2010年2月28日日曜日

説教集C年: 2007年3月4日 (日)、四旬節第2主日(三ケ日)

朗読聖書:Ⅰ. 創世記 15: 5~12, 17~18. Ⅱ. フィリピ 3: 17~4:1.
     Ⅲ. ルカ福音 9: 28b~36.

① 本日の第一朗読には、古代のメソポタミア平野に住んでいたシュメール人やアラム商人たちの古い慣習が登場しています。彼らは重大な契約を締結する時、牛や羊などの動物を二つに切り裂き、その間の空間を双方の契約者が通ることにより、もし契約に背いたらこのようにされても構いません、という意志の印にしていました。神がアブラムに、牛と山羊と羊と鳩という四つの清い家畜をそのように用意させたのは、最高度に重要な契約を締結し、アブラムにそれを必ず守るという保障を与えようという、神の特別な意志表明であったと思います。家畜たちを二つに切り裂くと、夜の暗闇が迫って来る頃まで、禿鷹が獲物を狙って何度も舞い下りて来たので、それを追い払っているうちにアブラムはすっかり疲れ、深い眠りに陥ったようです。すると真夜中頃でしょうか、突然煙を吐く炉と燃える松明が現れ、目を覚ましたアブラムの見ている前で切り裂かれた動物たちの間をゆっくりと通り過ぎ、こうして神はアブラムと契約を結ばれたのです。ただそこを通ったのは神だけでしょうから、双務契約ではなく、神の側からだけの堅い一方的約束であったようです。ですから、聖書にはしばしば「約束」という表現も使われています。この約束の背後にある、信ずる者たちを徹底的に信頼させ安心させようとしておられる、神の大きな愛を受け止めましょう。

② 本日の第二朗読に読まれる「今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」という使徒パウロの嘆きの言葉を忘れてはなりません。私たちの中の古いアダムの命が、死の苦しみに対してはあくまでも逃げ腰で、死についてなるべく考えないようにし勝ちなのはよく解ります。しかし、キリストが最も強く力説し、体現しておられる福音によると、神は私たちの死の背後に、主キリストにおいて復活の栄光を備え、提供しておられるのです。父なる神の御旨に徹底的に従った主と一致し、主の力に生かされ支えられて、暗い苦しい死の門、死のトンネルを抜け出てこそ、私たちの卑しい体も、主の栄光ある体と同じ姿に復活するのであることを、四旬節に当たって幾度も自分の心に言い聞かせましょう。そして自分の死の苦しみを先取りし、その苦しみを、主と共に多くの人の救いのために神にお献げする決意を新たに固めましょう。

③ 神から大きな愛をもって創造された私たち人間の本国は、忽ち過ぎ去るこの儚い苦しみの世にあるのではなく、本日の使徒パウロの言葉にもあるように「天に」、すなわち永遠に滅びることのないあの世にあるのです。そこに、私たちの本当の人生があるのです。その栄光の世を待ち望みながら、神に感謝し神を讃美しつつ、この苦しみの世を渡り歩きましょう。神は信仰と愛に生きるそのような人生の旅人を捜し求めておられるのか、その人に特別に慈しみの御眼を注いで下さいます。私はこの頃、数多くの人生体験を回顧しながら、このことを確信するようになりました。

④ 本日の福音にある主の御変容は、受難死直前の冬の時期に起こったのではなく、それよりも半年も前の夏の農閑期に起こった出来事であったと思います。以前にも話しましたが、マタイ、マルコ、ルカの三福音書に述べられているこの出来事の前後の文脈を調べてみますと、主は洗礼者ヨハネが殺された後には、時々ガリラヤから離れて異邦人の住んでいる地方に旅するようになり、ヘルモン山の南麓に広がるフィリッポ・カイザリア地方、今のバニヤス地方に滞在なされた時に、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と弟子たちにお尋ねになって、「あなたはメシア、生ける神の子です」というペトロの信仰宣言を聞いた後に、受難死と復活についての最初の予告をなさいました。主は受難死について予告なさる時は、いつも復活についても同時に予告しておられますが、しかしこのような受難予告は、弟子たちの心に少なからぬ不安と混乱とをもたらしたと思われます。

