2011年11月20日日曜日

説教集A年:2008年11月23日王であるキリストの祝日(三ケ日で)

第1朗読 エゼキエル書 34章11~12、15~17節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章20~26、28節
福音朗読 マタイによる福音書 25章31~46節

① 朝夕の寒気がひときわ深まって、行く秋の寂しさが身にしみる頃となりました。本日の第一朗読はエゼキエル預言書からの引用ですが、エゼキエルはアナトテの祭司の息子エレミヤと同じ時代、すなわちバビロン捕囚が始まる前後頃に祭司の息子として生きていた人であります。しかし、神からの強い呼びかけを受けて、ユダ王国の支配層に対する厳しい警告の言葉を語り続けたエレミヤとは異なり、滅びゆくユダ王国やエルサレムの末期的症状を静かに眺めながらも、やがて主なる神が廃墟と化したその土地に働き出し、「新しい心と新しい霊」とを授けて、新しい時代が始まるのを希望をもって予見していた預言者で、時々はその夢幻のような予見を黙示録風に語った預言者であります。

② 本日の朗読箇所で神はご自身を、羊の群れを自分の家族のようにして世話する「牧者」に譬えておられます。伝統的な古い国家体制や宗教組織が、心の教育の不備や内外の各種対立などで極度に多様化し、悪を制御する力も弱小者を温かく世話する力も失って根底から崩壊しても、全てが崩れ去って無数の人間たちが暗雲の下でバラバラに不安を耐え忍んでいると、主なる神が全能の力強い「牧者」となって働き始め、「失われた者を尋ね求め、追い出された者を連れ戻し、傷ついた者を癒し、弱った者を強くする」のを、エゼキエル預言者は予見したのではないでしょうか。それは2千5百年程前のイスラエル民族のバビロン捕囚の頃に一時的局部的に実現したでしょうが、預言者が予見した神のそのお姿が恒久的全世界的に実現するのは、世の終わりになってからだと思います。信仰と希望をもって、その日を待ち続けましょう。

③ 本日の第二朗読にも、使徒パウロに啓示された世の終わりが多少具体的に描かれいています。「世の終わり」と聞くと、多くの人は私たちの今見ているこの世界の様相が悉く崩壊するマイナス面ばかり想像するかも知れませんが、使徒は「キリストによってすべての人が (復活し) 生かされることになる」全く新しい時代の到来を教えています。それはこの世に居座り、全ての人に伴ってその心を不安にしている「死」が、永遠に滅ぼされてしまう喜ばしい時であり、全ての人も被造物も、神の御子キリストに服従する時、主キリストが内的にも外的にも王として全世界に君臨する輝かしい光の時であります。復活なされた主キリストは、内的には既に今も王として世界の奥底に君臨し、罪と死の闇に苦しむ全世界をしっかりと両手で受け止め、神の方へと静かに押し上げ導いておられるのですが、その日には外的にも力強い「牧者」としてのお姿をお示しになると思います。私たちの中でのその「王である主」の現存に対する信仰と感謝を新たにしつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

④ 本日の福音は、その王である主が生前弟子たちにお語りになった、世の終わりの審判についての話であります。そこでは主が創立なされた新約時代の教会に所属しているかどうかや、洗礼を受けているかどうかは問題にされていません。今私たちの所属しているカトリック教会は、その時は既に内部分裂などで崩壊し、無くなっているかも知れません。司祭がこんな話をすると、主キリストの現存しておられるカトリック教会は滅びることがない、と信じている人たちから迫害されるかも知れません。ちょうどエレミヤ預言者が、神のおられるエルサレム神殿は永遠と真面目に信じていた人たちから迫害されたように。しかし、主は「私はこの岩の上に私の教会を建てよう。黄泉の国の門もこれに勝つことはできない」と宣言なされても、カトリック教会の外的体制や信仰生活が滅びゆくこの世の流れに汚染されて崩れ去ることはない、と保障なされたのではありません。ルカ福音書18:8には、「人の子が来る時、果たして地上に信仰を見出すであろうか」という主の御言葉が読まれますが、19世紀以来世界各地に御出現になって、人類をまたカトリック教会を襲う恐ろしい苦難について警告し、ロザリオの祈りを唱えるよう勧めておられる聖母マリアの御言葉にも、教会内に発生する嘆かわしい分裂についての予告が読まれます。そのような事態に直面しても躓くことのないよう、今から塩味を失わない決意を固めていましょう。世の終わり前には、何が起こるか分からないのですから。