2011年10月16日日曜日

説教集A年:2008年10月19日年間第29主日(三ケ日で)

第1朗読 イザヤ書 45章1、4~6節
第2朗読 テサロニケの信徒への手紙一 1章1~5b節
福音朗読 マタイによる福音書 22章15~21節
 
① 本日の第一朗読には、バビロンを征服してペルシャ帝国を築いた最初のペルシャ王キュロスの名前が登場しています。キュロスが紀元前539年に、大河ユーフラテス川と高い城壁に守られて難攻不落と言われていたバビロン城を、わずかの間に忽ち攻め落とすことができたのは、そこに神の特別な援助があったからだと思われます。神の霊が人々の心の中で働いたのでしょうか、ちょうどそのころバビロン王の支配に不満を持つ支配者たちが大国バビロニアの各地に急増し、キュロスの軍隊が来ると、次々とその味方に転向しましたが、バビロン城内にも国王を裏切って、キュロス軍に城門を開いた人たちがいたようです。第一朗読にある「扉は彼の前に開かれ、どの城門も閉ざされることはない」という神の言葉は、そのことを指していると思います。

② それに続いて聖書に、「私はあなたの名を呼び称号を与えたが、あなたは知らなかった。云々」という言葉にある「あなた」は、キュロスを指しています。神はイスラエル人だけの神、イスラエル人だけの主であると考えてはなりません。神はキュロスにも、「私は主、他にはいない。私をおいて神はない。云々」と話しておられるのですから。キュロス自身はその神をはっきりとは知らずにいたかも知れません。神は彼に「私はあなたの名を呼び称号を与えたが、あなたは知らなかった」「あなたに力を与えたが、あなたは知らなかった」とありますから。しかし、神の不思議な助けははっきりと自覚し、そういう神を崇める全ての民に寛大であろうとしたのだと思われます。神は既にメソポタミアの異教文化の中に生まれ育った太祖アブラハムにも、「地上の氏族は全てあなたによって祝福に入る」(創12:3)「世界の全ての国民はあなたによって祝福に入る」(創19:18)、「地上の諸国民は全て、あなたの子孫によって祝福を得る」(創23:18)などと話しておられて、異教文化の中に生まれ育つ無数の人々をも祝福し、その人たちの神・主であられることを示しておられます。

③ しかし、そのアブラハムの血を受け継いだイスラエルの民の多くが、太陽暦と多神教の大国エジプトで豊かな安定した生活を続けているうちに、アブラハム的信仰生活をしなくなったために、その心を新しく目覚めさせるために、神はまず彼らにエジプト人たちから厳しく酷使されるという苦しい奴隷労働を体験させ、それからモーセを介しての数多くの奇跡によりエジプトから脱出させ、シナイ山で十戒や祭式制度を与えて、彼らと新たな契約を結び、イスラエルの民が神信仰から離れ難くするために、一種の民族宗教を創設させたのです。それはイスラエルの民だけの宗教ですので、この宗教に入らなければ救われない、などと考えてはなりません。しかし、旧約聖書から明らかなように、神はこの宗教に所属する民に特別に多くお語りになり、神の御独り子を人類の救い主メシアとして迎える地盤造りをさせました。

④ 2千年ほど前にその地盤の上にお生まれになったメシアは、その民の民族宗教を内側から変革して、律法中心ではなく、広い神の愛中心の世界宗教に高めようとなさったのですが、ごく一部の人たちを除き、民は伝統的民族宗教に留まり続けました。しかし、メシアによって導入された世界宗教はキリスト教と呼ばれて、今や全世界のほとんど全ての国に宣べ伝えられています。それは異教文化と敵対するものではなく、ユダヤ教をも異教文化をも神の霊によって内的に一層豊かにし、神中心の生き方へと高めようとするものだと思います。ご存じのように、本日10月の第三日曜日はカトリック教会で「世界宣教の日」とされています。それで本日のミサ聖祭は、主イエスによって導入されたこのキリスト教信仰が、異教徒や不信仰者たちの間に正しく理解され受け入れられるよう、神の照らしと導きの恵みを祈り求めてお献げしたいと思います。ご一緒にお祈り下さい。

