2010年7月25日日曜日

説教集C年: 2007年7月29日 (日)、2007年間第17主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 創世記 18: 20~32. Ⅱ. コロサイ 2: 12~14.
     Ⅲ. ルカ福音書 11: 1~13.

① 本日の第一朗読の始めには、「ソドムとゴモラの罪は非常に重い」という神のお言葉があって、罪悪を忌み嫌われる神がそれらの町々を滅ぼそうとしておられる御決意が、朗読箇所全体の雰囲気を圧しているように感じられます。3千数百年も前の出来事についての伝えですが、神は現代世界に対しても同様の憂慮と決意を抱いておられるのではないでしょうか。ソドムとゴモラの罪をはるかに凌ぐ罪悪が日々横行し、万物の創造主であられる神を無視し悲しませるような、自然界の汚染が急速に進行しているからです。人類の人口は2030年に80億、2050年に90億と予測されていますが、産業革命と共に始まった地球温暖化が、節度を厳しく守ろうとしない人間の欲望によってますます進行し、異常気象による農作物の減少や農地の砂漠化、氷河の溶解などの現象が深刻になりつつあります。国連の「気象変動に関する政府間パネル (IPCC)」の今年2月の報告では、このままの状態が続くと、2050年には世界の飢餓人口が1千万人、水不足に悩む人が10億人に増え、その後はもっと恐ろしい事態が発生すると警告されています。

② 私たち神信仰に生きる人たちは、既にここまで地球環境を悪化させ、滅びへの道を進んでいるこの世の流れの中で、どう対処したら良いでしょうか。まずは本日の朗読に登場したアブラハムのように、神は罪悪を憎まれるよりも善に生きる人を喜ばれる方であることを信じつつ、一人でも多くの人が神に対する信仰と愛に目覚めて生きるよう、真の神信仰を広めることに心がけましょう。神が求めておられる程多くの人を信仰に導くことができず、天罰は避け得ないかも知れませんが、せめてアブラハムの甥ロトたちのように、天使の導きや助けによって救われる人たちの数を増やすことは、可能なのではないでしょうか。

③ 本日の第二朗読には、「肉に割礼を受けず、罪の中に死んでいたあなた方を、神はキリストと共に生かしてくださったのです」という言葉が読まれます。「キリストと共に」という言葉は、「内的にキリストと結ばれ、一致して生きることによって」という意味に受け止めてよいと思います。それは使徒パウロの教えに従うと、自分主導の生き方に死んで、主キリストのように、天の御父の御旨によって自分に与えられる全てのもの、喜びも苦しみも快く受け入れ、主の十字架上のいけにえに合わせて神に奉献しながら生きることを、意味していると思われます。神は主キリストと一致してなすそのような生き方を殊のほかお喜びになり、その人が献げる苦しみや働きを介して、豊かな恵みを世の人々の上にお注ぎ下さると信じます。パウロはコリント後書4章に、「私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために」、「こうして、私たちの内には死が働き、あなた方の内には命が働きます」と書いていますが、本日の朗読にあるように、これが「キリストと共に葬られ」「キリストと共に復活されられて」神の内に生きる人の道であり、パウロのように、主において豊かな救いの恵みをこの世に呼び降す道なのではないでしょうか。

④ 本日の福音は、弟子たちの求めに応じて主が祈りを教えて下さった前半部分と、神に対してなした祈りは必ず聞き入れられることを確約なされた後半部分とから構成されています。私たちがミサ聖祭中に唱えている「主の祈り」はマタイ福音書6章に載っているもので、マタイはそれを山上の説教の中に収録していますが、ルカが伝えている「主の祈り」はそれよりも短く、主が熱心に深く祈っておられるお姿に心を引かれた弟子たちが、洗者ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えて下さいと願ったことなど、主がその祈りを教えて下さった事情も書き添えていることから察すると、ルカが伝えているこの短い形の「主の祈り」が、主が実際に弟子たちに教えて下さった元々の祈りであると思われます。

