2014年4月18日金曜日

説教集A2011年:2011年聖金曜日(三ケ日)



第1朗読 イザヤ書 52章13節~53章12節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 4章14~16節、5章7~9節
福音朗読 ヨハネによる福音書 18章1節~19章42節
 
  本日の儀式の第一部「言葉の典礼」の最初に朗読された、バビロン捕囚時代のイザヤの預言は、第二イザヤ書に読まれる四つの「主の僕の歌」の第四のもので一番長いものですが、預言者はここで、その数百年後に実現したメシアの御受難を、あたかも目前に見ているかのように生き生きと描いています。レビ族の家に生まれ、神殿傍の育児園に預けられて大きくなったと思われる聖母マリアは、子供の時から旧約聖書の教えに親しみ、長じてイザヤ書に読まれる「主の僕の歌」なども読んでおられたと推察されますから、ゴルゴタの丘へと引かれ行く主に伴って行き、3時間近くも主の十字架の下で立ち続けておられた時には、かねて黙想しておられたと思われるこの「僕の歌」をあらためて御心に思い起こし、深い御悲しみの内に、その全ての苦しみを主の御苦しみと合わせて、人類の救いのために神に献げておられたことでしょう。歌にもあるように、メシアは私たち人類の背きや咎のために神の手にかかり、打たれて苦しんでおられるのであり、彼の受けた傷によって人類は癒され、屠り場に引かれ行く小羊のように、メシアが黙々と従って自らを「償いの献げ物」となして死ぬことにより、人類の救いは成し遂げられるのですから。私たちも、主の受難死を間近で目撃しておられた聖母マリアのご心情を偲びつつ、聖母と共に主の御苦しみを心に深く刻み、主に対する感謝の心を新たに致しましょう。
  本日の儀式には、この後すぐに全人類の上に主キリストによる救いの恵みを願い求める「盛式共同祈願」があり、続いてその救いを成し遂げられた主の十字架、主の御苦難を崇め尊ぶ「十字架崇敬の式」、そして最後に聖体拝領によって主と深く一致し、私たち各人も主の御力に生かされて神から与えられる苦難に耐え、あの世の命に復活する過越の道を歩み通す恵みに参与する「交わりの式」があります。その「盛式共同祈願」の時、カトリック教会に所属していない全てのキリスト者や、ユダヤ教徒・異教徒たち、並びに神を信じていない人たちが皆悔い改めてカトリック教会に入り、キリストによる救いの恵みに預るようになどという、人間社会中心の狭いわが党主義的考えには囚われないよう気を付けましょう。50年程前の第二ヴァチカン公会議の頃から、教会ははっきりとそういう人間的この世的考えを退け、神の御旨中心主義の立場から、全人類・全世界に向けて大きく心を広げた新しい教会造り、カトリック教会の現代化に努めているのですから。
  全宇宙の創造主・主宰者であられる神の大きな立場から、美しい水の惑星と言われるこの小さな地球と、その中に生きる無数の生き物を眺めてみましょう。「作品は作者を表す」と申しますが、生命そのものの本源であられる神のお創りになったものは全てある意味で生きており、この世の自然界においては地球も太陽も皆時と共に老化して死んで行く運命にあります。しかし、神はそれらが神の超自然的愛の内に永遠に仕合わせに生き続けるものとなすために、御自身に特別に似せた人間をお創りになり、これに超自然の愛の息吹を注ぎ入れて、万物を支配する使命をお与えになりました。もしその人祖が神への感謝の心でその自由な愛の内に働き続けていたなら、この大自然界は人間を介して注がれる神の超自然の賜物によって、永遠に神と共に生きる超自然的神の国になって行ったことでしょう。しかし、創世記によると、神に反旗を翻した悪霊に騙されて人祖はその自由を悪用し、神の掟に背いて超自然の愛の賜物を失ってしまい、この自然界を悪霊と苦しみと死の支配する世にしてしまいました。
  それで神は、その御独り子をこの世に派遣して人間として受肉させ、この自然界を永遠に神と共に生きる超自然的神の国に高めようとなさいましたが、その御子は悪霊と戦いつつ、神の御旨中心主義の愛の内に全人類の罪を償うため、恐ろしい苦しみと十字架の死を経なければなりませんでした。しかし、神の力によってあの世の命に復活なされると、新たな霊的受肉の形でこの自然界の全人類・全被造物に内側から伴っておられ、可能な限り多くの人が苦しみと死を経て、あの世の神の国に導き入れられ、永遠に自由に神と共に生きる存在になるよう人知れず働いておられると信じます。超自然的神の国へのその道は、外的には千差万別だと思います。多様性を好まれる全能の神の御子は、そのようにして現代世界の中でも働いておられるようです。従って、そこに私たちの勝手な考えを差し挟まないよう慎みましょう。ユダヤ人はユダヤ人なりに、異教徒は異教徒なりに、神の御子の働きによって救われるのですから。ただ私たちカトリック者は私たちなりに、救い主の恵みが悪霊の働きを制御し、できるだけ多くの人に及ぶように祈ること、また度々愛の業や自分の受ける苦しみを、そのために捧げることを、主は私たちから求めておられると信じます。本日の「盛式共同祈願」も、この心で唱えましょう。
  十字架上の主イエスは最後まで、天の御父に御心の御眼を向けながら、徹底的従順の御精神で全てのお苦しみを、人類の救いのためにお献げになったと思われます。その救いの恵みに生かされている私たちも、聖母マリアと共に主の受難死に感謝の心を新たにしつつ、主の御模範に倣って自分に与えられる全ての苦しみを、神の愛の御眼差しに心の眼を向けながら、人類の救いのため喜んで神にお献げ致しましょう。