⑤ ご受難までにはまだ数ヶ月ありますので、主はそれまでの間、地上的栄光に満ちたメシア像という、ユダヤ人一般の通念から抜け出せずにいる弟子たちの心を、時間をかけて新しい真のメシア像を受け入れるよう教育しようと意図しておられたと思います。その最初の段階で、主は三人の弟子たちだけを連れて、マタイとマルコによると、最初の受難予告から「六日の後」「高い山に登られ」ました。ルカによると、一同は「翌日に」山を下りて、麓で大勢の群集と他の弟子たちとに迎えられていますし、マタイとマルコによると、一行はその後でガリラヤに行っていますから、ご変容の山は、ローマに反抗する暴動の発生したガリラヤでの不測の事態に備えて、当時ローマ軍の砦があったと聞く、ガリラヤ中央部の海抜588mのターボル山ではなかったと思われます。大ヘルモン山の辺りには標高2千メートル級の山が幾つもありますから、そのうちのどの山かは特定できませんが、そういう高い山で一夜を明かしたとしますと、それは始めにも申しましたように、夏の出来事であったと思われます。この世で世界を支配し、栄光の王座につくという現世的メシア像に囚われている弟子たちの心を、メシアの王国も栄光もあの世的なものであることを、体験を通しても段々と悟りへと導くために、主はまず三人の弟子たちと共にその山で一夜を過ごされたのだと思います。

⑥ 人間の日常生活から遠く離れた高い山の上は、シナイ山と同様に、神が顕現するにふさわしい場所です。本日の福音に述べられているように、主は「祈るために」その山に登られたのですが、弟子たちは数時間かけた登山に疲れて「ひどく眠たかった」ようです。主が祈っておられると、突然そのお顔も衣服も輝き始め、そこにモーセとエリヤが栄光に包まれて現れ、主がエルサレムで遂げようとしておられるエクソドスについて話していたそうです。exodosというギリシャ語の言葉は、神の民のエジプト脱出にも使われていて、この場合には約束された国への脱出・出発などを意味していますから、本日の福音にある邦訳の「最期」という言葉以上の、もっと深い意味を持っていたと思います。察するにモーセとエリヤは、メシアがエルサレムで迎えようとしておられる受難死と復活が、長年旧約の神の民が、また全人類が待望して来た悪魔の支配に対する勝利の時、罪と死の闇からの解放の時として歓迎し、主に励ましと感謝の言葉を述べていたのではないでしょうか。

⑦ 話が終わって二人が立ち去ろうとした時、この美しい至福の栄光を永く続かせようと思ったのか、ペトロが急いで「幕屋を三つ建てましょう」などと口走りました。その時、2千メートル級の高山には多い現象ですが、急に雲が皆を包んで、またすぐに過ぎ去りました。そしてその雲の中から「これは私の子、選ばれた者。これに聞け」という威厳に満ちた声が聞こえて、弟子たちは心に大きな畏れを覚えたようです。雲が通り過ぎた瞬間、そこには既に栄光の変容が消えて普通のお姿に戻っていた主イエスだけしかおられませんでした。神はこのようにして、せめて三人の弟子たちには、主が受難死の後に復活して入る至福の栄光を垣間見せて下さったのだと思います。死の苦しみは、父なる神が備えて待っていて下さる約束の国、天国の素晴らしい栄光への脱出過程なのです。主と内的に結ばれている私たちも皆、父なる神によってその栄光へと召されているのです。感謝と大きな明るい希望の内に、主と共に、死のトンネルを恐れずにあくまでも神に忠実に従って行く心構えを、今からしっかりと整え、堅めていましょう。

2010年2月21日日曜日

説教集C年: 2007年2月25日 (日)、四旬節第1主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 申命記 26: 4~10. Ⅱ. ローマ 10: 8~13.
     Ⅲ. ルカ福音 4: 1~13.