⑤ それは「父よ」という神への親しい呼びかけで始まっており、主が弟子たちと話しておられたアラム語では「アッバ」という、幼児が父を呼ぶ時の言葉であると思われます。それは、現代人が自分の父を「パパ」と呼ぶ時のような、親しみの溢れている幼児語です。主はゲッセマネの園でも、神を「アッバ」と呼びかけながら真剣に祈っておられたことがマルコ福音書に記されていますし、使徒パウロもローマ書やガラテア書で神を「アッバ」と親しみを込めてお呼びする神の子の霊について教えています。従って主は、弟子たちに実際に天におられる父なる神を「アッバ」と親しみを込めて呼ぶよう、教えられたのだと思います。しかし、このあまりにも馴れ馴れしい幼児語で神に話しかけることは、ミサ聖祭のような公式の共同的祈りには相応しくありません。それで初代教会の時から、主が教えて下さった祈りの内容はなるべく変えないようにして、「天にまします我らの父よ」という言葉で始まる、公式の場で唱えるに相応しい形の祈りに作り変えて唱えるようになりました。マタイはこの形の「主の祈り」を、山上の説教の中に収録したのだと思われます。しかし、一人で個人的に祈る時には、今でもルカ福音書に記されている、主が教えて下さったままのこの大胆な親しみの呼びかけで始まる「主の祈り」を使うことができますし、その方が神に喜ばれるのではないでしょうか。私たちは何かの外的法によって神の子なのではありません。神の子キリストの愛の命に生かされる度合いに応じて、内的に神の子と見做され、神に受け入れられているのですから。

⑥ ところで、この祈りを唱える時は、これが主が教えて下さったという意味での「主の祈り」であるよりも、主が今も目には見えなくても今も実際に人類の中に現存して、全人類のために唱えておられる祈りであることを心に銘記し、主と心を一つにして主と共にこの祈りを唱えること、主の器・主の道具のようになり、主の聖心を心としてこの祈りを唱えることが大切だと思います。マタイ福音にある「御旨が天に行われるように、云々」と「私たちを悪から救って下さい」という言葉はここにありませんが、これらはそれぞれ「御国が来ますように」と「私たちを誘惑に遭わせないで下さい」という主の願いを、初代教会が少し膨らませて表現しただけなのですから、ルカの伝えている短い形の「主の祈り」の中に全て含まれています。「悪から救って下さい」という言葉は、ギリシャ語原文では「悪者(すなわち悪魔) から救って下さい」となっていて、「誘惑に遭わせないで下さい」という祈りに含まれていますから。とにかく要は、私たちの内に現存しておられる主と内的に深く結ばれ、主の聖心に内面から生かされてこの祈りをゆっくりと唱えることだと思います。その時、主が私たちの中で私たちを通して天の御父に祈って下さり、私たちもその祈りの効果を、主において生き生きと身に感ずるようになるのではないでしょうか。

⑦ なお、本日ここで朗読された邦訳では「御名が崇められますように」となっていますが、これも原文を直訳しますと「御名が聖とされますように」となっていて、私は、主が教えて下さったこの「あの世的」表現で祈ることを愛好しています。それはこの世のどの民族の言語にも解り易く訳すことができない、少し違和感を与える言葉だと思います。真善美などのこの世的価値と違って、「聖」はあの世的価値だからです。しかし、主があえてこの言葉をお使いになったのですから、私はそれを尊重し、この言葉を唱える時にはいつも、イザヤ預言者の見た幻示、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は全地を覆う」と呼び交わしながら、天使たちが壮大なスケールで神を讃美している場面を心に描いて、天上のその讃歌に心を合わせることにしています。

⑧ 次に本日の福音の後半部分について考えてみましょう。まず突然夜中に訪ねて来た空腹の友人のため、食べさせるパンが全然なく、友人の家にパンを恵んでくれるよう頼みに行く人の話がありますが、この話の要点は、執拗に頼めば最後にはパンを与えて下さるということにあると思います。主がなぜこのような話をなさったかと申しますと、天の御父は、人となられた神の子イエスがお願いすれば、いつもすぐにその願いを聞き届けようとはなさらずに、その願いが人となられた主の人間的聖心の内に十分深く根を張るまで、しばしば時間をかけてお待たせになることを、幾度も体験なさったからなのではないでしょうか。主イエスも、この罪の世に生きる被造物人間としてのこのような制約を、耐え忍ばなければならなかったのだと思われます。ですから時々は、夜を徹して長時間天の御父に祈られたのではないでしょうか。その主の祈りに参与するため、私たちも忍耐を失ってはなりません。