⑤ 本日の第二朗読はテサロニケ前書の冒頭からの引用ですが、新約聖書の中でこの書簡が最も早くに書かれた文書と考えられています。使徒パウロは、テサロニケの信徒たちがキリスト教信仰を受け入れ、その信仰を堅持していることを神に感謝した後、「私たちの福音があなた方に伝えられたのは、言葉だけによらずに、力と聖霊と強い確信によったからです」と書いています。この最後の言葉は、現代においても大切だと思います。神の子イエスの福音宣教は、何よりも各人の奥底の心を目覚めさせ、それまでの人間中心の生き方を根本的に悔い改めさせて、神中心に心から信じ祈り生活させる信仰生活に導くことでした。単に言葉だけで宣教したのでは、教えは相手の頭に正しく理解されたとしても、奥底の心を目覚めさせることはできないと思います。宣教する人の奥底の心が力と強い確信に満たされて語ってこそ、言葉が多少不完全であっても、相手の奥底の心に訴えて、その心を信仰へと導くのではないでしょうか。奥底の心が目覚めれば、そこに神の霊が働き始めます。悩む人、新しい道を模索している人の多い現代社会においても、そのような宣教活動が盛んになって、一人でも多くの人がキリスト教信仰に生かされるよう祈りましょう。

⑥ 本日の福音の最後に読まれる「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という主イエスの御言葉も、深い意味を秘めていると思います。私たちのキリスト教は、ユダヤ教のような民族宗教ではありません。私たちは、先祖から受け継いだ宗教文化をなるべくそのままに子孫に伝えて行こう、旧約の「律法に適っている」かどうかを問題にしているのではありません。「あなたたちは行って、全ての国の人を(私の)弟子にしなさい」「私は世の終わりまで、いつもあなたたちと共にいる」という主の御言葉に従って、積極的に他の国々や他の宗教文化の人たちの所へ出て行き、その人たちの生き方や文化を内面から真の神中心のものに高めて行くよう、神から求められているのです。主イエスはこの世の皇帝に対しても御心を大きく開いておられるのです。としますと、単に自分が過去から受け継いだものだけではなく、キリスト教信仰を伝えて行くべき相手国の伝統や文化をも尊重しつつ新しく学び、そこに信仰の種を根付かせるよう努める必要があります。これが、1980年代から唱道されるようになったインカルチュレーションという働きだと思います。したがって福音宣教には、神から受け継いだものへの忠実とそれを伝えるべき世界への愛の配慮という、両方の努力がバランスよくなされる必要があります。本日の福音に読まれる「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という主の御言葉は、そのことをもほのめかしているのではないでしょうか。それは簡単なようでいて、現実には意外と難しいと思います。神の霊の照らしと導きによって、現代世界への宣教活動が豊かな実を結びますよう、お祈り致しましょう。

2011年10月9日日曜日

説教集A年:2008年10月12日年間第28主日(三ケ日で)

第1朗読 イザヤ書 25章6~10a節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙 4章12~14、19~20節
福音朗読 マタイによる福音書 22章1~14節
 
① ご存じのように、イザヤ書の1章から39章までは、紀元前8世紀の末葉に第一イザヤ預言者が語った預言とされています。しかし、本日の第一朗読を含む24章から27章までは、「イザヤの黙示」と呼ばれていて、その百数十年後のバビロン捕囚からの解放を待ち望んでいる神の民への、神の言葉でもあるようです。そこには、エルサレムの都を破壊して荒廃させ、祭司も住民も捕虜が集められるようにして投獄される、恐ろしい神の裁きと、その後に都が再び神によって新しく建て直される様子が、具体的に描かれているからです。それで、紀元前6世紀半ばになってから書き入れられたのではないか、などと考える人もいるようです。しかし、神は遠い将来のことも預言者に啓示してお語りになることもできる方ですので、事実はどうであったは分かりません。

② 本日の第一朗読には、前半に「主はこの山で、全ての民の顔を包んでいた布と、全ての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼして下さる。主なる神は、全ての顔から涙をぬぐい、ご自分の民の恥を地上からぬぐい去って下さる」という言葉が読まれますが、これは単にバビロン捕囚後のエルサレムのことだけではなく、むしろもっと遥かに遠い将来の、世の終わり後の救われる人類についての預言ではないでしょうか。そして朗読の後半に読まれる、「その日に人は言う。見よ、この方こそ私たちの神。私たちは待ち望んでいた。この方が、私たちを救って下さる。云々」の話も、世の終わりの大波乱後に神の働きによって救い出された人たちの口にする言葉なのではないでしょうか。私はイザヤ預言書に読まれるこれらの預言は、バビロン捕囚後のイスラエル民族についてのことより、むしろ世の終わりに直面した人類についての預言と考えています。

