2014年4月27日日曜日

説教集A2011年:2011年復活節第2主日(三ケ日)



第1朗読 使徒言行録 2章42~47節
第2朗読 ペトロの手紙1 1章3~9節
福音朗読 ヨハネによる福音書 20章19~31節

  主イエスの復活を記念しお祝いする八日間の締めくくりに当たる本日は、「神の慈しみの主日」と言われています。主の復活は、神が主にお与えになった特別の恵みであるだけではなく、何よりも私たち人類に対する神の大きな慈しみの徴であることを、信ずる各人の心にしっかりと銘記させるためであると思われます。黙示録1章の18節によりますと、主は使徒ヨハネの上に右手を置いて、「私は死んだ者となったが、今は永遠に生きている。云々」と語っておられますが、私たちもその主のように、この苦しみの世に死んだ後には、神により神と共に永遠に生きるよう召されており、神は主イエスの復活によってそのことを私たちに保証しておられるのだと思います。神は私たち人間を、誤解や悲劇の多いこの儚い苦しみの世に住まわせるために創造なされたのではなく、何よりもご自身の御許で永遠に美しく輝く存在、主と共に万物を支配する国王や祭司のような存在となって何時までも仕合わせに生きさせるため、ご自身に似せて創造なされたのです。私たちの本当の人生はこの世にではなく、死後の復活後に永遠に続くものとしてあるのです。私たちに対する神のこの大きな慈しみに、本日感謝を新たに致しましょう。
  本日の第一朗読は、復活の主の度重なるご出現を体験した使徒たちを中心にして生まれた、エルサレムの信徒団の生き方を伝えています。信徒たちは皆心を一つにして、全てのものを共有にし、相互の交わりにも祈りにも熱心であったようです。主が最後の晩餐の時に制定なさったミサ聖祭は、使徒時代には本日の朗読個所に読まれるように、「パンを裂くこと」と呼ばれていたようです。それは、単に外的にパンを裂くだけではなく、内的にも自分の人間的な考えや自分中心の精神を破り捨てて、主がお示しになった御模範に倣い、父なる神の御旨のみに従って神の僕・婢となって生きる決意を表明し、主の御命によって内面から生かされる秘跡という意味を持っていたのではないでしょうか。聖木曜日にも申しましたが、使徒ペトロは最後の晩餐の時、主に対する人間的熱心からであったでしょうが、「私の足など決して洗わないで下さい」と言ったり、「主よ、あなたのためには命も捨てます」と言ったりして、主から厳しくたしなめられました。そんな人間的な考えや熱心を捨てて、神の御旨にひたすら謙虚に従う神の僕としての決意を新たにしながら、使徒たちはミサ聖祭を「パンを裂く」式と表現し、祝っていたのではのではないでしょうか。現代の私たちも、使徒たちのこの模範を大切に致しましょう。
   第一朗読には「全ての人に恐れが生じた」という言葉も読まれますが、これはどういう恐れでしょうか。察するに、使徒たちを通して次々と不思議を行われる神の現存や働きが、身近に痛感されていたからなのではないでしょうか。同時に、主が受難死の少し前にお話しになったエルサレム滅亡の時と世の終わりの時が、間近に迫っているという危機感と結ばれた恐れも、使徒たちと初期の信徒たちの心の内に働いていたかも知れません。エルサレムの町は経済的にはまだまだ益々繁栄していましたが、現代の多くの国々のように、貧富の格差は際限なく広がり続けていて、ローマ帝国の支配に対する若者たちの不満や政治不信も、次第に深刻になっていたと思われます。主の没後30年余り経った60年代には、ローマの支配を容認する現状維持の立場に立つ要人たちが幾人も暗殺される事件が相次ぎ、初代のエルサレム司教であった使徒小ヤコブが処刑される事件も発生して、ローマ帝国に反旗を翻したエルサレムの町は70年に滅亡してしまいました。現代の人類世界も、技術的経済的には繁栄し続けていますが、2千年前のエルサレムがその繁栄の絶頂にある時に、貧富の格差がますます広がって、家族や社会の共同体精神も相互愛も内面から弱まって崩れ始める現象も随伴し、徹底的破壊と滅亡に落とし入れられたように、現代世界にも恐ろしい地盤崩壊の危機が、神から与えられるかも知れません。神は人間中心主義の罪に穢れた世界には、それ程厳しい方だと信じます。私たちも特にミサ聖祭を捧げる時には、神に対する初代教会の畏れの精神を新たにするよう心掛けましょう。詩編の34には、「神は、神を畏れる人に神の使いを送り、砦を築かせて守って下さる」「神を畏れる人には乏しいことがない」などの言葉が読まれますが、同様の神からの言葉は他の詩編にも預言書などにも、いろいろと表現を変えて読まれます。神の僕・婢として謙虚な献身的奉仕の精神で生活すること、それが不安が深まると思われるこれからの時代に、神への委託と希望の内に、日々静かな喜びに満たされて生きる秘訣ではないでしょうか。

