2013年4月28日日曜日

説教集C年:2010復活第5主日(三ケ日)



朗読聖書: . 使徒 14: 21b~27. Ⅱ. 黙示録 21: 1~5a.

     Ⅲ. ヨハネ福音 13: 31~33a, 34~35.

    本日の第一朗読に読まれる、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」という使徒パウロの言葉は、現代の私たちにも告げられている神よりの言葉であると信じます。天国の栄光への道は、死の向こう側に主キリストによって開かれた道であり、受難死を遂げて復活の栄光へと進まれた主は、現代の私たちに対しても、「私の羊たちは私の声を聞き分ける。彼らは私に従って来る」「私は道である」あなた方も「私に従って来なさい」などと、事ある毎に呼びかけておられるのではないでしょうか。私は一度「私に従って来なさい」という主のお言葉が、福音書に何回読まれるかを調べたことがあります。主がそのお言葉を話された相手は、「まず、父を葬りに行かせて下さい」と願った一人の弟子であったり、税関にいたマタイや永遠の命への道を尋ねた金持ちの青年であったり、群衆と弟子たちであったり、ご受難の予告を聞いた直後の使徒たちであったり、フィリッポ個人あるいはペトロ個人であったり、対象はいろいろと違っていますが、共観福音書に重複しているもの四つを除いても、主は少なくとも十回はこのお言葉を繰り返しておられます。主ご自身が歩まれたようにしてその御後に従い、数々の苦しみと死の暗いトンネルを抜け出た所に、神の国の栄光へと昇る新しい道が主キリストによって切り開かれているのではないでしょうか。そのために主は、あえて幾度も「私に従って来なさい」と話しておられるのではないでしょうか。

    世の終り後のあの世の情景を描いている本日の第二朗読には、「神は、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない」という言葉が読まれます。私たちも主キリストの御後に従って神から与えられる数多くのこの世の苦しみを甘受するなら、そして主と一致して、その苦しみを自分中心主義に陥った人祖の罪と無数の人類の罪の償いとして父なる神のお捧げし、神と人とに対する愛を磨き鍛えるなら、自我に打ち克ってあの世の栄光に入られた無数の聖なる人たちのお仲間に入れてもらえるのではないでしょうか。愛深い父なる神は、この複雑に入れ乱れて互いに傷つけ合っている苦しみの世の万物を全く新しくして、美しい「聖なる都、新しいエルサレム」に創り変えようとしておられるようです。大きな明るい希望の内に、主の御後に従い続けましょう。

    本日の福音によりますと、主はユダがその裏切りを実行しようとして晩餐の広間から出て行くとすぐ、「今や、人の子は栄光を受けた。云々」と話し始められたのですから、「栄光を受ける」「栄光を与える」の言葉は、主の受難死とそれに続く復活・昇天などを示していると思います。主は最後の晩餐の締めくくりにも、この言葉を使って天の御父に荘厳な大祭司的祈りを捧げておられますが、その祈りを吟味してみますと、天の父なる神が主にお与えになる栄光は、決して主お一人にだけお与えになる個人的閉鎖的なものではなく、主を信ずる全ての人にも救いと栄光をもたらす開かれた恵みであると思われます。したがって、主を信ずる私たちも皆、遅かれ早かれ主の御後に従って同じ道を歩み、主の復活の命に生かされ助けられて、この世の苦しみを甘受し、この世の命を神に献げてあの世の栄光へと移るべきだと思います。しかも、単に自分一人の幸せのためにではなく、助けを必要としている多くの人の救いのために、主と一致して主の司祭的精神で甘受し献げるようにというのが、最後の晩餐の席上での主のお言葉やお祈りの意味であり、私たちに対する主の切なる願いであると思います。