⑨ 本日の福音には、「求めなさい」「探しなさい」「門を叩きなさい」という三つの命令が相次いで強調されていますが、ギリシャ語の原文では、それらの動詞は動作の継続を意味する現在形になっていますから、日本語では「求め続けなさい」「探し続けなさい」という意味になります。時間をかけて忍耐強く求め続けましょう。しかしその場合、「こうして欲しい」などと、あまりにも自分の望みや要求にこだわってはなりません。神の僕・婢として、全てが天の御父の御旨のままになるようにと、ひたすら主キリストから教わった「主の祈り」を唱えていましょう。異教徒たちのように、あの事もこの事もなどと、一々細かく申し上げる必要はありません。神は私たち以上に、私たちが必要としている全てのことをよくご存知なのですから。ただ、ひたすら主キリストと一致して祈るように努めましょう。そうすれば、本日の福音にありますように、天の御父は「聖霊を」与えて下さいます。そしてこの聖霊が、私たちの考え及ばない程、全てが私たちの救いと仕合せのためになるよう、助け導いて下さいます。

2010年7月18日日曜日

説教集C年: 2007年7月22日 (日)、2007年間第16主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 創世記 18: 1~10a.  Ⅱ. コロサイ 1: 24~28.
     Ⅲ. ルカ福音書 10: 38~42.


① 新約聖書が書かれた時代のローマ史、特にオリエント諸地方の社会的状況を細かく調べてみますと、それはある意味で現代世界・現代社会を先取りした一つの雛形のような印象を受けます。それまでの各国、各民族・部族毎の伝統的文化や慣習、価値観などは、シルクロードの開発や各種の発明などで急速に広まって来た国際的経済交流や文化交流により、時代遅れのものと見做されたり、軽視されたりするようになり、多くの若者たち、特に能力ある者たちは、積極的に新しい技術や、新しい商品・文化・価値観などを捜し求め、新しい流行、新しい流れの中で生活しようと努めていたように思われます。

② このことは、新約聖書の中にもいろいろな形で反映しています。例えば本日の福音の少し後のルカ福音12章には、明日の食事のことで思い煩う無産者たちに、主が父なる神の摂理に対する信頼心を強調したり、盗人がいつ来るか分らないので腰に帯をしめ、目を覚ましているようにと警告したり、忠実な僕と不忠実な僕の譬え話をしたり、「今から後、一家に5人の者がいるなら、三人は二人に、二人は三人に対立して分かれる。父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、姑は嫁に、嫁は姑に対立して分かれるであろう」などと話したりしておられます。これらのことは、現代社会にも到る所で頻発している現象ではないでしょうか。もう長年来の伝統的社会秩序がよく守られているような落ち着いた時代ではないのです。同じ家に生まれ育った兄弟姉妹であっても、性格も好みも価値観も大きく異なっていることが珍しくありません。親子であっても同様です。ですから、主が話された「放蕩息子の譬え話」にある親子の考えの違いや、兄弟の考えや性格の違いなどは、現実にも大いにあり得たことだと思います。現代社会においても同様ではないでしょうか。

③ 本日の福音も、このような大きな社会的過渡期の流れの中で、受け止めたいと思います。主が弟子たちを連れてやって来た村は、エルサレムに近いベタニヤという村でした。そこにはラザロという、多分富裕な貿易商と思われる人が大きな家屋敷を構えていて、いつも主の一行を快く泊めてくれていました。主のご受難の少し前に、このラザロが死んで屋敷内の墓に葬られていたのを、主が蘇らせた話がヨハネ11章に書かれていますが、そこにもマルタとマリアの姉妹が登場しています。福音書には、罪の女マグダラのマリアもいて、主によってその心の罪から救われたこの女が、主の受難死と復活の時にも主に忠実に留まり続けて活躍したように描かれていますが、同じ古代末期の崩れ行く社会の中に生まれ育ち、4世紀後半に長年エルサレムにあって新約聖書をラテン語に翻訳したり、聖書の注解書を著したりした聖ヒエロニモは、このマグダラのマリアとラザロの妹マリアとを、同一人物としています。しかし、社会体制も社会道徳も比較的安定していた時代しか知らないある聖書学者が、この二人が同一人物であるとは考えられないという仮説を唱えたことがありました。確かに、首都圏の立派な資産家の家に生まれ育った女が、貧しい家の出身者が多い遊女の間に生活する程に身を持ち崩し、社会からも「罪の女」として後ろ指を指されるに到ったなどということは、通常には考えられないことですが、しかし、社会全体が根底から文化的液状化現象で揺らぎ、社会道徳も心の教育も、基盤とする権威を失って崩壊しつつあるような時代には、現代においても起こり得るのではないでしょうか。良家の娘が家出をしたりした話は、現代にもたくさんありますから。