③ 本日の第二朗読は、フィリッピの信徒団に宛てた書簡の最後の章からの引用ですが、使徒パウロはここで、ローマで囚われの身となっている自分に対するフィリッピの信徒たちの各種の援助に感謝しています。そして「私の神は」「キリスト・イエスによって、あなた方に必要なものを全て満たして下さいます」という、フィリッピの信徒たちに対する感謝の信仰を表明しています。囚われの身である使徒自身は受けたご恩に何もお返しできなくても、自分の命をかけてお仕えしている神が彼らのその親切に十分に報いて下さるというこの信仰は、使徒のそれまでの数々の体験に基づく確信であると思いますが、現代の私たちにとっても大切だと思います。

④ しかし、単に頭でそう考えているだけの信仰では足りません。私たちもそれを使徒パウロのように、自分自身の数々の体験に基づく確信とするように心がけましょう。それには、祈りだけではなく実践が必要だと思います。私は、単に恩人・知人のために祈るだけではなく、日々小さな不自由、小さな貧困と苦しみ、水や電気などの小さな節約などを、難民や孤独な老人・病人たちの苦しみを緩和してもらうために、密かに神にお献げしています。それはあどけない小さな子供がなしているような献げで、外的金銭的には何の価値もない奉仕ですが、神は幼子のような心のそのような小さな清貧愛を殊のほかお喜び下さり、その心の祈りや願いを聞き入れて下さるということを、数多く体験しています。これは、全てを合理的に考える世の知者や賢者には神によって隠されている、人生の秘訣だと思います。幼子の心で清貧愛に励みましょう。アシジの聖フランシスコだけではなく、他の多くの聖人たちも、人目に隠れた小さな個人的清貧・節約が神の関心を引き、神から豊かな恵みを呼び下す道であることを体験しています。私たちも、人生のこの秘訣を大切に致しましょう。

⑤ 本日の福音は、主がユダヤ人の祭司長や民の長老たちに語られた譬え話ですが、このようなことはエルサレム滅亡の時点だけではなく、ある意味ではこの世の終わりの時にも実際に、しかも大規模に発生すると思います。私たちの奥底の心への神からの招きは、はっきりとした外的姿や言葉をとってなされる、と考えてはなりません。日常茶飯事の小さな出来事や出会いの形で、隠れた所におられて隠れた所を見ておられる神は、そっと私たち各人の奥底の心に呼びかけておられるのですから。この世の生活の外的幸せや外的損得にばかり目を向けていると、奥底の心に対するその招きを無視してしまう危険が大きくなります。気をつけましょう。

⑥ 主の譬え話の後半には、招かれた来客には入口で無料に提供される婚礼の礼服を、着用せずに婚宴の席、すなわち神の国に入って来た無礼者に対する、神の厳しい断罪が語られています。この礼服は何を指しているのでしょうか。私はそれを、先ほど話した幼子のような心の小さな清貧愛、貧しい人・苦しむ人たちの労苦を和らげるために献げられる小さな博愛の実践と考えています。いかがなものでしょうか。数多くの聖人たちの体験談や述懐などを読んでみますと、そこにこのような小さな清貧愛や小さなことに対する忠実が語られています。皆様の会の最大の保護者聖ベルナルドも、修道者の清貧については厳しい修道院長でした。私たちも、その精神を現代の豊かさの中で堅持し証しするよう心がけましょう。

2011年10月2日日曜日

説教集A年:2008年10月5日年間第27主日(三ケ日で)

第1朗読 イザヤ書 5章1~7節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙 4章6~9節
福音朗読 マタイによる福音書 21章33~43節

① ご存じのように、本日から188人の日本人キリシタン殉教者たちが11月24日に長崎で列福されるまでは、「列福をひかえ、ともに祈る七週間」とされています。それで日本全国のカトリック教会と心を合わせ、その殉教者たちの取り次ぎを願いつつ、日本の教会が神からの使命と自分の今歩むべき道とを正しく深く自覚する恵みを祈り求めて、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。ご一緒にお祈り下さい。

② 本日の第一朗読は、バビロン捕囚前頃の神の民イスラエルの乱れた信仰生活を嘆かれる主のお言葉を、預言者イザヤが語ったものです。神はその中で、神の民をぶどう園に譬えています。神は肥沃な丘にそのぶどう園を設け、よく耕して石を除き、良い葡萄の種を植えたのだそうです。そしてぶどう園の真ん中に見張り塔を建て、酒舟を掘り、良い葡萄の実るのを待っておられたのですが、実ったのは酸っぱい葡萄であった、といたく嘆いておられます。当時の神の民が、その後も預言者たちの声に聞き従おうとせずに神の罰を受け、バビロン捕囚という恐ろしい試練を体験させられたのは当然だと思います。神の御旨やお望み中心の立場に立って愛の奉仕に尽力しようとせずに、神を信じてはいてもいつもこの世の自分たちの生活中心の考えや生き方を続け、神の期待しておられる良い実を結ばない者たちに対しては、神は時としてそれ程厳しく愛の躾けをなさる、恐ろしいお方だと思います。

