2011年10月2日日曜日

説教集A年:2008年10月5日年間第27主日(三ケ日で)

第1朗読 イザヤ書 5章1~7節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙 4章6~9節
福音朗読 マタイによる福音書 21章33~43節

① ご存じのように、本日から188人の日本人キリシタン殉教者たちが11月24日に長崎で列福されるまでは、「列福をひかえ、ともに祈る七週間」とされています。それで日本全国のカトリック教会と心を合わせ、その殉教者たちの取り次ぎを願いつつ、日本の教会が神からの使命と自分の今歩むべき道とを正しく深く自覚する恵みを祈り求めて、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。ご一緒にお祈り下さい。

② 本日の第一朗読は、バビロン捕囚前頃の神の民イスラエルの乱れた信仰生活を嘆かれる主のお言葉を、預言者イザヤが語ったものです。神はその中で、神の民をぶどう園に譬えています。神は肥沃な丘にそのぶどう園を設け、よく耕して石を除き、良い葡萄の種を植えたのだそうです。そしてぶどう園の真ん中に見張り塔を建て、酒舟を掘り、良い葡萄の実るのを待っておられたのですが、実ったのは酸っぱい葡萄であった、といたく嘆いておられます。当時の神の民が、その後も預言者たちの声に聞き従おうとせずに神の罰を受け、バビロン捕囚という恐ろしい試練を体験させられたのは当然だと思います。神の御旨やお望み中心の立場に立って愛の奉仕に尽力しようとせずに、神を信じてはいてもいつもこの世の自分たちの生活中心の考えや生き方を続け、神の期待しておられる良い実を結ばない者たちに対しては、神は時としてそれ程厳しく愛の躾けをなさる、恐ろしいお方だと思います。

③ ところで、私たちの所属している現代日本の教会も、まだ神の期待しておられる程の良い実を結べずにいるのではないでしょうか。古い話ですが、30年ほど前に韓国から来日したカトリック信者たちの一人は、当時の韓国の教会が目覚ましく躍進している理由を尋ねられて、「私たちは数人ずつグループになって、人々に信仰をもって生きるよう積極的に勧めているからです」と答えていました。自分の信仰生活に誇りと喜びを感じ、他の信仰者たちと共にその喜びをまだ持っていない人たちに伝えようと努めることは、神の求めておられる実を結んでいる徴だと思います。それに比べると、自由主義・個人主義が蔓延している日本社会のカトリック者たちの多くは、そういう宣教グループを結成しようとせず、教会には来ていても積極的宣教活動は諦め、自分個人だけで救われようとしているのではないでしょうか。韓国教会が大きく発展したのにはもう一つ、軍事力強化に努める北朝鮮の恐怖に対抗して、国民が相互に堅く団結する必要性や神の御保護を祈り求める必要性などに迫られていた、という社会的事情もあったと思います。

④ しかし、キリシタン時代の日本の教会も、信徒たちの若々しい宣教意欲によって目覚ましい発展を遂げていました。11月に長崎で列福される118人の殉教者たちは、ごく少数の人たちを除いて皆一般信徒ですが、宣教活動で驚く程の実績をあげていました。ですから迫害者たちから真っ先に命を狙われたのかも知れませんが、しかし、神から特別に愛され守られて、立派に殉教の栄冠を受けたのだと思われます。私たちは、殉教の栄冠を欲しいためではなく、何よりもその人たちの若さに溢れた信仰精神に見習うために、その列福を慶賀するのです。キリシタン時代の宣教師の数は少数でした。1614年に徳川幕府による全国的迫害が始まる直前頃には、宣教師の数が一番多くなった時ですが、それでも信徒総数が45万人と、現代の日本のカトリック者数程にもなっていたのに、宣教師の総数は102人だけでした。しかし、信徒たちは迫害に備えてそれぞれ数多くの助け合いグループを結成し、神中心に命をかけて堅くまた美しく団結していました。彼らはその団結した信仰生活の内に大きな喜びと生きがいを見出していましたが、これが信仰を持たない人たちには魅力となっていました。列福式を目前にして、現代日本の教会もこのような魅力ある教会になるよう、神の照らしと助けの恵みを祈りましょう。

⑤ 本日の第二朗読は、使徒パウロがフィリッピの信徒団に宛てた書簡の最後の章からの引用です。使徒はその中で、神への信仰と委ねに生きる人たちの内におられる、神の現存を強調しています。目前の不穏な出来事だけに眼を向け、人間の自力でそれに対応しようとすると思い煩いが多くなりますが、何事もまず神に打ち明け、神に感謝と願いを捧げていると、あらゆる人知を超える神の平和が、私たちの心と考えを導き護って下さいます。これは、使徒パウロが数多くの体験から確信した教えだと思います。激動する現代の様々な不安の中で、私たちもこの勧めに従って生きるよう心がけましょう。

⑥ 本日の福音は、主イエスが祭司長や民の長老たちに語られた譬え話と、それに続く警告ですが、当時の祭司長や長老たちは何事もこの世の生活の安泰を判断基準にして考え、生活していたように思われます。それで主は、彼らが神のぶどう園である神の民が神に納めるべき収穫を納めず、それを受け取るために神から派遣された僕たちを殺し、神の御子をもぶどう園の外にほうり出して殺してしまった、という譬え話を彼らに語って、収穫を納めない彼らから神のぶどう園が取り上げられ、「季節ごとに収穫を納める他の農夫たちに」与えられるという形でその話をまとめ、彼らに、「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」と警告しておられます。現代の私たちの教会も、もし神の求めておられる実を結ばないなら、神から取り上げられる時が来るのではないでしょうか。主はこの福音を通して私たちにも、もっと神に対する畏れの心で神の御旨と導きに心の眼を向けるよう、警告しておられるように思います。