① 本日の第一朗読である申命記は、モーセが自分が神から受けた啓示やこれまでの神の導き、ならびに荒れ野で民が犯した不信の罪などを回顧しながら、神の民に残した戒めの書であります。その中でモーセは、先祖アブラハムのことを「アラム人」といっていますが、アラム人たちはメソポタミア北部の平原に住んでいた遊牧の民で、同時に商業活動にも従事していたようで、創世記11章によると、アブラハムも父テラと共に、メソポタミア平野南部の大きな町ウルに滞在しています。キリスト時代には、アラム商人たちがペルシャを中心にオリエント東部一帯で活躍しており、彼らの話すアラマイ語がシリアとパレスチナから東の諸地方一帯で、国際語のようになっていました。ガリラヤの庶民たちも普通にアラマイ語を話していましたから、主も旧約聖書に使われているヘブライ語によく似たこの言葉で、異教徒たちとも自由に話し合っていたと思われます。

② 本日の第一朗読の最後にあるモーセの言葉「あなたの神、主の前にそれ(すなわち自分の働きの実り)を供え、あなたの神、主の前にひれ伏しなさい」は、四旬節の修行を始めた私たちにとっても、大切な勧めだと思います。イスラム教徒は金曜日を、ユダヤ人は土曜日を安息日としていますが、20数年前に東京でその人たちの安息日の礼拝を参観させていただいた時の印象では、そこには敬虔に生活している人たちが多く出席していて、神を自分の人生の主、絶対的中心として深くひれ伏して礼拝していました。神から豊かに恵みを頂戴している私たちも、負けてはならないと思います。

③ 本日の第二朗読に読まれる、「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」という言葉も、軽く外的に受け止めないよう気をつけましょう。信仰を頭で理解している、いわば「頭の信仰」に生きている人にとっては、それは実に簡単で易し過ぎ、あまり意味のない条件に思われるかも知れません。しかし使徒パウロは、いわば「心の信仰」の立場でこの言葉を書いているのではないでしょうか。心は無意識界に属していますが、私たちの意志・望み・態度・実践などの本拠であり、日頃心に抱いている望み・不安・信仰などは、無意識のうちにその人の言葉や態度や夢などに表われ出るものです。頭で意識して受け入れた信仰が、心の中に根を下ろし、不屈の決意と結ばれた「心の信仰」となるには、度重なる実践が必要であり、時間がかかりますが、そのような「心の信仰」となる時に、私たちは義とされるのではないでしょうか。そしてその信仰を口でも公然と表明することによって、救いの恵みに浴するのだと思います。以前にも二度ほどアウグスティヌスの受洗者向け説教を引用して説明したことですが、聖体拝領の時に司祭が御聖体を見せながら「キリストの体」と言うと、拝領する信徒は「アーメン」と答えます。この「アーメン」は、御聖体の中での主の現存を信じ、主と一致して生きようとする心の信仰表明・決意表明ですので、小さな声で結構ですから、習慣的にならないよう心を込め、そこに現存なさる主に向かって表明するよう心がけましょう。口で公に表明して恵みを受けるのですから。

④ 本日の福音の始めには「イエスは聖霊に満ちて」という言葉があって、この福音箇所に続く次の段落の始めにも、「イエスは聖霊の力に満ちてガリラヤに帰った」という言葉が読まれます。この聖霊は救い主を敵の手から護り、その使命を全うさせるために与えられた神の力ですが、人祖の罪によってこの世の人間の心に対する大きな影響力・支配権を獲得している悪魔は、神と人間イエスとの間に割って入り、両者の絆を断ち切ろうとします。しかし、三度にわたる悪魔の試みは、いずれも申命記から引用された神の言葉により断固として退けられました。聖書に載っている神の言葉には、威厳に満ちた神の力が篭もっているからだと思います。私たちも、主や聖母の模範に学んで日々神の言葉を心の中に保持し、思い巡らしていましょう。いざ悪魔の誘いと思われる局面に出遭った時、断固としてその誘惑を退けることができるように。

