2011年11月27日日曜日

説教集B年:2008年待降節第1主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 63章16b~17、19b、64章2b~7節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 1章3~9節
福音朗読 マルコによる福音書 13章33~37節

① 本日の第一朗読は、バビロン捕囚から解放されて帰国し、廃墟と化していたエルサレムの都を見て落胆したイスラエルの民のため、第三イザヤ預言者が、神による救いを切に願い求める長い祈りの言葉であります。「私たちは皆枯れ葉のようになり、」「あなたの御名を呼ぶ者はなくなり、奮い立ってあなたに縋ろうとする者もない」という言葉から察すると、この時のイスラエルの民は一時的に神に対する信仰・信頼までも失う程の、絶望状態に陥ってしまったのかも知れません。でも預言者は、神が御顔を隠して民の力を奪い、そのような深刻な心理状態に突き落とされたのは、民が全能の神の愛と力を自分たちのこの世的繁栄のために利用しようとするような、いわば本末転倒の利己的精神の夢に囚われていたためであることに気づき、その罪を深く反省していたようで、「あなたは私たちの悪の故に力を奪われた。しかし、主よ、あなたは我らの父。私たちは粘土、あなたは陶工。私たちは皆、あなたの御手の業」と申し上げて、人間主導に神を利用しようとするような精神をかなぐり捨て、創り主であられる神に徹底的に従う精神で神の憐れみを願い求めています。

② 父なる神に対するこの徹底的従順は、主キリストや聖母マリアが身をもって実践的に証ししている生き方であり、主の再臨前に起こると思われる数々の恐ろしい試練に耐え抜くためにも、私たちが日頃から実践的に身につけて置くべき生き方だと思います。最近、知識や技術の伝授だけを重視し、心の鍛錬や社会奉仕の精神を軽視した歪んだ戦後教育の不備のためか、物騒な事件が頻発しています。このような時代には、自分の中の「もう一人の自分」と言われる心の奥底の自己をしっかりと目覚めさせ、その自己にそっと伝えられる神からの導きに、主イエスのように従おうとするのが、私たちの人間的弱さから心が産み出して止まない不安に打ち克つ、一番有効な手段であると思います。その奥底の自己の目覚めには、私の個人的体験から申しますと、各人が戴いて命の恵みを神に深く感謝する祈りと奉仕の精神でその感謝を表明する実践とを、日々積み重ねることが大切だと思います。愛深い神は、幼子のように素直な従順心で生活している人の心の中で、特別に働いて下さると信じるからです。

③ 本日の第二朗読は、使徒パウロがコリント信徒団に宛てた最初の書簡の冒頭部分からの引用ですが、その中で使徒は、「主も最後まであなた方をしっかりと支えて、私たちの主イエス・キリストの日に、非の打ちどころがない者にして下さいます」と述べています。

2011年11月20日日曜日

説教集A年:2008年11月23日王であるキリストの祝日(三ケ日で)

第1朗読 エゼキエル書 34章11~12、15~17節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章20~26、28節
福音朗読 マタイによる福音書 25章31~46節

① 朝夕の寒気がひときわ深まって、行く秋の寂しさが身にしみる頃となりました。本日の第一朗読はエゼキエル預言書からの引用ですが、エゼキエルはアナトテの祭司の息子エレミヤと同じ時代、すなわちバビロン捕囚が始まる前後頃に祭司の息子として生きていた人であります。しかし、神からの強い呼びかけを受けて、ユダ王国の支配層に対する厳しい警告の言葉を語り続けたエレミヤとは異なり、滅びゆくユダ王国やエルサレムの末期的症状を静かに眺めながらも、やがて主なる神が廃墟と化したその土地に働き出し、「新しい心と新しい霊」とを授けて、新しい時代が始まるのを希望をもって予見していた預言者で、時々はその夢幻のような予見を黙示録風に語った預言者であります。