    「子たちよ」という愛のこもった呼びかけで始まる本日の福音の後半は、迫り来るご自身の受難の時を迎えて、弟子たちに対する、ひいては主を信じて御後に従おうとしている私たちに対する、別離のお言葉であると思います。主は「あなた方に新しい掟を与える。私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」とおっしゃいましたが、これは実際新しい愛の掟だと思います。旧約聖書にも、「心をこめ、魂をこめ、力を尽くしてあなたの神を愛せよ」という掟や、「己のように、隣人を愛せよ」という愛の掟はありました。この二つの愛の掟を、第一の掟、第二の掟と優先順位をつけて「最も大きな掟」として教えられた所に、主キリストの教えの新しさはありますが、この愛の掟それ自体は古い時代から強調されて来た、いわば「古い掟」です。しかし、弟子たちの足を洗うなどの画期的な模範をお示しになり、これから弟子たちの救いのためにも全人類の救済のためにも、ご自身の命を全く献げて恐ろしい受難死を引き受けようとしておられた主はここで、「私があなた方を愛したように」という新しい言葉を添えて、互いに愛し合うことをお命じになりました。主の数々の模範によって裏付けられたこの命令は、神への徹底的愛と従順に根ざした相互愛を意味していると思いますが、それはもう私たちが自力で遵守しようと努めるべき掟と呼ぶよりは、主の生きている模範を見つめつつ、主の霊に生かされ導かれて守るべき、新しい生き方への招きと言ってよいと思います。私たちは、自力に頼っていてはいつまでもそのような生き方をなすことができず、ただ主の御命に生かされる器や道具のようになり、主に生きて頂くことによってのみ守ることのできる、全く新しい掟なのですから。

    受難死によって私たち全人類を罪から償い、あの世の永遠の霊的命に復活なされた神の子キリストの愛は、罪から浄化され救い出された私たちの存在の根拠であり、今の私たちの存在を基礎付けている実存であります。主のこのような計り知れない大きな愛とその内的支えに感謝しながら、私たちも主が愛して下さったように捨て身になって相互に愛し合うように努めましょう。私たちのこの純真な努力を妨げるものは山程あるかも知れません。しかし、負けてはなりません。十字架を運ばれた時の主のように、幾度倒れても新たに立ち上がって主と共に歩み続けましょう。以前にも一度ここで話したことがありますが、「鯉のぼり泳ぐときには向かい風」という句があります。ある程度苦しい向かい風が強く吹く時にこそ、鯉のぼりは青空高く颯爽と美しく泳ぎます。私たちも精神的内的には、そのような若さと美しさをいつまでも失わないよう心がけましょう。逆風が自分の体を通り抜けることのないような所でのみ生活していようと努め、風を避けていますと、だらんと垂れ下がった鯉のぼりのような、喜びと美しさに欠ける見苦しい信仰生活、修道生活になる恐れがあります。気をつけましょう。先週の木曜日に起床した時、ふと小学6年生の時、学級担当の先生から聞いて愛唱していた和歌が口をついて出たので驚きました。六十数年間も口にしたことがない歌なので、記憶違いの不完全さがあるかも知れませんが、万葉集に載っている歌だと思います。「御民われ生けるしるしあり 天地の栄ゆる時にあえらく思えば」という歌です。もし間違っていましたら、教えて下さい。万葉時代の感謝と喜びに溢れているこの明るい積極的精神を、内的に落ち込み勝ちな現代社会の人々の中に、神信仰と結合して広めるよう心掛けましょう。

2013年4月21日日曜日

説教集C年:2010復活第4主日(三ケ日)



朗読聖書: . 使徒 13: 14, 43~52. . 黙示 7: 9, 14b~17.

     Ⅲ. ヨハネ福音 10: 27~30.

    ご存じのように、復活節の第四主日は昔から「善き牧者の日」と呼ばれていますが、第二ヴァチカン公会議の後半頃から「世界召命祈願の日」ともされて、善き牧者・主キリストの生き方を体現するような司祭・修道者が一人でも多くなるよう、この日に全教会と心を合わせて祈ることが勧められています。私たちは毎月の第一月曜日に司祭・修道者の召命祈願の意向でミサ聖祭を献げており、毎週土曜日の晩の祈りにも、同じ意向で一つの祈りを唱えています。今日のこのミサ聖祭も、その意向でお献げ致します。ご一緒にお祈り下さい。日本の人口の少子化と高齢化の中で、現代のカトリック者数は減少しつつあり、それに応じて司祭・修道者の数も大きく減少して来ています。多くの人は、その統計的数値の変化だけを見て、これは現代文明社会の一般的趨勢でどうしようもない、と諦めているように見えますが、私は司祭・修道者減少の一番大きな原因は、日本のカトリック者たちの心に若々しい宣教精神が欠如していることにあると思います。四十数年前の公会議の時、カトリック教会は戦後の人類社会やキリスト者の動向を分析しつつ、初代教会の熱心に立ち戻ろうと決意を新たにして、キリスト教会は本質的にmissionaria (宣教的)であるという、神より教会に与えられている根本的使命を自覚しました。そしてこの観点から、「世界に開かれた教会」や「教会の現代化」などのモットーを生み出し、また理解していました。ですからその公会議の閉会式の時に私は、「さあこれから、カトリック教会の新しい世界的発展の時代が始まるのだ」と、明るい大きな希望に胸を膨らませていました。