④ 本日の福音に戻りますと、罪の女の生活から足を洗って元の家に戻っている、そのマリアがいる家に主が弟子たちを連れてやって来ました。妹と違って伝統的良風を堅持し、家事を任せられていたと思われるマルタは、突然の客たちの夕食の準備で大忙しであったと思われます。ルカ福音書8章の始めには、「悪霊や病気から救われた数名の婦人たち、すなわち七つの悪魔を追い出してもらったマグダラのマリアと、ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、それにスザンナ」たちも主と弟子たちの一行の「お供をした。彼女たちは、自分たちの財産を出し合って一同に奉仕していた」とありますから、この時も数人の婦人たちがマルタのお手伝いをしていて、マルタは決して一人で食事や宿泊の準備をしていた訳ではないと思われます。マルタという名前は、当時シリア、パレスチナ地方に住んでいた庶民、異教徒もユダヤ人もごく一般的に話していたアラム語で「女主人」の意味だそうですが、家のことは自分が一番よく知っているのですから、マルタは名実共に女主人として、本日の福音の40節にありますように、「いろいろのもてなしのため、せわしく立ち働いていた」のだと思います。せわしく立ち働く(ペリスパオー)というギリシャ語原文の動詞は、ペリ(周囲に)とスパオー(引き離す)という二つの単語の合成語ですから、マルタは、他所から来た婦人たちにいろいろと指示を与えながら、周囲の雑事に囚われて、心が散り散りになっていたのかも知れません。

⑤ ところが、自分の家のことをよく知る妹のマリアは婦人たちと一緒に手伝おうとせず、広間で主の弟子たちと一緒に、主の足元に座して、主の話を聞き入っていました。当時の伝統的慣習では、女性は公的なシナゴガだけではなく、個人宅の広間などでも客人の男性たちの間に一人で入り混じって話を聞いたり論じ合ったりすることは、慎みに欠ける行為とされていました。当時の律法学者たちが、律法の教えを学ぶことは男の務めであって、女性にはふさわしくないと教えていたからでもあると思います。伝統的慎みの慣習を重視していたと思われるマルタは、折角自宅に戻って来た妹のそのような慎みを欠く行為を見て、できれば一言すぐに注意したかったでしょうが、主のすぐ真ん前ですし、主が何もおっしゃらないので、暫くは見て見ぬふりをしていたのかも知れません。しかし、遂に我慢できなくなったのだと思います。主のお側に近寄って「主よ、妹が私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃって下さい」と申しました。

⑥ 主はそれに対して「マルタ、マルタ」と二度も名前を呼んでいますが、これはマルタへの親しみの情の表現だと思います。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」というお言葉は、今の私たちにとっても忘れてならないお言葉だと思います。私たちも、神に捧げる祈りや典礼のことで、間違わないようにいろいろと細かく配慮しますし、客人のもてなしや隣人との人間関係のためにも、人から良く思われるようにと種々配慮しています。その配慮は必要でありますが、しかし、そのことで心を乱し、客人に対する接待を喜びの心のこもらないものにしてはならないというのが、主の教えではないでしょうか。外的この世的配慮の価値は、それらの配慮や奉仕に込める神や客人への感謝と愛にあると思います。人と人の考えや好みや価値観などが大きく多様化するような時代には、この本質を念頭において、外的この世的不完全さに心を乱さずに、ひたすら神の方に眼を向けて、喜んでなす奉仕愛に生きるように、というのが主のお勧めなのではないでしょうか。

