2014年4月6日日曜日

説教集A2011年:2011年四旬節第5主日(三ケ日で)



第1朗読 エゼキエル書 37章12~14節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章8~11節
福音朗読 ヨハネによる福音書 11章1~45節


  主のご受難ご復活を記念する日が近づいて来ましたが、本日の朗読聖書は、私たちの体を新しい命に復活させる神の霊について語っています。第一朗読のすぐ前に述べられている聖書を読んでみますと、バビロン捕囚時代に預言者エゼキエルは、主の霊に連れ出されてある谷の真ん中に下ろされ、その谷が一面に枯れた骨で覆われている幻を見ました。彼が神からの言葉通りにその骨たちに呼びかけると、神の霊がその骨たちの中に入り、骨たちが相互に繋がって無数の人間の大集団となりました。そして神は、霊によって生き返ったその人間集団を、イスラエルと呼んで預言者エゼキエルに紹介しました。この幻の後、神は囚われの状態で生きているイスラエルの民に対して、本日の第一朗読にあるように、「私はお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地に連れて行く」「私がお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。私はお前たちを自分の土地に住まわせる。その時お前たちは、主である私がこれを語り、行ったことを知るようになる」などの話をなさったのです。

  2千年前のキリスト時代の敬虔な律法学者たちは、エゼキエルのこの預言を世の終わりに起こる出来事として受け止めていた、と聞いています。墓の中の死者たちは神が彼らの中に霊を吹きこむことによって復活する、と預言されていることは注目に値します。2千年前にそういう律法学者たちから学んだからなのでしょうか、使徒パウロはコリント前書15章の中で、復活する人間の体について説明した時、「蒔かれる時滅び去る筈であったものが、復活する時には滅びないものとなります」「蒔かれる時無力であったものが、復活する時には力あるものとなります。自然の命の体として蒔かれ、霊的な体として復活するのです」「最初の人間は地から出たもの、土で造られたものですが、第二の人間は天からのものです」などと述べていますが、世の終わりに主が再臨して私たちの体を滅びることのない霊的な体に復活させる時、主は聖霊を吹きこむことによって、土で造られたものではない「霊的な体」に復活させて下さるのではないでしょうか。その時私たちの体は、使徒パウロが書いているように、今あるこのみすぼらしい種粒のような体とは比較できない程の、永遠に光輝く力強い体に変容するのだと思います。
  私たちが今生きているこの世の暗い不安な人生は、罪の穢れであの世の太陽の光を失っており、霊的には巨大な墓の薄暗い闇の中にあるようなものだと思います。人間はそこで蝋燭の灯や電灯などを次々と発明し、身近な処から闇や不安を打ち消して、少しでも明るく楽しく生活しようとしていますが、しかし、人間理性の発明した灯りと神がお創りになった太陽の光とでは、大きく違っています。太陽の光を失って夜の闇に包まれているような処では、遠くの山々や大空の美しさを観賞することも、月や星の美しさを仰ぎ見ることもできません。この世の私たちの心は、霊的にはそのような神秘な広大な夜の闇に包まれていて、刻々と足早に過ぎ行く儚い人生を営んでいるのではないでしょうか。意識していなくとも、死の恐怖は絶えず私たちの体に付きまとっています。しかし、主キリストの霊を身の内に宿しているなら、体は罪によって死に纏われていても、霊はすでにあの世の命に生かされているのであり、やがてその霊が死ぬはずの私たちの体をも、主イエスの復活体のようにして生かして下さるというのが、本日の第二朗読に読まれる使徒パウロの教えだと思います。私たちもこの信仰の内に、たとい体は老齢・病気・死などの苦しみに纏われ苛まれていても、全てを主キリストと共に耐え忍び、希望をもって雄々しく生き抜きましょう。
  本日の福音はヨハネ福音11章のほとんど全文で、一人の人物の死についてこれだけ長い記述がなされているのは、新約聖書の中ではラザロだけです。しかもその中で、ラザロは一言も話していません。ただラザロが死んだことと、その死をめぐる人々の動き、並びにラザロが主イエスによって蘇らせられたことだけが、詳述されているのです。使徒ヨハネがラザロの死と蘇りをこれ程詳しく述べているのは、間近に迫っていた主イエスの受難死と復活に対する主の基本姿勢の現れを、これらの出来事の内に垣間見ていたからなのではないでしょうか。話の中心はラザロにではなく、主イエスの御心にあるのだと思います。主がラザロの墓の前で、「父よ、私の願いを聞き入れて下さって感謝します。云々」と祈られたことから察しますと、主はラザロの家に行く間にも、罪と死に対する神の絶対的権能を多くの人の前に力強く立証するための御導きを、天の御父に願っておられたように思います。こうして罪と死による悪霊の支配を打ち砕く全能の王としての威厳を示しながら、ラザロの家に乗り込んで行かれたのではないでしょうか。マルタに対して、「私は復活であり、命である。私を信ずる者は死んでも生きる」「あなたはこのことを信じるか」と言われた時の主のお姿には、そのような王としての威厳が満ち溢れていたことでしょう。墓に葬られて既に四日も経っていたラザロの遺体に、主は大声で「ラザロ、出て来なさい」と力強く命令し、御自身の内に漲る聖霊を吹きこまれることにより、ラザロを蘇らせたのではないでしょうか。それは、主が世の終わりに私たちをも復活させる力の持ち主であられることの証しでもあると思います。私たちは皆遅かれ早かれこの世を去らなければなりませんが、主の贖いの御功徳によって、死後には神が支配する明るい美しい世界が私たちを待ち受けているのです。メシア待望の時代は過ぎ去り、メシアが吹き込む神の新しい息吹・聖霊によって生きるものとなる終末時代が、既に始まっているのです。大きな感謝の心で、主の受難死を記念する聖週間をお迎えしましょう。