2014年4月20日日曜日

説教集A2011年:2011年復活の主日(三ケ日)



第1朗読 使徒言行録 10章34a、37~43節
第2朗読 コロサイの信徒への手紙 3章1~4節
福音朗読 ヨハネによる福音書 20章1節~9節

  本日の第一朗読は、使徒ペトロがカイザリアにいたローマ軍の百人隊長コルネリオとその家族や友人たちに話した説教からの引用です。この百人隊長については、一週間前の枝の主日にここでマタイ受難記が朗読された後にも、私は、このコルネリオが主の受難死やその直後の地震などを見て非常に恐れ、「真にこの人は神の子であった」と言った、あの百人隊長だったのではないかと、説教の中で申しました。おそらく彼は神に対するこの畏れの内に奥底の心が目覚め、神に熱心に祈ったり、貧しい人たちに施しをしたりしていたのだと思います。使徒言行録10章の始めには、「彼は信心深く、家族一同と共に神を畏れ、民に数々の施しを為し、絶えず神に祈っていた」と述べられていますから。彼はある日幻の内に天使のお告げを受け、それに従ってヨッパに滞在していた使徒ペトロをカイザリアに招きました。そして家族・友人と共に第一朗読にあるような説教を聞いたら、一同の上に聖霊が降って皆その賜物に満たされ、異言を語ったり神を讃えたりしたので、神が異邦人にも聖霊の賜物をお与えになったのを目撃したペトロは、それまでの考えを変えて、彼ら皆に水の洗礼を授けたことが聖書に記されています。
  本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「古いパン種をきれいに取り除きなさい」「パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」とコロサイ教会の信徒団に呼びかけています。パン種はパンを膨らませて美味しくするものですが、腐敗を早めるというマイナス面もあります。マタイ福音書16章によると、主は一度弟子たちに「ファリサイ派の人々やサドカイ派の人々のパン種に注意し、警戒しなさい」という言葉で、神の働きを記した聖書も律法も、私たちを罪から救おうとしておられる神の大きな愛や呼びかけの立場からではなく、全てを人間中心に理知的に解釈して民衆に対する自分たちの社会的優位を固め、ただ外的に全ての規則を厳守させようと努めている、彼らのこの世的精神に警戒するよう話しておられます。使徒パウロがここで「古いパン種や悪意と邪悪のパン種」と表現しているパン種も、当時のファリサイ派のそのような人間理性中心の利己的精神を指していると思われます。主イエス復活の真実を正しく受け止め、主が私たちの心に与えようとしておられる大きな希望と喜びの恵みを豊かにいただくには、私たちもこの世の社会中心・人間中心の理知的精神という古いパン種を捨て、幼子のように素直で純粋な信仰心で、神の新しい働きや新しい啓示をそのまま全面的に受け入れる必要があると思います。まだ信仰の恵みに浴していない人たちのためにもその恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。
  本日のヨハネによる福音には、使徒ヨハネよりも先にペトロが主の葬られた墓に入り、主の御遺体を包んでいた「亜麻布が置いたあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所にはなく、離れた所に丸めてあった」と述べられていますが、もし誰かが主の御遺体をどこかへ移したり、盗みとったりしたのであれば、血だらけのその御遺体を包んでいた亜麻布を、密着していたその御遺体からはがして墓の上に置いたり、御頭を結んでいた布を離れた所に丸めて置くことなどは考えられません。ヨハネは聖母マリアと共に、時間不足のため大急ぎで近くの新しい墓に葬られた主の御遺体が、付着していた御血を綺麗に洗い流されずにそのまま亜麻布に包まれたのを目撃していたでしょうし、主を余所に運び出す人が、その血だらけの亜麻布を御遺体から離して墓の上に置いて行く事などはあり得ないと考えたと思います。日本語訳で「頭を包んでいた覆い」とあるのは、御頭をすっぽりと包んでいた頬かぶりのような布ではありません。死人の開いた口を塞ぐために、顎の下から頭の上にかけて巻いて縛った手ぬぐいのような布のことです。使徒ヨハネはそれらを見て、旧約聖書にそれとなく述べられている預言の言葉は、まだ正しくは理解していなかったようですが、しかし、主は生前に予告しておられたように、やはり復活なされたのではなかろうか、と考え始めたと思います。ヨハネは「もう一人の弟子も入って来て、観て信じた」と書いていますが、この「観て」という動詞は、ペトロが亜麻布が置いてあるのを「見た」という時の動詞とは違う、エイドンというギリシャ語を使っています。これは、単に外的に見るのではなく、心の感覚を働かせて深く観る時に使う言葉です。としますと、そのすぐ後にある「信じた」という言葉にも、ヨハネは、心で主の復活を信じ始めたという意味を込めているのではないでしょうか。察するに、空になった主の墓を見ただけでは、ペトロの心はまだ深い謎に包まれていたでしょうが、ヨハネの心は既に主の復活を信じ始めていたのではないでしょうか。私たちもこの時の使徒ヨハネのように、現代の様々な出来事をただマスコミの報ずるままに外的に理解するのではなく、もっと神の働きや神信仰と結び合わせて、慎重に幅広く心の感覚を働かせて受け止めるよう心掛けましょう。神はこの度の大災害を介しても、それとなくいろいろと私たちの心に呼びかけておられるのではないでしょうか。