    しかし、現実は正にその閉会式の時点から、カトリック教会の多くのメンバーたちが深刻な内部分裂と精神的マイナス面を露呈し始め、国際的に広まったその教会世俗化の乱れの中で、多くの司祭・修道者が続々と一般社会に戻ってしまいました。後で反省してみますと、福音の信仰精神・宣教精神で一般社会の精神的流れを浄化し神へと高めて行くべきなのに、多くのカトリック者は戦後の教育やマスコミを介して文明社会一般に広まり強まって来た便利主義、個人主義、自由主義の流れに心の中まで汚染されて、高度に発達した現代世界の世俗的流れに逆に押し流され、染められてしまったように見えます。

    堅実な宗教心も神の助けも見出せずにいる今の世の放埓な自由主義、個人主義の流れの中で、家庭でも職場でも心と心の結合が崩され解消されて、対立や孤独に苦しむ人、生きがいを見出せずに自死する人たちが激増しているのに、その人たちの心に主キリストの齎した信仰と希望の光を伝える力を失って、諦めているような今の日本の教会の姿を見ますと、悲しくなります。しかし、あの公会議を介して神が新しくお示しになった現代的福音宣教の精神は無くなってしまった訳ではなく、今も深層水のようになって、教会内の少数者の中で根強く継続し生きていると思います。その隠れている健全な公会議精神が、神によって現代の有意な若者たちの心に点火され、行き詰まりに直面しているように見える日本の教会を、新しく大きく発展させてくれるよう、明るい希望をもって神に祈り続けましょう。聖母マリアや使徒パウロのように、あるいは福者マザー・テレサのように、各人が「古いアダム」の精神に死んで、神の婢・神の僕として日々小さな事で神への従順に生きるなら、復活の主キリストが、また全能の神の霊が、その少数の「残りの人たち」の心を介して強力に働いて下さり、戦国末期の社会不安の中で大きな成果を上げたキリシタンたちのように、再び日本の宣教活動を立て直し発展させてくれると信じます。希望の内に祈りましょう。

    本日の短い福音の中で主は、「私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。云々」と話しておられます。これは裏を返せば、人間が頭で作り上げた理念や主義・主張を中心にして、主の話されたお言葉を理解しよう、合理的に解釈しようとしても無駄で、不可解なものが次々と生じて来て心を悩まし、神が求めておられるような実を結べないことを示し、警告している言葉であると思います。神に背を向けて堕落した「古いアダム」の、自分の理解中心の自力主義精神に一度全く死んで、神の婢、神の僕となり、日々復活の主キリストの御声に聞き従って生きようと努めるなら、本日の福音にあるように、真の牧者であられる主の御声を正しく聞き分けることができるようになります。そして神に向かって大きく開かれたその小さな心の中にあの世の光が差し込んで明るく照らし、それまでいくら考えても不可解であったことが、次々と問題なく解消して行くのです。大切なのは、自分の理解を中心に据えるファリサイ派のパン種を捨て去り、まずメシアを神よりの人として受け入れ、その御声に従って生活しようとする謙虚な信仰の生き方を日々実践することです。そうすれば、神よりの恵みの光が心の闇を追い出して、主の御声を聞き分けることができるようになり、本当の真実が明らかになって行くことでしょう。福者マザー・テレサのように、現代社会の一番下の層でも、また社会の上流・中流の層でも、この精神で復活の主キリストの新しい導きや働きを証しする司祭・修道者が、一人でも多く現代社会の中に育ちますよう、本日のミサ聖祭の中で祈りましょう。

2013年4月14日日曜日

説教集C年:2010復活第3主日(三ケ日)



朗読聖書: . 使徒 5: 27b~32, 40b~41. . 黙示 5: 11~14.

     Ⅲ. ヨハネ福音 21: 1~19. 