⑦ 最後に「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」というお言葉も、大切だと思います。ここで「良い方」とある言葉は、何を指しているのでしょうか。いろいろと意見があるでしょうが、私はこれを、昔ある人たちが考えたような観想生活のことではなく、自分に対する主の御言葉、神からの呼びかけなどを指していると思います。罪から立ち上がる恵みを得たマリアは、ひたすら神よりの呼びかけにのみ心を向けて生きようとしていたのではないでしょうか。女性を家事や子育てだけに閉じ込めて来た旧来の伝統に反対し、いわば自分も主の女弟子になって、男たちと共に主のお言葉を聴聞し、その証し人になることを望んでいたのかも知れません。主はその大胆な試みを快く容認なされ、そのことを「良い方」と表現なされたのかも知れません。この世の伝統的やり方や考え方を最高の基準とせず、その人が神を愛し神に従おうとしているなら、その人のそのような心がけを是とし、多少の不完全があるとしても心を大きく開いて容認致しましょう。それが、人間がそれぞれ極度に多様化する大きな過渡期に、主が多種多様な個性的人々を救うためにお示しになった生き方だと思います。現代もそのような大きな過渡期と言ってよいと思います。私たちも主のそのような心の広い生き方を身につけるよう心がけましょう。

2010年7月11日日曜日

説教集C年: 2007年7月15日 (日)、2007年間第15主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 申命記 30: 10~14. Ⅱ. コロサイ 1: 15~20.
     Ⅲ. ルカ福音書 10: 25~37.


① 本日の第一朗読の中で、モーセは「あなたの神、主の御声に従って、…あなたの神、主に立ち帰りなさい」と言った後に、「この戒めは難し過ぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。…御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」と話しています。長年待望して来た約束の地を目前にして、モーセの語ったこの言葉は、私たちの信じている神をどこか遠い海の彼方や、天高くに離れておられる方と考えないように、神はいつも私たちのごく近くに、ある意味では私たち自身の頭の考えよりも私たちの心の近くにおられて、私たちの話す言葉や私たちの心の思いの中でまでも働いて下さる方なのだ、と強調しているのではないでしょうか。察するに、モーセは自分の口や心の中での神のそのような神秘な働きを実際に幾度も体験し、神の身近な現存を確信していたのだと思われます。私たちも神のこの身近な臨在に対する信仰を新たにしながら、その神のひそかな御声に心の耳を傾け、神の働きに導かれて生活するよう心がけましょう。それが、私たちの本当の幸せに到達する道であると信じます。

② 本日の福音には、一人の律法の専門家が主に「永遠の命をいただくには、何をしなければなりませんか」と尋ねていますが、当時の律法学者たちは、旧約聖書に書かれている数多くの法や掟を、私たちの言行を律する外的理知的な法規のように受け止め、人間の力ではそれらを全部忠実に守り尽くすことはできないので、それらの内のどの法、どの掟を守ったら永遠の命をいただいて幸せになれるかを論じ合っていたようです。この律法学者も、その答えを主に尋ねたのだと思います。主が「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」とお尋ねになると、その人はすぐ「心を尽くし精神を尽くし、云々」と、申命記6章に読まれる愛の掟を口にしました。この掟は、今でもユダヤ教の安息日の儀式の中ほどに、声を大にして唱えられている、特別に重要視されている掟であります。ですから、その人の口からもすぐこの掟がほとばしり出たのでしょう。主は、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」とお答えになりました。しかしその人は、毎週幾度も口にしているこの掟の本当の意味内容を理解できずにいたようで、実行と言われても、何をどう実行したら良いのか判らず、「では、私の隣人とは誰ですか」と、まず隣人について主に尋ねました。主がそれに答えて話されたのが、「善きサマリア人の譬え」と言われる話であります。

③ ある人がエルサレムからエリコへ下って行く、石と岩ばかりが累々と10数キロも続く長い淋しい荒れ野の坂道で、追いはぎに襲われて衣服まで奪い取られ、半殺しにされてしまいました。そこに一人の祭司が、エルサレムでの一週間の務めを終えて帰る途中なのか、通りかかりました。しかし、その人を見ると、道の反対側の方を通って行ってしまいました。聖なるエルサレム神殿での聖なる勤めにだけ奉仕していて、穢れたものや血の穢れのあるものには関わりたくない、という心が強かったのかも知れません。同じように、神殿に奉仕しているまだ若いレビ人も通りかかりましたが、その人を見ると、道の反対側を通って過ぎ去って行きました。日頃綺麗な仕事にだけたずさわっていることの多い私たち修道者も、神の導きで全く思いがけずに助けを必要としている人に出遭ったら、その人を避けて過ぎ去ることのないよう、日頃から自分の心に言い聞かせていましょう。

