2014年4月20日日曜日

説教集A2011年:2011年復活の主日(三ケ日)



第1朗読 使徒言行録 10章34a、37~43節
第2朗読 コロサイの信徒への手紙 3章1~4節
福音朗読 ヨハネによる福音書 20章1節~9節

  本日の第一朗読は、使徒ペトロがカイザリアにいたローマ軍の百人隊長コルネリオとその家族や友人たちに話した説教からの引用です。この百人隊長については、一週間前の枝の主日にここでマタイ受難記が朗読された後にも、私は、このコルネリオが主の受難死やその直後の地震などを見て非常に恐れ、「真にこの人は神の子であった」と言った、あの百人隊長だったのではないかと、説教の中で申しました。おそらく彼は神に対するこの畏れの内に奥底の心が目覚め、神に熱心に祈ったり、貧しい人たちに施しをしたりしていたのだと思います。使徒言行録10章の始めには、「彼は信心深く、家族一同と共に神を畏れ、民に数々の施しを為し、絶えず神に祈っていた」と述べられていますから。彼はある日幻の内に天使のお告げを受け、それに従ってヨッパに滞在していた使徒ペトロをカイザリアに招きました。そして家族・友人と共に第一朗読にあるような説教を聞いたら、一同の上に聖霊が降って皆その賜物に満たされ、異言を語ったり神を讃えたりしたので、神が異邦人にも聖霊の賜物をお与えになったのを目撃したペトロは、それまでの考えを変えて、彼ら皆に水の洗礼を授けたことが聖書に記されています。
  本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「古いパン種をきれいに取り除きなさい」「パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」とコロサイ教会の信徒団に呼びかけています。パン種はパンを膨らませて美味しくするものですが、腐敗を早めるというマイナス面もあります。マタイ福音書16章によると、主は一度弟子たちに「ファリサイ派の人々やサドカイ派の人々のパン種に注意し、警戒しなさい」という言葉で、神の働きを記した聖書も律法も、私たちを罪から救おうとしておられる神の大きな愛や呼びかけの立場からではなく、全てを人間中心に理知的に解釈して民衆に対する自分たちの社会的優位を固め、ただ外的に全ての規則を厳守させようと努めている、彼らのこの世的精神に警戒するよう話しておられます。使徒パウロがここで「古いパン種や悪意と邪悪のパン種」と表現しているパン種も、当時のファリサイ派のそのような人間理性中心の利己的精神を指していると思われます。主イエス復活の真実を正しく受け止め、主が私たちの心に与えようとしておられる大きな希望と喜びの恵みを豊かにいただくには、私たちもこの世の社会中心・人間中心の理知的精神という古いパン種を捨て、幼子のように素直で純粋な信仰心で、神の新しい働きや新しい啓示をそのまま全面的に受け入れる必要があると思います。まだ信仰の恵みに浴していない人たちのためにもその恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。
  本日のヨハネによる福音には、使徒ヨハネよりも先にペトロが主の葬られた墓に入り、主の御遺体を包んでいた「亜麻布が置いたあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所にはなく、離れた所に丸めてあった」と述べられていますが、もし誰かが主の御遺体をどこかへ移したり、盗みとったりしたのであれば、血だらけのその御遺体を包んでいた亜麻布を、密着していたその御遺体からはがして墓の上に置いたり、御頭を結んでいた布を離れた所に丸めて置くことなどは考えられません。ヨハネは聖母マリアと共に、時間不足のため大急ぎで近くの新しい墓に葬られた主の御遺体が、付着していた御血を綺麗に洗い流されずにそのまま亜麻布に包まれたのを目撃していたでしょうし、主を余所に運び出す人が、その血だらけの亜麻布を御遺体から離して墓の上に置いて行く事などはあり得ないと考えたと思います。日本語訳で「頭を包んでいた覆い」とあるのは、御頭をすっぽりと包んでいた頬かぶりのような布ではありません。死人の開いた口を塞ぐために、顎の下から頭の上にかけて巻いて縛った手ぬぐいのような布のことです。使徒ヨハネはそれらを見て、旧約聖書にそれとなく述べられている預言の言葉は、まだ正しくは理解していなかったようですが、しかし、主は生前に予告しておられたように、やはり復活なされたのではなかろうか、と考え始めたと思います。ヨハネは「もう一人の弟子も入って来て、観て信じた」と書いていますが、この「観て」という動詞は、ペトロが亜麻布が置いてあるのを「見た」という時の動詞とは違う、エイドンというギリシャ語を使っています。これは、単に外的に見るのではなく、心の感覚を働かせて深く観る時に使う言葉です。としますと、そのすぐ後にある「信じた」という言葉にも、ヨハネは、心で主の復活を信じ始めたという意味を込めているのではないでしょうか。察するに、空になった主の墓を見ただけでは、ペトロの心はまだ深い謎に包まれていたでしょうが、ヨハネの心は既に主の復活を信じ始めていたのではないでしょうか。私たちもこの時の使徒ヨハネのように、現代の様々な出来事をただマスコミの報ずるままに外的に理解するのではなく、もっと神の働きや神信仰と結び合わせて、慎重に幅広く心の感覚を働かせて受け止めるよう心掛けましょう。神はこの度の大災害を介しても、それとなくいろいろと私たちの心に呼びかけておられるのではないでしょうか。