⑤ examination という英語は「試験」と邦訳されていますが、試験の「試」、試みるという意味の漢字も、「験」、しるし・あかし・ききめという意味の漢字も、古い日本語では神の働きと関連して用いられていたと聞きます。神の御旨がどこにあるかを伺い試すのが「試」であり、その祈りに応えて与えられたしるしが「験」と考えられていたのだそうです。私たちも、絶えず謙虚に神の御旨を尋ね求め、それに従って生きるように努めたいものです。

⑥ しかし、聖書に使われている「試みる」というヘブライ語は、主語が神である時には「体験させる」「鍛える」「試す」などの意味合いになり、主語が人間で神に対して使われる時には「神の働きを不信の心で試す」という悪い意味になるのだそうです。神の霊は、時として私たちをも荒れ野のような苦境に追いやり、私たちの信仰を心底から鍛え上げようとなされたり、悪魔の誘惑に勝たせようとなされたりするかも知れません。そのような時には、本日の福音に描かれている主の模範を想起しながら、神の言葉の力に徹底的に身を献げ、決然として悪魔の誘惑を退ける恵みを、日ごろから神に願い求めていましょう。そうすれば、私たちは試練の度毎にますますしっかりと聖霊の働きに根ざし、ますます豊かに実を結ぶようになると信じます。

⑦ 主は、悪魔から「神の子なら、この石にパンになるよう命じたらどうだ」と誘惑された時、「人はパンだけで生きるものではない」という申命記の言葉でその誘いを退けておられますが、この言葉と共に、ヨハネ福音の4章34節に読まれる「私の食べ物は、私をお遣わしになった方の御旨を行い、その業を成し遂げることである」というお言葉も、合わせて心の中に留めて置きましょう。神や主キリストを、どこか遠く離れた天上の聖なる所に鎮座しておられる全知全能者と考え勝ちな「頭の信仰」者は、「神の御旨」と聞いても、それを何か自分の頭では識別し難い神のお望みやご計画と受け止めることが多いようですが、そんな風に静的に考えていたら、神の力は私たちの内に働かず、「神の御旨」は私たちの日々の糧にはなり得ません。主は天の御父の御旨をそんな風には考えず、今出遭っている目前の出来事の中でその御旨を神の霊によって鋭敏に感知し、その時その時のその具体的呼びかけに応えて、御旨の実行に努めておられたのだと思われます。

⑧ マザー・テレサのお言葉の中に、「遠い所にイエス様を探すのはお止めなさい。イエス様はあなたの側に、あなたと共におられるのです。常にあなたの灯火を灯し、いつでもイエス様を見るようにするだけです。その灯火を絶えず小さな愛のしずくで燃え続けさせましょう」というのがありますが、ここで「灯火」とあるのは、主の現存に対する心の信仰と愛の灯火だと思います。人間イエスも、目に見えない天の御父の身近な現存に対する信仰と愛の灯火を絶えず心に灯しながら、その時その時の天父の具体的御旨を発見しておられたのだと思います。主イエスにとって、「神の御旨」とはそういう身近で具体的な招きや呼びかけのようなものであったと思われます。それは、罪によって弱められ暗くされている私たち人間の自然的理性の光では見出せないでしょうが、心が聖霊の光に照らされ導かれるなら、次第に発見できるようになります。