④ 1962年の夏、私が夏期休暇でドイツのある修道院に滞在した時、その近くにあったアメリカ軍のバウムホルダーという、人口3万人程の大きなキャンプ場からの依頼で、そのキャンプのホテルに二週間滞在し、アメリカ人と結婚している日本人女性数人に洗礼前の教理を教えたことがありました。日曜日のミサに出席しましたら、ちょうど本日のこの福音が読まれ、その時の米軍チャプレンは説教の中で、信徒に具体的にわかり易く説明しようとしたのか、少し笑みを浮かべながら通り過ぎた祭司をユダヤ教の「神父」、レビ人を「神学生」と呼んでいました。現代のカトリック聖職者も気をつけていないと、苦しんでいる人や助けを必要としている人に対して、冷たく対応してしまうおそれがあるかと思います。皆生身の弱さを抱えている人間です。気をつけたいと思います。

⑤ 譬え話に戻りますと、最後にサマリア人の旅人、おそらく商用で旅行している人が来て、その傷ついた人を見ると、憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして自分の驢馬に乗せます。そして宿屋に連れて行って介抱します。ここでルカが書いている「見て、憐れに思い、近寄る」という三つの動詞の連続は、主がナインの寡婦の一人息子を蘇らせた奇跡の時にも登場しており、ルカが好んで使う一種の決まり文句のようも見えます。なお、「憐れに思う」という動詞は、新約聖書に12回使われていますが、主の譬え話の中で放蕩息子の父親や、僕に対する主人の行為として、また半殺しにされた人に対するサマリア人の行為として3回使われている以外は、新約聖書では全て主イエズスの行為、または神の行為としてのみ使われています。従って、譬え話にある放蕩息子の父親も僕の主人も、共に神を示しているように、この善いサマリア人の譬え話においても、サマリア人の中に愛の神が働いておられる、と考えてよいと思います。

⑥ 主はこの譬え話をなされた後で律法の専門家に、「この三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」とお尋ねになります。そして律法学者が「その人に憐れみの業をなした人です」と答えると、「あなたも行って、同じようにしなさい」とおっしゃいました。ここで、律法の専門家の「私にとって隣人は誰ですか」という質問に戻ってみましょう。主が「あなたにとって隣人はこの人です」と具体的に隣人を示して下さっても、その人に対する愛が生ずるとは限りません。この人を愛するよう神から義務づけられていると思うと、人間の心は弱いもので、その人に対する愛よりも嫌気が生じて来たりします。ですから主は、外から法的理知的にその人の隣人を決めようとはなさいません。実は、愛が自分の隣人を産み出すのです。しかもその場合、相手が自分に対して隣人になるのではなく、その人を愛する自分が、相手に対して隣人になるのです。このようにして主体的積極的に隣人を産み出し、隣人愛を実践することが、律法学者が始めに尋ねた「永遠の命をいただく」道なのです。同じことは、夫婦の相互愛についても言うことができると思います。そのようにして隣人愛・夫婦愛に生きる人の中で、苦しんでいる人・助けを必要としている人を見て、憐れに思い、近寄って助けて下さる神が働くのであり、その人は、自分の内に働くこの神の愛を、数々の体験によってますます深く実感し、自分の心が奥底から清められ高められて、日々豊かに強くなって行くのを見ることでしょう。私たちがそのような幸せな神の愛の生き方を実践的に会得できるよう、照らしと導きの恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2010年7月4日日曜日

説教集C年: 2007年7月8日 (日)、2007年間第14主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 66: 10~14c. Ⅱ. ガラテヤ 6: 14~18.
     Ⅲ. ルカ福音書 10: 1~12, 17~20.


