し続ける決意を新たにいたしましょう。

② 第一朗読に読まれる「良い知らせを伝えさせるために」という言葉は、新約聖書にも何回か使われていますが、この「良い知らせを伝える」という言葉は、ギリシャ語の「エヴァンゲリオン」という動詞の邦訳であります。この動詞はもともと、戦争の時に前線での喜ばしい勝利を、伝令が後方の部隊や町の人々に伝える行為を指しており、そこから転じて、神からの喜ばしい知らせを人々に伝える行為にも使われるようになったようです。そして更に、私たちが福音を宣べ伝えるのにも使われるようになりましたが、ギリシャ語の最初の意味から、ふと私が小学5年生の時に遊んだことのある「伝言リレー」という遊びを、懐かしく思い出しました。学校の先生が、生徒たちを二つのグループに分けて、右側と左側にそれぞれ少しずつ距離を置いて細長く一列に並べ、左右の最初の生徒にそれぞれ同じメッセージを密かに囁き、それが20人余の生徒にそれぞれ個人的に密かに伝えられた後に、最後にどのようなメッセージになっているかを、時間的速さで競わせる遊びでした。しかし、どちらのグループでもとんでもない話に変形されていました。私たちの神も、主キリストの原初の福音が、2千年後の現代社会ではかなり変形されて宣べ伝えられていることに、驚いておられるかも知れません。

③ 最近あるカトリック信者から、某教会での司祭の説教についての不満や疑問を聞いて、そんな思いを深くしています。戦後の能力主義や自由主義の教育を受けた司祭たちの中には、自分の全く個人的な聖書解釈や伝統理解から、「福音宣教のため」という善意からではありますが、主キリストの本来の意図から大きく外れた説教を教会で話してしまうこともあるのではないでしょうか。社会に終末的様相が広まって来る時代には、カトリック教会内でもそういうことが頻発するかも知れません。主はルカ福音18: 8に、「しかし、人の子が来る時、地上に信仰が見出されるであろうか」という疑問を呈しておられます。私の知っている昔の信徒たちは、己を無にして神の御旨への従順を何よりも重視しておられた主の御模範に倣って、自分の考えや自分の力で神のために何かを為そうとするよりも、神の御旨やお導きに幼子のようにしっかりと捉まり、従っていようと努めていました。私たちも、そういう伝統を大切にしていましょう。

④ 本日の第二朗読は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝していなさい」という言葉で始っています。神から戴いた霊の火に従って、私たちもこのように心がけましょう。幼子のような素直な信仰心に生きているなら、栄光に輝く主の再臨は、恐れではなく大きな喜びを心にもたらすものとなるでしょうから。そして主は、私たちの「霊も心も体も」非の打ちどころがない程、清いものとして下さるでしょうから。神ご自身が、私たちの心の中で働いて下さるのです。使徒パウロのこの言葉を、堅く信じましょう。主イエスの再臨の時、主から「忠実な僕、婢」として認められ喜ばれて、新しい栄光の国に温かく迎え入れられるために。

⑤ 本日の福音の中で洗礼者ヨハネは、「あなた方の中には、あなた方の知らない方がおられる。云々」と話していますが、この言葉は、現代の私たちにとっても大切だと思います。「私は荒れ野で叫ぶ声である」と公言したヨハネは、全ての被造物の中での神の現存、特に身近な出来事の中での神の現存と働きに対する心の感覚を、子供の時から磨いていたと思います。それで、父なる神は、御子イエスにいよいよ福音宣教と救いの御業を公然と始めさせるに当たり、まずはそういう預言者的信仰感覚を磨いていたヨハネの心の中に、お働きになったのだと思います。ヨハネは、自分の心の中に神が叫んでおられる、自分の心はその叫ぶ神の道具でしかない、と実感したのではないでしょうか。ですから、イザヤ預言者の言葉を引用して、「私は荒れ野で叫ぶ声である」と答えたのだと思います。

⑥ 主の再臨に備えて私たちの為すべき準備は、何よりも心のこういう信仰感覚を磨くことだと思います。私たちは皆、全知全能の神の存在と私たちに対する愛とを信じてはいますが、その信仰がいわば「頭の信仰」に留まっていて、心の奥底の「もう一人の自分」と言われる、私たちの一番大切な生命と能力は、まだ半分眠ってはいないでしょうか。心の上層部を統御する表向きの自我は、隣人や同僚たちに引け劣ることのないよう、この世での体験や集めた知識情報などを理知的に整理統合しながら、自分で判断し決定しようとします。2千年前のファリサイ派の人たちも、神を信じ、聖書に基づいてメシアの来臨を待望しつつも、そういう自分中心・この世の人間的組織や生活中心の自我が主導権を握っているような「頭の信仰」に生きていました。それで外的には幾度主イエスの話を聞いても、そこに秘められている神よりの声を、正しく聞き分けることができなかったと思われます。その主は今も、目に見えないながらも世の終わりまで私たちに伴っておられ、そのような「ファリサイ派のパンだねに警戒せよ」「目覚めて祈れ」などと、私たちの心に呼びかけておられるのではないでしょうか。私たちの心の奥底にいる「もう一人の自分」、私たちの本当の自己を目覚めさせ、幼子のように素直で奉仕的な愛の命に育て上げましょう。そうすれば、私たちの心の中に神の霊が実際に働き始め、私たちの生活を新たな光で照らし導いて下さるのを実感するようになります。神の霊が、私たちの心の中で導いて下さるのです。明治・大正頃の敬虔な日本人キリスト者たちは、そのように生きることを「自己完成」と呼んでいました。目覚めて完成された自己が主導権をとり、表向きの自我とバランスよく相互協力する生き方の中に、私たちの本当の幸せがあると思います。そこには、主の霊がいつも伴い守り導いて下さるのですから。