2014年4月13日日曜日

説教集A2011年:2011年受難の主日(三ケ日)



第1朗読 イザヤ書 50章4~7節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙 2章6~11節
福音朗読 マタイによる福音書 26章14節~27章66節

  「枝の主日」とも言われる本日の祭式の始めには、主が受難死の数日前に弟子たちを連れてエルサレムに入城なさった時の福音が朗読され、大勢の群衆が木の枝や自分の服を道に敷いて主キリストの入城を歓迎した出来事が、先ほど私たちが為したような行列の形で記念されます。過越祭のため世界各地から既にエルサレムに来ていた大勢の群衆が、「ダビデの子にホサナ」と熱狂的に叫び続けた時の情景を偲びながら、私たちも枝を手にメシア歓迎の賛歌を歌いながら、行列して聖堂に入堂したのです。「ホサナ」という言葉は、「今救い給え」という意味だと聞いています。それは、「神を称えよ」という意味の、勝利の喜びに溢れたハレルヤとは異なり、神から派遣された偉大な王メシアに対する、歓迎と願いの叫びであったと思われます。
  ミサの第一朗読は、第二イザヤの預言書に読まれる四つの「主の僕の歌」の、第三の歌からの引用ですが、そこでは「主の僕」すなわちメシアが、人々からどれ程苦難や辱めを受けても、神の御旨に徹底的に聞き従うお姿が描かれています。「私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けて下さるから、私はそれを嘲りとは思わない」などと、主は恐ろしい苦難の最中にあっても内的には少しもひるまず、神から派遣された宇宙万物の王としての権威を堅持しながら、全ての恥と苦しみを耐え忍んでおられたと思います。何物にも屈しない威厳に満ちたその静かな御眼やお姿に触れて、悪霊たちも悪の勢力に与する人々も、ますますいきり立ち、主の威厳を損なうあらゆる悪口を浴びせたり、そのお体の苦痛をいや増すようなことをしたりしたのかも知れません。
  本日の福音であるマタイ受難記によりますと、ローマ総督の一部の兵士たちは、主を激しく鞭打って傷つけた後に、再び主の衣服をはぎ取って赤い外套を着せ、「王だ」と宣言なされた主の御頭に茨の冠をかぶせたり、右手に葦の棒を持たせてお顔に唾を吐きかけ、その葦の棒で御頭をたたき続けたりしています。祭司長や律法学者、長老たちも主を侮辱しています。しかし、人間としてのまともな心をもっていた人たちは、それらの侮辱や責め苦に静かに耐えておられる主の御眼やお姿に、深い感銘を受けていたのではないでしょうか。本日の福音の最後に述べられているように、百人隊長や一緒に見張りをしていた人たちは、死に行く主の御眼やお姿から受けたその感動を心に深く刻みつつ、主が息を引き取られた時の地震や、それまでのいろいろな出来事を見て非常に恐れ、「本当に、この人は神の御子であった」と話し合ったのではないでしょうか。
  毎年の過越祭には世界各地から大勢の巡礼者たちがエルサレムに集まるので、社会秩序や平和を重視していた当時のローマ総督は、ローマの支配に不満を抱く過激派によって暴動が発生しないよう、普段住んでいるカイザリアの港の傍の本拠地から兵士たちを連れて来て、その過越祭前後数週間をエルサレムの宮殿に滞在していました。この時の百人隊長も、普段はそのカイザリアの兵舎に勤務していたと思われます。使徒言行録10章には、そのカイザリアにコルネリオという百人隊長がいて、「家族一同と共に神を畏れ敬い、民に数々の施しを為して絶えず神に祈っていた」とありますが、私はこの百人隊長が主の受難死をお傍で目撃していた人ではないかと考えます。彼はある日の午後3時頃、幻の中で天使から、ヨッパの皮なめしシモンの家に泊まっているペトロを家に招くよう命じられます。それで信心深い一人の兵卒と二人の下僕とをヨッパに派遣したら、彼らがシモンの家に到着する少し前に、昼の祈りをしていたペトロも3回幻の内に神の声を聞き、神の命令に従ってその使者たちと一緒にカイザリアの百人隊長の家を訪れ、そこに数日間滞在しました。そして、その百人隊長とその家族、並びに自分の説教を聞いた人たち皆に洗礼を授けました。彼らの上にも聖霊の賜物が豊かに注がれたからでした。
  使徒パウロは本日の第二朗読の中で、主イエスが神と等しい御方でありながら、ご自身を無となして人間となり、しかも十字架の死に至るまで天の御父に従順であったことを称揚しています。私たちも、神によって全てのものの主君・王と立てられている主イエスのこの御模範に倣い、自分の身に誤解や苦難がふりかかる時には、潔くそれらの苦しみを耐え忍び、多くの人の救いのために神にお献げ致しましょう。そのため日頃から、ご聖体の主と一層深く一致して生活するよう心がけましょう。主は御受難会の創立者十字架の聖パウロに、「私を抱擁する者は、誰でも棘を抱擁するのだ」と話しておられます。主を愛し、主と一致して生きようとする者には、いつ思わぬ苦しみが神から与えられるか分りません。そのことも、覚悟していましょう。
  十日程前に名古屋の映画館で、昨年のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞したフランス映画「神々と男たち」を鑑賞しました。それは1996年にアルジェリアで実際に起きた事件、すなわち武装イスラム集団によるフランス人トラピスト会員誘拐殺害事件を、俳優たちが演じた映画です。アルジェリアの貧しい片田舎に小さな修道院を建て、貧しいイスラム教徒も崇めている同じ宇宙万物の創造主を褒め称える祈りやミサを献げつつ、彼らの生活を支えたり医療活動に従事したりしていた9人の修道士たちに、イスラム過激派による危険が迫って来た時、フランス政府は修道士たちに、幾度も生命の危険を指摘して帰国を命じたりしたのですが、修道院を頼りにして生活している貧しい村人たちへの愛のため、修道士たちは祈りつつ、また相互に幾度も話し合いつつ留まり続けました。20キロほど離れている拠点に住む武装集団は、その修道院を二度ほど武器を持って調べに来ましたが、村人たちへのその奉仕活動を見たからなのか、年老いた医師を連れ去ったり、薬品を持ち去ったりはしませんでした。しかし、彼らの幹部がフランス軍に逮捕されると、捕虜交換の条件でその釈放を要求するためなのか、真夜中に突然修道院を襲って、修道士たちを連れ去りました。その時一人の修道士はベットの下に隠れて発見されなかったために逮捕を免れ、一人は不在でした。逮捕された7人は後で殺されますが、一列になってその処刑場に連れて行かれる所で映画は終わっていました。修道院長を始めとする彼ら7人が逮捕されるまでの、彼らの生活や相互の話し合いなどは、生き残った人たちから得られた情報だと思います。大きな危険を目前にして揺れ動く心を、信仰と愛の内にどう慰め励まし合うかを思わせる、感動的な映画であると思いました。映画には朝晩の祈り、ミサ聖祭やクリスマスのお祝い、聖体拝領の場面などもありましたが、主キリストがそれらの祈りやミサ聖祭を介して、彼らの心を支え導いておられたように思われます。私たちも、日々の祈りやミサ聖祭を心を込めて為すよう心掛けていましょう。大きな危険が迫る時には、主キリストが私たちの心を支え導いて下さいます。