⑨ 難しい理屈などは捨てて、幼子のように単純で素直な心になり、目前の事物現象の内に隠れて伴っておられる神に対する信仰と愛の灯火を心に灯して下さるよう、まず聖霊に願いましょう。日々己を無にして、この単純な願いを謙虚に続けていますと、心に次第に新しいセンスが生まれて働き出すようになります。そして小さくてもその時その時の神の御旨と思われるものを実践することに努めていますと、その実践を積み重ねるにつれて、次第に自分に対する神の深い愛と導きとを実感し、心に喜びと感謝の念が湧き出るのを覚えるようになります。人間イエスも聖母マリアも、このようにして「神の御旨」を心の糧として生きておられたのではないでしょうか。それは、実際に私たちの心を内面から養い強めて下さる霊的糧であり、弱い私たちにも摂取できる食べ物なのです。マザー・テレサも、その他の無数の聖人たちも、皆そのようにして深い喜びの内に心が養われ、逞しく生活できるようになったのではないでしょうか。四旬節の始めに当たり、私たちも決心を新たにして、主が歩まれたその聖なる信仰と愛の道を、聖霊の力によって歩み始めましょう。

2010年2月14日日曜日

説教集C年: 2007年2月11日 (日)、第6主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. エレミヤ 17: 5~8. Ⅱ. コリント前 15: 12, 16~20.  Ⅲ. ルカ福音 6: 17, 20~26.

① 本日の第一朗読には、「呪われよ、人間に信頼し、….その心が主を離れ去っている人は」という恐ろしい呪いの言葉が読まれますが、エレミヤ預言者が神のこの言葉を受けた時は、ユダ王国の民は神からの呼びかけに従わずに、エジプトと手を結んでバビロニアの軍事力に抵抗しようとしていました。神の声に従おうとしていないその罪に対して、神は「呪われよ」という厳しい言葉で警告しているのです。

② 私たち人間は、とかく物事を今見える地上の現象からだけ考察して、もし今大きな危険や困難が目前に迫って来ているのでなければ、一部の慧眼の士や預言者が何と警告しても、それらの言葉を聞き流し勝ちですが、しかし、私たちが実際に生きているのは目前の地上世界だけではなく、もっと遥かに高さ深さのある大きな立方の世界であり、絶えず太陽から光や熱のエネルギーを受けたり、土の中深くにある流動的なマグマに支えられたりしながら生活を営んでいるのです。今目前には危険の兆候が全くなくても、人間の予測を遥かに超える大災害が、上の世界からも下の世界からも私たちの生活を破局に陥れる可能性は排除できません。この不安な現実世界全体を創造し支配しておられるのは、目に見えない神であります。私たちが今日あるのは、ひとえにその神のお蔭であり、神が私たちを愛し、護り、私たちのために全てのことを配慮して下さっているお蔭であることを忘れてはなりません。

③ 何よりもその神の導きに心の眼や耳を向け、それに信頼し従って生きる人々には、第一朗読の後半に「祝福されよ」という言葉で始まる神による保護と豊かな実りの恵みが、神ご自身によって約束されています。エレミヤは、神による呪いと祝福とを対比させて、人々から神の言葉に対する信頼と従順を求めているのです。危険や困難の多い現代においても、私たちの一番心がけるべきことは、神に感謝し、日々神と内的に深く結ばれて生きることであることを、あらためて心にしっかりと言い聞かせながら、生活するよう心がけましょう。

④ 毎日『教会の祈り』を唱えていて、また皆さんと一緒に詩篇や讃歌などを歌唱していて、この頃特に感じているのは、聖書時代に信仰に生きていた人たちは、日々目前に見ている自然現象や人との出遭い・交わり、あるいは国王や民族・国家などの背後に、いつも神の働き、導きや警告などを観ていたのではなかろうかということです。Magnificat やBenedictus の讃歌を日々愛唱していて、後年それをルカにも伝えたと思われる聖母マリアも、それらを唱えてザカリアの家での体験と感動を追体験しながら、今現に見聞きしている出来事の内に神の働きを生き生きと感知したり、神を讃えたりしておられたのではないでしょうか。私たちも詩篇や讃歌を歌唱する時、神をどこか遥かに遠い所で私たちの祈りを聞いておられる方とは思わずに、聖書時代の信仰者たちの感動を追体験しつつ、すぐ身近に現存しておられる神にその祈りを献げるように心がけましょう。