① 本日の第一朗読は、イザヤ預言書の最後の章からの引用ですが、イザヤはここで、バビロン捕囚から解放されてエルサレムに帰国しても、祖国の再建を難しくする様々の困難に直面している民に向かって、喜んで神に従うよう励ましつつ、平和と慰め、繁栄と豊かさを約束して下さる神のお言葉を伝えているのだと思われます。48年前の1959年に、大きな明るい希望のうちに司祭に叙階された時の私は、ここに「エルサレムと共に喜び祝い、彼女のゆえに喜び躍れ」と言われている「エルサレム」を、勝手ながら救われる全人類と考えてみました。その頃の日本は既に敗戦後の暗い貧困状態から抜け出て、豊かな社会を築こうとして皆意欲的に働いているように見えましたし、戦後目覚しく復興した西ドイツでは、「経済的奇跡」という言葉が持て囃されていました。イザヤの預言には、ただ今ここで朗読されましたように「平和を大河のように、国々の栄えを洪水の流れのように」という言葉も読まれます。半世紀前からの世界の動きを振り返って見ますと、多発する数多くの不穏な動きにも拘らず、この預言はある意味で現代の多くの国でも実現していると考えてよいのではないでしょうか。

② しかし、2千年前のエルサレムがその繁栄の絶頂期に徹底的に破壊され、廃墟と化してしまったように、今文明の豊かさを謳歌している国々も、その繁栄を支えてくれている陰の力、神の働きに対する感謝と奉仕を蔑ろにし、神から離れて生きようとしていると、その繁栄の地盤が崩壊し、思わぬ液状化現象によって建物全体が根底から倒壊する恐れに、悩まされる時が来るのではないでしょうか。聖書の語る神からの警告に、心して深く学ぶよう努めたいものです。

③ 本日の第二朗読は、ガラテヤ書の結びの言葉といってよいですが、このガラテヤ書は、異邦人キリスト者も皆割礼を受けて、神から与えられた律法を順守しなければならないと説く、ユダヤ主義者の誤りを排除するために書かれた書簡であります。ガラテヤ書3章に述べられている教えによると、神がアブラハムとそのただ一人の子孫、すなわちキリストに約束なさった救いの恵みは、その430年後にできた律法に由来するものではなく、神の約束が律法によって反故にされたのでもありません。律法は、信仰によってキリストを受け入れるように導く養育係として、与えられたのです。しかし、今や信仰によってそのキリストと一致し、神の子となる時代が到来したのですから、私たちはもはや養育係の下にはおらず、律法を順守しなくてもよいのです。もはやユダヤ人とギリシャ人の区別も、奴隷と自由人の区別もなく、皆キリストにおいて一つとなって神の子の命に生き、神の約束なさった恵みを受け継ぐ者とされているのです。

④ 使徒パウロはこの観点から、私たちを人間中心の文化や思想や自力主義から解放してくれる、「主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」、「大切なのは、新しく創造されることです」などと、本日の朗読箇所で述べているのだと思います。「私は、イエスの焼印を身に受けているのです」という言葉は、焼印を押されて主人の持ち物とされ、主人の考え通りに働く古代の奴隷たちを連想させますが、使徒パウロは、それ程に全身全霊をあげて神の子イエスの内的奴隷となり、神中心に生きる「神の子」という新しい被造物に創造されることに打ち込んでいたのだと思われます。私たちも、この模範に倣うよう心がけましょう。

⑤ 本日の福音を書いたルカは、主が6章に選定された12使徒を村々へ神の国宣教のために派遣した話を、9章に記述しています。続く10章の始めにも、今度は他に72人を任命し、ご自分が行くつもりの全ての町や村へ、二人ずつ先に派遣されたと書いています。そして神の国の到来を宣べ伝え、病人を癒すために派遣された使徒たちと同様に、この72人の弟子たちも喜んで戻って来て、各人の仕事の成果を主に報告しています。ルカ福音書にだけ読まれるこの72人の指名と派遣の話は、ルカが、使徒たちだけではなく、救いの恵みを受けた一般信徒も、主から派遣されて自分の持ち場で出会う人々に、神の国の到来を証することの大切さを重視していた証拠だと思います。宣教は、教会から宣教師として公式に選ばれ派遣されている人たちだけが為す活動ではありません。第二ヴァチカン公会議は、教会は本質的に宣教師的であり、信徒も皆キリストの普遍的祭司職に参与していると宣言していますが、その教会に所属しているメンバーは皆、それぞれの持ち場、それぞれの生活の場で主から宣教の使命を頂いていると考えているからだと思います。