2014年4月19日土曜日

説教集A2011年:2011年聖土曜日(三ケ日) 



第1朗読 出エジプト記 14章15節~15章1a節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 6章3~11節
福音朗読 マタイによる福音書 28章1~10節



  今宵の復活徹夜祭の第一部は「光の祭儀」と言って、輝かしく復活したキリストの光を讃美し、感謝の心でその光に照らされ導かれて生きる恵みを願う儀式であります。そこでは復活の蝋燭に点された火が、中心的役割を演じています。それに続く第二部は「言葉の典礼」と言って、正式には旧約聖書から七つの朗読箇所が奉読されて、それぞれそれに伴う答唱詩篇が歌われたり、祈願がなされたりする儀式ですが、あまり長過ぎないよう、ここでは毎年その中から四つだけを選んで致しております。この第二部の典礼の一つの特徴は、水、すなわち洗礼の水に対する讃美と称してもよいと思います。それは多くの教会堂で今宵この「言葉の典礼」のすぐ後で第三部の「洗礼式」が挙行され、その後で第四部の「感謝の祭儀」が行われるからです。
  ここでは、第一部「光の祭儀」の時に、私たち各人が手に持つ小さな蝋燭に点してもらって讃美し感謝した、復活の主キリストの光についてだけ、少し考えてみましょう。火を点火するのに便利なマッチは、産業革命時代になってから英国で発明されたものですが、キリスト時代にはまだマッチはありませんでした。それで時間をかけて火を起こすこともできましたが、通常は寺院やどこかで、オリーブ油を使って絶えず点し続けている小さな火種からもらって、蝋燭に点火することが多かったようです。先ほど私たちが手にした蝋燭の火も、祈りを唱えて祝別された、キリストの復活蝋燭に点された火から頂いた火で、それは神の力によって死ぬことのないあの世の命に復活し、その命の光を私たち各人の心に点そうとしておられる、主キリストに対する信仰と愛を象徴的に示している火であります。豊かで便利な現代社会には、極度に発達した科学技術文明の普及によって各人の生活の個人主義化や価値観の多様化が助長され、伝統的家族共同体も、職場や地域社会の共同体も絆が弱まって崩れかかっており、日々相互に話し合うことも少ないせいか、孤独・孤立に苦しむ人が激増していると聞きます。問題の多いこういう社会に生きる私たちは、復活なされた主キリストの信仰と愛の火を心に堅持しながら生きる模範を世に証しするよう、神から召されていると思います。今宵洗礼を受ける人たちと心を合わせて、私たちも自分中心のこの世的生き方に死んで、主キリストのあの世的命に生かされて生きようとする、洗礼の約束を新たに表明し、神の御旨に従う決意を神にお献げ致しましょう。
  今年311日の大震災と原発の事故で停電が続いた東日本の諸地方で生活していた人々は、電灯と蝋燭の光の違いを嫌という程痛感させられたと思います。昭和30年代に各種の電化製品が続々と一般家庭に普及し始めた時、人々は電気の便利さ有難さに驚き喜んだものでした。蛍光灯や各種のラジオ、カセット、トースターに電熱器、扇風機に炊飯器、洗濯機・冷蔵庫・掃除機等々、家庭生活を楽しく便利にするものが次々と導入され、日本国民の殆どが、社会の中流階級に昇格したような気分になったものでした。しかしこの度の震災による停電で、被災地ではそれらの全てが突然に機能しなくなり、日頃マッチや蝋燭などを身近に備えていなかった人たちは、途端に夜の冷たい暗闇に突き落とされたような気分になったことでしょう。電気は真に便利なものですが、それのみに頼っていますと、自然災害によりその電源が機能しなくなった時には、大きな不幸に見舞われることになります。現代文明の機器を利用しながらも、昔からの伝統的文明文化も保持しつつ、神目指して自由に幅広く生きること。それが、現代世界の中で仕合わせに生きる生き方だと思います。古来の伝統的文化の中でも、主キリストの信仰と愛の灯は特に大切であり、各種共同体が崩壊しつつある現代には、私たちの心に、あの世的信仰共同体の中での一層深い生き甲斐を見出させ、大きな希望をもって生きる力を与えるものだと思います。それを悩める今の世の人々に証ししながら、主と共に明るく生き抜きましょう。洗礼を受けた時の誓いを神に表明しながら。