⑤ 本日の福音はマタイ5章の山上の説教の始めによく似ていますが、両者の間には大きな相違もあります。マタイの「幸いなるかな」は三人称で語られていて、何か生き方や心構えの規範や原則のようなものを並べて提示しているという印象を与えますが、ここでは二人称で語られていて、今現にそこに何かを求めに来ている夥しい民衆に、じかに強く呼びかけているという印象を与えています。それである聖書学者は、ルカのこの記事のほうが、主キリストが多くの民衆に話された時の状況に近いものであり、マタイはその話を自分なりに少し手を加えて提示したのではないかと考えています。

⑥ またマタイは幸いな人々の方だけを並べ立てていますが、ルカでは今飢え、今泣いている貧しい人々の仕合せを説いた話の後で、今満腹し、今笑っている富んでいる不幸な人々についての話も続いています。しかし、「富んでいるあなた方は、不幸である」などという、切り捨てるような言い方は、無数の貧しい人々に混じって、今そこに満腹し笑っている金持ちたちも来ていることを示しているのではなく、そこにはいなくても実社会の中にそのように生活している、無数の富める人々を指している言葉であるか、あるいはここで言われている「貧しい人」「富める人」は、いずれも理念的に捉えられた対照的に異なる二種類の人間像を指している言葉である、と考えられます。いずれにしても、ルカはマタイと違って、生き方や心構えの規範についてではなく、今現に生きている人間の姿について語っているのだと思われます。

⑦ それで私は少し勝手ながら、同一の人間の中に、幸いな貧者の生き方をする傾向と不幸な富者の生き方をする傾向とが共存しており、主は目前に集まっている大群衆の各人の心の中に混在して生きているこの二つの傾向に対して、それぞれ別々に呼びかけられたのだと考えます。貧しさそれ自体は、人を幸いにしませんが、貧しさ故に心が神を一心に求め、神にすがることを体得するに到るなら、その人は幸いだと思います。献身的な愛と従順を尊ぶ神の国はそのような人々のものなのですし、その人はやがて神によって心が豊かに満たされるのを体験するに至るでしょうから。

⑧ しかし、外的には貧しくとも神を求めず、神に頼ろうともせず、ただ社会を批判し、嘲笑するだけの自分中心の心に立て篭もっているなら、その人はある意味で、社会を利己的に利用しようとしている「富んでいる人々」、「今笑っている人々」のグループに属しているのではないでしょうか。そのような人々は、罪に穢れた私たちのこの世を、永遠に続く聖なる新しい愛の世界に変えるため、神が徹底的に滅ぼし浄化される終末の時、不安と恐ろしさで悲しみ泣く、不幸な人間になるのではないでしょうか。

⑨ なお主がここで、「神の国はあなた方のものである」、「人々に憎まれ、人の子のために追い出される時、….あなた方は幸いである」などと、現在形で話しておられることも、注目に値します。神の国は、既に主イエスの聖心の内に実現している現実であり、あなた方のすぐ傍にまで来ていること、望むならすぐに自分のものにできることを示している現在形であると思います。また主が、「もし万一人々に憎まれるなら」という一つの発生可能な事態について話されたのではなく、「人々に憎まれる時」と表現しておられることも、注目に値します。人の子のためにこの世の支配者サタンから、また神を拒否する世俗の人々から憎まれ排斥されるということは、表立ってはいなくても、今既に事ある毎に私たちを悩ます隠れた現実であることを示している現在形であると思います。神の国は、既に日々聖体拝領をしている私たちのものとなっていること、また心にお迎えした主と共に生活している私たちは、今日もサタンから憎まれていることを心に銘記しながら、覚悟を新たにして本日のミサ聖祭をお献げ致しましょう。

2010年2月7日日曜日

説教集C年: 2007年2月4日、第5主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 6: 1~2a, 3~8. Ⅱ. コリント前 15: 1~11.
     Ⅲ. ルカ福音 5: 1~11.


