2011年11月13日日曜日

説教集A年:2008年11月16日年間第33主日(三ケ日で)

第1朗読 箴言 31章10~13、19~20、30~31節
第2朗読 テサロニケの信徒への手紙一 5章1~6節
福音朗読 マタイによる福音書 25章14~30節
 
① 本日の第一朗読の出典『箴言』はさまざまな格言を集めた書ですが、単なる人生訓ではなく、「主を畏れる知恵」(9:10)の観点から集めた人生訓で、本日の朗読箇所はその最後の31章に読まれる、マサの王レムエルが神信仰に生きたその母から受けた諭しの言葉からの引用であります。当時の女たちは社会的な制約もあって大きなことは何もできませんでしたが、しかしその女たちが神に目を向けてなす小さな業に神は特別に御眼を向けて、彼女たちの住む町に、神によるご加護の恵みを豊かにお与えになったのではないでしょうか。

② 第二朗読は、世の終わりの主の来臨に強い関心をもっていたテサロニケの信徒団への使徒パウロの書簡からの引用ですが、パウロはその中で、人々が「無事だ、安全だ」と言っているその矢先に、突然破滅が襲うのです、ちょうど妊婦の産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそこから逃れられない、などと述べています。典礼暦年の最後を間近にして、教会は世の終わりを間近にした時のための心構えを、教えようとしているのだと思います。毎年11月の平日のミサにも、各人の死や世の終わりと関係深い聖書の個所が朗読に選ばれています。本日の第二朗読の後半に述べられているように、神の恵みによって「光の子、昼の子」とされている人たちは、もし奥底の心の眼を覚まし、身を慎んで生活しているなら、「主の日が盗人のように突然あなた方を襲うことはない」とパウロは保証しています。この言葉をしっかりと心に刻んで置きましょう。

③ ところで、「身を慎む」とは、具体的にどういう生き方をすることでしょうか。現代のような豊かで便利な時代には、先進国に住む多くの人は自分の望みのままに何でも自由に利用しながら生活し勝ちですが、その時は、外的知識や技術を利用しながら自主的に働く私たちの自我が心の主導権を握っていて、神の憐れみに縋りながら貧しく清く神の博愛に生きようとする、心の奥底の自己は眠ってしまい勝ちです。しかし、60億を超える人類のうち少なくとも数億人の人たちは、今でも水不足・食料不足や病原菌の多い劣悪な自然環境の中で、あるいは故郷を奪われた避難民となって、互いに助け合い励まし合いながら生きるのがやっとの生活を続けています。生命の危機にさらされているその人たちとの連帯精神を新たにし、その人たちの労苦を少しでも和らげるための神の助けを願って、個人的にも日々祈りをささげたり、小さな節水・節電などに心がけたりしていると、その小さな実践の積み重ねによって神の献身的愛に生きようとする奥底の自己が目覚めて来ます。そして隠れた所から私たちに伴い、私たちの心の奥に呼びかけて下さる神のかすかな呼び声に対する心の感覚も磨かれて来ます。パウロの言う「光の子、昼の子」というのは、そういう生き方をしている人のことを指しているのではないでしょうか。東海大地震などの不安を将来に抱えている社会に生活する身として、私たちもそのような生き方をしっかりと身につけて置くよう努めましょう。

④ 本日の福音にある話は、天の国について主が語られた譬え話であります。恐ろしい程高額の基金や儲けのことが登場しますが、この世の商売についての話ではありません。1タラントンは6千デナリオンで、当時は一日の日当が1デナリオンでしたから、1タラントンは約20年分の賃金に相当することになります。しかし、この大金は神から天国で生活するために預けられたもので、この世の生活のための金ではありません。ルカ福音書19章で主が語られた譬え話では、各人に1ムナ、すなわち100ドラクマずつ与えられたことになっています。いずれにしろ私たち各人の心の奥にも、天国で幸せになるためのかなり大きな資本金が既に預けられています。そのお金はこの世の生活のためには「少しのもの」に見えるでしょうが、私たちはその資本金を祈りと愛の実践に励むことによって増やすことに努めているでしょうか。自分のこの世的生活にだけ没頭していると、神よりのその貴重な資本金を土の下に眠らせてしまい、やがて「役立たずの僕」として、天国に入れてもらえなくなります。主のこの警告も、しっかりと受け止めましょう。