③ ところで、私たちの所属している現代日本の教会も、まだ神の期待しておられる程の良い実を結べずにいるのではないでしょうか。古い話ですが、30年ほど前に韓国から来日したカトリック信者たちの一人は、当時の韓国の教会が目覚ましく躍進している理由を尋ねられて、「私たちは数人ずつグループになって、人々に信仰をもって生きるよう積極的に勧めているからです」と答えていました。自分の信仰生活に誇りと喜びを感じ、他の信仰者たちと共にその喜びをまだ持っていない人たちに伝えようと努めることは、神の求めておられる実を結んでいる徴だと思います。それに比べると、自由主義・個人主義が蔓延している日本社会のカトリック者たちの多くは、そういう宣教グループを結成しようとせず、教会には来ていても積極的宣教活動は諦め、自分個人だけで救われようとしているのではないでしょうか。韓国教会が大きく発展したのにはもう一つ、軍事力強化に努める北朝鮮の恐怖に対抗して、国民が相互に堅く団結する必要性や神の御保護を祈り求める必要性などに迫られていた、という社会的事情もあったと思います。

④ しかし、キリシタン時代の日本の教会も、信徒たちの若々しい宣教意欲によって目覚ましい発展を遂げていました。11月に長崎で列福される118人の殉教者たちは、ごく少数の人たちを除いて皆一般信徒ですが、宣教活動で驚く程の実績をあげていました。ですから迫害者たちから真っ先に命を狙われたのかも知れませんが、しかし、神から特別に愛され守られて、立派に殉教の栄冠を受けたのだと思われます。私たちは、殉教の栄冠を欲しいためではなく、何よりもその人たちの若さに溢れた信仰精神に見習うために、その列福を慶賀するのです。キリシタン時代の宣教師の数は少数でした。1614年に徳川幕府による全国的迫害が始まる直前頃には、宣教師の数が一番多くなった時ですが、それでも信徒総数が45万人と、現代の日本のカトリック者数程にもなっていたのに、宣教師の総数は102人だけでした。しかし、信徒たちは迫害に備えてそれぞれ数多くの助け合いグループを結成し、神中心に命をかけて堅くまた美しく団結していました。彼らはその団結した信仰生活の内に大きな喜びと生きがいを見出していましたが、これが信仰を持たない人たちには魅力となっていました。列福式を目前にして、現代日本の教会もこのような魅力ある教会になるよう、神の照らしと助けの恵みを祈りましょう。

⑤ 本日の第二朗読は、使徒パウロがフィリッピの信徒団に宛てた書簡の最後の章からの引用です。使徒はその中で、神への信仰と委ねに生きる人たちの内におられる、神の現存を強調しています。目前の不穏な出来事だけに眼を向け、人間の自力でそれに対応しようとすると思い煩いが多くなりますが、何事もまず神に打ち明け、神に感謝と願いを捧げていると、あらゆる人知を超える神の平和が、私たちの心と考えを導き護って下さいます。これは、使徒パウロが数多くの体験から確信した教えだと思います。激動する現代の様々な不安の中で、私たちもこの勧めに従って生きるよう心がけましょう。

⑥ 本日の福音は、主イエスが祭司長や民の長老たちに語られた譬え話と、それに続く警告ですが、当時の祭司長や長老たちは何事もこの世の生活の安泰を判断基準にして考え、生活していたように思われます。それで主は、彼らが神のぶどう園である神の民が神に納めるべき収穫を納めず、それを受け取るために神から派遣された僕たちを殺し、神の御子をもぶどう園の外にほうり出して殺してしまった、という譬え話を彼らに語って、収穫を納めない彼らから神のぶどう園が取り上げられ、「季節ごとに収穫を納める他の農夫たちに」与えられるという形でその話をまとめ、彼らに、「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」と警告しておられます。現代の私たちの教会も、もし神の求めておられる実を結ばないなら、神から取り上げられる時が来るのではないでしょうか。主はこの福音を通して私たちにも、もっと神に対する畏れの心で神の御旨と導きに心の眼を向けるよう、警告しておられるように思います。