① 先週の日曜日には、内気な性格のエレミヤ預言者の召命についての朗読がありましたが、本日の第一朗読は、積極的性格のアモツの子イザヤ預言者の召命についての話であります。「ウジヤ王が死んだ年のこと」とありますが、それは紀元前735年頃のことだったようです。国威を内外に宣揚したウジヤ王を失って、国民の間ではこれからの時代や社会などについて、不安が囁かれていた時であったかも知れません。イザヤはそういう国情の時に、神から預言者になるよう召されたのではないでしょうか。イザヤはエルサレム神殿で、天高くにある御座に座しておられる神なる主と、その衣のすそが神殿いっぱいに広がっている、壮大な情景の幻を見ました。上空には大天使セラフィムたちが互いに呼び交わして、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と歌っていました。その荘厳盛大な讃歌で、神殿は揺れ動き、煙に満たされるに至りました。

② 罪ある人間が神を見たら死ぬ、と信じられていた時代でしたので、イザヤは「災いだ。私は滅ぼされる」と叫びました。するとセラフィム天使のひとりが飛んで来て、祭壇から火ばさみで取った炭火をイザヤの口に触れさせて、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と言いました。イザヤが自分の罪におののくとすぐ、その罪を赦し取り除いて下さる神に出会ったのであります。その時、「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」という神の御声が響き渡ったので、罪の赦しを体験したイザヤはすぐに、「私がここにいます。私を遣わして下さい」と答え、自分を浄めて下さった神の預言者となったのでした。自分の聖書研究に基づいてではなく、神からの幻・啓示に基づき、神から派遣されて働こうとしていることも大切です。

③ 本日の第二朗読は、「私があなた方に告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます」という言葉で始まっていますが、パウロはなぜ「もう一度」と言うのでしょうか。それは、本日の朗読の後に続く、15章後半部分を読むと判ります。主キリストが聖書に書いてある通りに私たちの罪のために死んだことと、三日目に復活したこととは、この出来事の目撃証人たち数百人のうちの大部分が今なお生存しているので、主の復活後まだ20年ほどの時点で、パウロが宣べ伝えた福音を聞いて受洗したコリントの信徒たちは、復活した主キリストのご出現の出来事について、誰も疑っていません。しかし、この世の肉体を天からの追放された霊魂の牢獄のように考え軽視するギリシャ哲学の思想に従って、各人の霊魂が再びその肉体に繋がれる復活などはあり得ないと考え、主張していた信徒もいたようです。そこでパウロはもう一度、復活の福音をはっきりと告げ知らせようとしたのだと思います。

④ 復活はないと言う信徒たちは、神から派遣された神の子キリストと私たち人間との関係を何か外的なものと考え、主は死後も弟子たちに人間の姿をとって出現したかも知れないが、だからと言って、私たちの体も同様に復活するのではないと主張していたようです。これに対して使徒は、キリストは死の眠りについた者たちの初穂として復活したのである、と説いています。「初穂」というのは、他の穂たちに先んじてパッと先に出る穂ですが、内的には他の穂たちと同じ一つの命に結ばれ生かされて、一つの生命共同体を形成しています。ですから、そのキリストの体が復活したのであるなら、復活は実際に存在する現実であり、キリストの命に結ばれ生かされている私たちも、後で実際に復活するのですというのが、15章後半で強調するパウロの教えであります。その前置きをなす本日の第二朗読でもパウロは、キリストの教会を迫害し、使徒と呼ばれる値打ちのない自分が神の恵みによって改心し、こうして他の使徒たちよりも多く働いているのは、自分の力によるのではなく、ひとえに神の恵みの力によるのであり、私たちを復活させる神の恵みの力は既にこの身に働いているのです、と説いています。私の伝えたこの福音をしっかりと保ち、それに従って生活していれば救われますが、さもないと、あなた方の信じたことは皆無駄になってしまうでしょうというのが、この第二朗読の骨子だと思います。