⑥ では、どのようにしてその使命を果たしたらよいでしょうか。本日の福音からヒントを得て、ご一緒に考えてみましょう。主は72人を派遣するに当たり、まず収穫のために働き手を送って下さるよう、収穫の主(すなわち天の御父・神)に願いなさい、と命じておられます。商工業の急速な発達で社会がどれ程豊かになっても、その豊かさの陰で自分の心の弱さ、未熟さを痛感させられ、悩んでいる人や道を求めている人は非常に沢山います。自分の心の欲を統御できずに、もう止めたい止めたいと思いながらも止められずに、アルコールや麻薬やギャンブルなどの奴隷のようになり、知りつつ健康を害している人や、良心の呵責に苦しみつつ資金作りのため悪事を働いている人も少なくありません。私は30数年前に、中学時代に親しかった同郷の優秀な下級生で、クレーン車操作の技術などで建築業界で活躍していた人が、アルコール依存症で仕事ができなくなり、妻子にも逃げられて入退院を繰り返し、遂に死ぬまでの間、一年間程その世話を担当したことがありますが、その時、自分の心を持ち崩したそういう人たちは、バランスよく健康に暮らしている人たちの何倍も多く深刻に苦しんでいることを、思い知らされました。2千年前のキリスト時代と同様、現代にも心の救いを捜し求めている人、必要としている人は大勢いるのではないでしょうか。

⑦ ですから主は、「収穫は多いが、働き手が少ない」とおっしゃったのだと思います。ここで「収穫」とあるのは、心の救いを必要としている人や捜し求めている人たちを指していると考え、また「働き手」とあるのは、何かの社会的資格を取って働く人ではなく、自分が体験した神の働きや神による救いを、感謝と喜びの内に他の悩んでいる人、求めている人の心に語り伝えることのできる人を指している、と考えてもよいと思います。主は、神の国の到来を証しするそういう働き手が少ないと嘆き、一人でも多くそういう働き手が増えるよう、天の御父に祈ることをお命じになったのだと思います。まず神が働き、その神から派遣されて実践的に証しするのが宣教だと思います。

⑧ 次に主は、このような信徒の派遣を「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」とも話しておられます。この世の一般社会には個人的あるいは集団的エゴイズムの精神で生活している人が大半で、そのような人たちにはいくら真面目に証ししても正しく理解されず、逆にその人たちと同じように考え行動するよう、強引に引き込まれることも起こり得ます。特に自分が何か、その人たちに利用価値ありと思われるような物を持っている場合には。それで主は、「財布も袋も履物も持って行くな。途中で誰にも挨拶するな」などと、警告なさったのだと思われます。しかし、神から自分に与えられた生活の場に入ったら、まず「この家に平和があるように」と神に祈りなさい。もしそこに神の平和を受けるに相応しい心の人がいるなら、あなた方の願った平和はその人の心に留まり、恵みをもたらすでしょうが、もしいなくとも、その平和は無駄にはならず、あなた方の上に戻って来るのです、と主は教えておられるのだと思います。このようにして、人から注目されるような富も能力も何もなくても、自分の魂に宿る神の働き、自分の頂いた神の恵みを出会う人たちに実践的に証しして、やがて主ご自身がその人たちに受け入れられるよう地盤造りをするのが、信徒の宣教活動だと思います。

⑨ 最後にもう一つ、主が「二人ずつ遣わされた」という言葉にも注目しましょう。釈尊は、ご自分が会得した人生苦超克の道を、できるだけ多くの人に伝えさせるために、弟子たちに一人ずつで行くようお命じになったそうですが、主が二人ずつ派遣なされたのは、何かの個人的悟りや生き方を伝えるためではなく、何よりもその二人が各人の考えや性格の違いを超えて、神の愛のうちに一致して働く実践を世の人々に実証させるためだと思います。我なしの積極的博愛のある所に神が臨在し、働いて下さるのですから。信徒の宣教活動の本質は、このような神の愛を証しすることである、と申してもよいのではないでしょうか。