② 本日の朗読箇所で神はご自身を、羊の群れを自分の家族のようにして世話する「牧者」に譬えておられます。伝統的な古い国家体制や宗教組織が、心の教育の不備や内外の各種対立などで極度に多様化し、悪を制御する力も弱小者を温かく世話する力も失って根底から崩壊しても、全てが崩れ去って無数の人間たちが暗雲の下でバラバラに不安を耐え忍んでいると、主なる神が全能の力強い「牧者」となって働き始め、「失われた者を尋ね求め、追い出された者を連れ戻し、傷ついた者を癒し、弱った者を強くする」のを、エゼキエル預言者は予見したのではないでしょうか。それは2千5百年程前のイスラエル民族のバビロン捕囚の頃に一時的局部的に実現したでしょうが、預言者が予見した神のそのお姿が恒久的全世界的に実現するのは、世の終わりになってからだと思います。信仰と希望をもって、その日を待ち続けましょう。

③ 本日の第二朗読にも、使徒パウロに啓示された世の終わりが多少具体的に描かれいています。「世の終わり」と聞くと、多くの人は私たちの今見ているこの世界の様相が悉く崩壊するマイナス面ばかり想像するかも知れませんが、使徒は「キリストによってすべての人が (復活し) 生かされることになる」全く新しい時代の到来を教えています。それはこの世に居座り、全ての人に伴ってその心を不安にしている「死」が、永遠に滅ぼされてしまう喜ばしい時であり、全ての人も被造物も、神の御子キリストに服従する時、主キリストが内的にも外的にも王として全世界に君臨する輝かしい光の時であります。復活なされた主キリストは、内的には既に今も王として世界の奥底に君臨し、罪と死の闇に苦しむ全世界をしっかりと両手で受け止め、神の方へと静かに押し上げ導いておられるのですが、その日には外的にも力強い「牧者」としてのお姿をお示しになると思います。私たちの中でのその「王である主」の現存に対する信仰と感謝を新たにしつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

④ 本日の福音は、その王である主が生前弟子たちにお語りになった、世の終わりの審判についての話であります。そこでは主が創立なされた新約時代の教会に所属しているかどうかや、洗礼を受けているかどうかは問題にされていません。今私たちの所属しているカトリック教会は、その時は既に内部分裂などで崩壊し、無くなっているかも知れません。司祭がこんな話をすると、主キリストの現存しておられるカトリック教会は滅びることがない、と信じている人たちから迫害されるかも知れません。ちょうどエレミヤ預言者が、神のおられるエルサレム神殿は永遠と真面目に信じていた人たちから迫害されたように。しかし、主は「私はこの岩の上に私の教会を建てよう。黄泉の国の門もこれに勝つことはできない」と宣言なされても、カトリック教会の外的体制や信仰生活が滅びゆくこの世の流れに汚染されて崩れ去ることはない、と保障なされたのではありません。ルカ福音書18:8には、「人の子が来る時、果たして地上に信仰を見出すであろうか」という主の御言葉が読まれますが、19世紀以来世界各地に御出現になって、人類をまたカトリック教会を襲う恐ろしい苦難について警告し、ロザリオの祈りを唱えるよう勧めておられる聖母マリアの御言葉にも、教会内に発生する嘆かわしい分裂についての予告が読まれます。そのような事態に直面しても躓くことのないよう、今から塩味を失わない決意を固めていましょう。世の終わり前には、何が起こるか分からないのですから。

2011年11月13日日曜日

説教集A年:2008年11月16日年間第33主日(三ケ日で)

第1朗読 箴言 31章10~13、19~20、30~31節
第2朗読 テサロニケの信徒への手紙一 5章1~6節
福音朗読 マタイによる福音書 25章14~30節
 
① 本日の第一朗読の出典『箴言』はさまざまな格言を集めた書ですが、単なる人生訓ではなく、「主を畏れる知恵」(9:10)の観点から集めた人生訓で、本日の朗読箇所はその最後の31章に読まれる、マサの王レムエルが神信仰に生きたその母から受けた諭しの言葉からの引用であります。当時の女たちは社会的な制約もあって大きなことは何もできませんでしたが、しかしその女たちが神に目を向けてなす小さな業に神は特別に御眼を向けて、彼女たちの住む町に、神によるご加護の恵みを豊かにお与えになったのではないでしょうか。

