2010年2月7日日曜日

説教集C年: 2007年2月4日、第5主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 6: 1~2a, 3~8. Ⅱ. コリント前 15: 1~11.
     Ⅲ. ルカ福音 5: 1~11.


① 先週の日曜日には、内気な性格のエレミヤ預言者の召命についての朗読がありましたが、本日の第一朗読は、積極的性格のアモツの子イザヤ預言者の召命についての話であります。「ウジヤ王が死んだ年のこと」とありますが、それは紀元前735年頃のことだったようです。国威を内外に宣揚したウジヤ王を失って、国民の間ではこれからの時代や社会などについて、不安が囁かれていた時であったかも知れません。イザヤはそういう国情の時に、神から預言者になるよう召されたのではないでしょうか。イザヤはエルサレム神殿で、天高くにある御座に座しておられる神なる主と、その衣のすそが神殿いっぱいに広がっている、壮大な情景の幻を見ました。上空には大天使セラフィムたちが互いに呼び交わして、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と歌っていました。その荘厳盛大な讃歌で、神殿は揺れ動き、煙に満たされるに至りました。

② 罪ある人間が神を見たら死ぬ、と信じられていた時代でしたので、イザヤは「災いだ。私は滅ぼされる」と叫びました。するとセラフィム天使のひとりが飛んで来て、祭壇から火ばさみで取った炭火をイザヤの口に触れさせて、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と言いました。イザヤが自分の罪におののくとすぐ、その罪を赦し取り除いて下さる神に出会ったのであります。その時、「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」という神の御声が響き渡ったので、罪の赦しを体験したイザヤはすぐに、「私がここにいます。私を遣わして下さい」と答え、自分を浄めて下さった神の預言者となったのでした。自分の聖書研究に基づいてではなく、神からの幻・啓示に基づき、神から派遣されて働こうとしていることも大切です。

③ 本日の第二朗読は、「私があなた方に告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます」という言葉で始まっていますが、パウロはなぜ「もう一度」と言うのでしょうか。それは、本日の朗読の後に続く、15章後半部分を読むと判ります。主キリストが聖書に書いてある通りに私たちの罪のために死んだことと、三日目に復活したこととは、この出来事の目撃証人たち数百人のうちの大部分が今なお生存しているので、主の復活後まだ20年ほどの時点で、パウロが宣べ伝えた福音を聞いて受洗したコリントの信徒たちは、復活した主キリストのご出現の出来事について、誰も疑っていません。しかし、この世の肉体を天からの追放された霊魂の牢獄のように考え軽視するギリシャ哲学の思想に従って、各人の霊魂が再びその肉体に繋がれる復活などはあり得ないと考え、主張していた信徒もいたようです。そこでパウロはもう一度、復活の福音をはっきりと告げ知らせようとしたのだと思います。

④ 復活はないと言う信徒たちは、神から派遣された神の子キリストと私たち人間との関係を何か外的なものと考え、主は死後も弟子たちに人間の姿をとって出現したかも知れないが、だからと言って、私たちの体も同様に復活するのではないと主張していたようです。これに対して使徒は、キリストは死の眠りについた者たちの初穂として復活したのである、と説いています。「初穂」というのは、他の穂たちに先んじてパッと先に出る穂ですが、内的には他の穂たちと同じ一つの命に結ばれ生かされて、一つの生命共同体を形成しています。ですから、そのキリストの体が復活したのであるなら、復活は実際に存在する現実であり、キリストの命に結ばれ生かされている私たちも、後で実際に復活するのですというのが、15章後半で強調するパウロの教えであります。その前置きをなす本日の第二朗読でもパウロは、キリストの教会を迫害し、使徒と呼ばれる値打ちのない自分が神の恵みによって改心し、こうして他の使徒たちよりも多く働いているのは、自分の力によるのではなく、ひとえに神の恵みの力によるのであり、私たちを復活させる神の恵みの力は既にこの身に働いているのです、と説いています。私の伝えたこの福音をしっかりと保ち、それに従って生活していれば救われますが、さもないと、あなた方の信じたことは皆無駄になってしまうでしょうというのが、この第二朗読の骨子だと思います。