⑤ 洗礼を受けた私たちの人生には、神から一つの使命が与えられています。それは使徒パウロと同様に、まだこの世にいる時から神の恵みの力、私たちを復活させる神の力に、日々実践的にしっかりと結ばれて生きること、そしてその信仰と希望の喜びに支えられている生き方を、他の人々にもバトンタッチして行く使命だと思います。自分中心に考え生きようとすることに死んで、ひたすら神の福音中心に生かされて生きることに、私たちの本当の生きがいがあります。私たちはこの、駅伝に譬えることもできる信仰の生き方を既に体得し、日々喜んで実践しているでしょうか。

⑥ 本日の福音では、主イエスとペトロの人生、ペトロの召し出しがテーマになっているようです。神の御言葉を聞こうとして押し寄せて来た群集に押されるようにして岸辺にまで来た主は、そこに二そうの舟と数人の漁夫たちとを御覧になり、舟から上がって網を洗っていたペトロの舟に乗せてもらい、岸から少し漕ぎ出すように頼んで、その舟の中から岸辺にいる群衆に教えを説きました。話し終えるとペトロに、沖の方に少し漕ぎ出して網を下ろすようお頼みになりました。夜通し漁をして疲れている漁の専門家ペトロは、昼の今時、せっかく洗い終わった網を下ろしても何も取れず、無駄であるとは知っていましたが、猟師でない先生の「お言葉ですから」と、いわばその先生に対する好意と尊敬のしるしとして、またその無駄と思う仕事を先生にお見せする心で、網を下ろしたのだと思われます。日本語の訳文では網を下ろす主語が省かれていますが、ギリシャ語原文では「私が」となっていて、夜通し働き続けた「私たちが」ではありません。ペトロは、どうせ魚はいないのだからと、仲間たちには協力を願わず、ごく軽い気持ちで網を下ろしたのでしょう。ところが夥しい魚がかかって網が破れそうになったので、岸辺にいたもう一艘の舟の仲間たちに合図して助けてもらい、二艘の舟は沈みそうになる程、魚でいっぱいになりました。

⑦ この大漁体験に驚き恐縮したペトロは、少し前には「ラビ(先生)」とお呼びした主の足元にひれ伏し、「キリエ(主よ)」とお呼びして、自分の罪深さを告白しました。心が自分の罪深さを直感して畏れにおびえる程、自分の舟に乗っておられる主の内に、神の力、神の臨在を痛感したのだと思います。主はそれに答えて、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と話し、ペトロを新しい人生へとお召しになり、ペトロとその仲間たちは、全てを捨てて主に従いました。ここで「人間をとる」と訳されている動詞は、語源から見ると、形容詞「生きる」と動詞「捕る」との合成語で、捕まえて生かすという意味合いの言葉だそうです。それで、ある聖書学者は「人間を生け捕る」と邦訳していますが、「生け捕る」には捕虜にするという意味もありますので、邦訳は難しいです。しかしとにかく、ここでは食べるためや何かの利益を得るために捕らえるのではなく、その人々にもっと遥かに仕合わせな、新しい自由な生き方をさせるために捕らえることを意味していると思います。自分の考えやこの世の常識に従ってではなく、今の自分には理解し難い主のお言葉にも素直に従って奉仕しようと努めたことにより、この新しい生きがいと神の大きな祝福とを見出すに到った使徒ペトロに倣って、私たちも不動の法厳守や何かの人間的常識よりも、私たちの日常茶飯事の中に思わぬ形で出会うことの多い神の御旨やお導きに、すぐ素直に従うことを優先する心構えを日ごろから磨き、大切にしていましょう。最高のものは、私たちの心を危険から守るために与えられている不動の法ではなく、私たちの心を内側から活かす愛の神の神秘な働きや動的御旨なのですから。