② 第二朗読は、世の終わりの主の来臨に強い関心をもっていたテサロニケの信徒団への使徒パウロの書簡からの引用ですが、パウロはその中で、人々が「無事だ、安全だ」と言っているその矢先に、突然破滅が襲うのです、ちょうど妊婦の産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそこから逃れられない、などと述べています。典礼暦年の最後を間近にして、教会は世の終わりを間近にした時のための心構えを、教えようとしているのだと思います。毎年11月の平日のミサにも、各人の死や世の終わりと関係深い聖書の個所が朗読に選ばれています。本日の第二朗読の後半に述べられているように、神の恵みによって「光の子、昼の子」とされている人たちは、もし奥底の心の眼を覚まし、身を慎んで生活しているなら、「主の日が盗人のように突然あなた方を襲うことはない」とパウロは保証しています。この言葉をしっかりと心に刻んで置きましょう。

③ ところで、「身を慎む」とは、具体的にどういう生き方をすることでしょうか。現代のような豊かで便利な時代には、先進国に住む多くの人は自分の望みのままに何でも自由に利用しながら生活し勝ちですが、その時は、外的知識や技術を利用しながら自主的に働く私たちの自我が心の主導権を握っていて、神の憐れみに縋りながら貧しく清く神の博愛に生きようとする、心の奥底の自己は眠ってしまい勝ちです。しかし、60億を超える人類のうち少なくとも数億人の人たちは、今でも水不足・食料不足や病原菌の多い劣悪な自然環境の中で、あるいは故郷を奪われた避難民となって、互いに助け合い励まし合いながら生きるのがやっとの生活を続けています。生命の危機にさらされているその人たちとの連帯精神を新たにし、その人たちの労苦を少しでも和らげるための神の助けを願って、個人的にも日々祈りをささげたり、小さな節水・節電などに心がけたりしていると、その小さな実践の積み重ねによって神の献身的愛に生きようとする奥底の自己が目覚めて来ます。そして隠れた所から私たちに伴い、私たちの心の奥に呼びかけて下さる神のかすかな呼び声に対する心の感覚も磨かれて来ます。パウロの言う「光の子、昼の子」というのは、そういう生き方をしている人のことを指しているのではないでしょうか。東海大地震などの不安を将来に抱えている社会に生活する身として、私たちもそのような生き方をしっかりと身につけて置くよう努めましょう。

④ 本日の福音にある話は、天の国について主が語られた譬え話であります。恐ろしい程高額の基金や儲けのことが登場しますが、この世の商売についての話ではありません。1タラントンは6千デナリオンで、当時は一日の日当が1デナリオンでしたから、1タラントンは約20年分の賃金に相当することになります。しかし、この大金は神から天国で生活するために預けられたもので、この世の生活のための金ではありません。ルカ福音書19章で主が語られた譬え話では、各人に1ムナ、すなわち100ドラクマずつ与えられたことになっています。いずれにしろ私たち各人の心の奥にも、天国で幸せになるためのかなり大きな資本金が既に預けられています。そのお金はこの世の生活のためには「少しのもの」に見えるでしょうが、私たちはその資本金を祈りと愛の実践に励むことによって増やすことに努めているでしょうか。自分のこの世的生活にだけ没頭していると、神よりのその貴重な資本金を土の下に眠らせてしまい、やがて「役立たずの僕」として、天国に入れてもらえなくなります。主のこの警告も、しっかりと受け止めましょう。

2011年11月2日水曜日

説教集A年:2008年11月2日死者の日

第1朗読 知恵の書 3章1~6、9節または ローマの信徒への手紙 8章31b~35、37~39節
福音朗読 ヨハネによる福音書 6章37~40節