⑤ 洗礼を受けた私たちの人生には、神から一つの使命が与えられています。それは使徒パウロと同様に、まだこの世にいる時から神の恵みの力、私たちを復活させる神の力に、日々実践的にしっかりと結ばれて生きること、そしてその信仰と希望の喜びに支えられている生き方を、他の人々にもバトンタッチして行く使命だと思います。自分中心に考え生きようとすることに死んで、ひたすら神の福音中心に生かされて生きることに、私たちの本当の生きがいがあります。私たちはこの、駅伝に譬えることもできる信仰の生き方を既に体得し、日々喜んで実践しているでしょうか。

⑥ 本日の福音では、主イエスとペトロの人生、ペトロの召し出しがテーマになっているようです。神の御言葉を聞こうとして押し寄せて来た群集に押されるようにして岸辺にまで来た主は、そこに二そうの舟と数人の漁夫たちとを御覧になり、舟から上がって網を洗っていたペトロの舟に乗せてもらい、岸から少し漕ぎ出すように頼んで、その舟の中から岸辺にいる群衆に教えを説きました。話し終えるとペトロに、沖の方に少し漕ぎ出して網を下ろすようお頼みになりました。夜通し漁をして疲れている漁の専門家ペトロは、昼の今時、せっかく洗い終わった網を下ろしても何も取れず、無駄であるとは知っていましたが、猟師でない先生の「お言葉ですから」と、いわばその先生に対する好意と尊敬のしるしとして、またその無駄と思う仕事を先生にお見せする心で、網を下ろしたのだと思われます。日本語の訳文では網を下ろす主語が省かれていますが、ギリシャ語原文では「私が」となっていて、夜通し働き続けた「私たちが」ではありません。ペトロは、どうせ魚はいないのだからと、仲間たちには協力を願わず、ごく軽い気持ちで網を下ろしたのでしょう。ところが夥しい魚がかかって網が破れそうになったので、岸辺にいたもう一艘の舟の仲間たちに合図して助けてもらい、二艘の舟は沈みそうになる程、魚でいっぱいになりました。

⑦ この大漁体験に驚き恐縮したペトロは、少し前には「ラビ(先生)」とお呼びした主の足元にひれ伏し、「キリエ(主よ)」とお呼びして、自分の罪深さを告白しました。心が自分の罪深さを直感して畏れにおびえる程、自分の舟に乗っておられる主の内に、神の力、神の臨在を痛感したのだと思います。主はそれに答えて、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と話し、ペトロを新しい人生へとお召しになり、ペトロとその仲間たちは、全てを捨てて主に従いました。ここで「人間をとる」と訳されている動詞は、語源から見ると、形容詞「生きる」と動詞「捕る」との合成語で、捕まえて生かすという意味合いの言葉だそうです。それで、ある聖書学者は「人間を生け捕る」と邦訳していますが、「生け捕る」には捕虜にするという意味もありますので、邦訳は難しいです。しかしとにかく、ここでは食べるためや何かの利益を得るために捕らえるのではなく、その人々にもっと遥かに仕合わせな、新しい自由な生き方をさせるために捕らえることを意味していると思います。自分の考えやこの世の常識に従ってではなく、今の自分には理解し難い主のお言葉にも素直に従って奉仕しようと努めたことにより、この新しい生きがいと神の大きな祝福とを見出すに到った使徒ペトロに倣って、私たちも不動の法厳守や何かの人間的常識よりも、私たちの日常茶飯事の中に思わぬ形で出会うことの多い神の御旨やお導きに、すぐ素直に従うことを優先する心構えを日ごろから磨き、大切にしていましょう。最高のものは、私たちの心を危険から守るために与えられている不動の法ではなく、私たちの心を内側から活かす愛の神の神秘な働きや動的御旨なのですから。