    本日の第一朗読は、使徒言行録の4章に述べられている、サドカイ派祭司たちによる使徒ペトロとヨハネの捕縛、ならびにこの二人に対するユダヤ人の最高法院の尋問と、二人の答弁に続いて再度投獄されたペトロと他の使徒たちに対する最高法院からの尋問と、それに対する使徒たちの答弁などについて扱っています。主キリストの受難死と復活の後、使徒たちの証言を聞いて悔い改め、洗礼を受けた人の数は、既に男たちだけで5千人ほどにもなりましたが、その多くはエルサレム以外の地に住んでいたようですから、エルサレム市内に住む信徒数は、まだそれ程大勢ではなかったと思われます。しかし彼らは、神が使徒たちを通して行われる多くの不思議なしるしを見て、神に対する畏れの内に心を一つにし、資産も共有にして、祈りも食事も共にしながら生活していたようです。

    社会的、人間的には弱くて迫害されているこういう人たちの小さなグループが、神に対する畏れのうちに心を一つにして信仰と相互奉仕の愛に励んでいるのを御覧になると、神はそういう人たちの中で特別にお働き下さるようです。無学なペトロたちがソロモンの回廊などで堂々と説教したのも、度々癒しの奇跡などのしるしをなしたのも、神の霊に動かされてのことでした。本日の第一朗読の話の直前にも、使徒たちはサドカイ派に捕らえられて公共の留置所に入れられていたのに、夜に主の天使が牢の戸を開いて彼らを連れ出し、「行きなさい。神殿の境内に立って、この命の言葉を全て民衆に語りなさい」と命じたのでした。信仰に生きる人たちが、この世的弱さ・小ささ・窮乏などの中で、祈りに応えて生き生きと働いて下さる神の支えや導きを体験すると、神に対するその信仰・信頼は一層強まり、どんな脅しや迫害にも屈しないものになります。第一朗読の最後に、「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行った」とあるのは、そのことを示していると思います。信仰を磨き鍛えるものは、何よりも実生活の中で神の働き・導きを体験することであると言っても、過言ではありません。私たちも自分の弱さ・小ささ・貧しさを愛し、それらの中で神に結ばれて生きることにより、信仰を実生活の中に深く根を下ろした、根強いものにするよう心がけましょう。

    一晩中漁をしても何も取れず、明け方には疲れと空腹を覚えていたと思われる弟子たちに、既に炭火をおこしてその上に魚を載せ、別にパンも用意して提供して下さる復活なされた主は、決して遠いあの世の存在、遥かに高い天上の存在ではなく、私たちの日常生活に伴っていて下さるごく身近な存在としてのご自身を、この出来事を通してお示しになったのではないでしょうか。153匹もの大漁をさせて下さったばかりでなく、自分たちにパンと魚などの朝食まで提供して、あの世を本当に身近なものとして痛感させて下さる、真に優しい思いやりに溢れておられる主のお姿を間近に見て、主と一緒に朝の食事をしながら、弟子たちは何を考えたでしょうか。

    お姿もお顔も以前とは多少違って見えますが、その風格やお声、並びに主がご受難によってお受けになった手足の深い傷跡は、エルサレムでご出現なされた時と同様、全く主ご自身であります。ですから弟子たちは誰も、「あなたはどなたですか」などとお尋ねしませんでした。しかしそれにしても、神から遣わされたメシアの来臨と復活によって、この世の人生がこんなにもあの世に近いものとなったことに、言い知れぬ感動を覚えたのではないでしょうか。ご復活後のあの世の主は、この世の私たちの平凡な日常生活にもすぐそばで伴っておられ、黙々と全てを御覧になったおられて、必要な時には助けようとしておられるのです。私たちも、このことを堅く信じながら、生活するよう心がけましょう。

    本日の福音の主題は、「不思議な大漁」というよりも、「復活の主が提供された食物」といった方がよいと思います。夜明け頃に岸辺に出現なされた主は弟子たちに、「魚は獲れたか」とお尋ねになったのではなく、「何か食べるものはあるか」とお言葉をかけられたのですから。ここで「食べるもの」と訳されている言葉プロスファギオンは、もともとは主食に味を添えるおかずの意味です。主食のパンは、主が既に弟子たちのために豊かに用意しておられたのだと思います。まだ春の曙の薄闇が残っていた時でしょうから、200ぺキュス、すなわち約90mも離れていますと、主のお姿も定かには見えなかったでしょうが、マグダラのマリアが「マリア」という主の呼びかけで、すぐに主だと判ったように、聴き覚えのある主のお声と不思議な大漁から、ヨハネは「主だ」と言ったのではないでしょうか。ヨハネのその声を聞くと、ペトロはすぐ上着をまとって水に飛び込み、泳いで主の御許に行きました。初めに述べられている弟子たち7人の名前から察しますと、主の生前に出来上がっていた出漁のグループは主の死後もそのまま続いており、これは、将来の信仰共同体も自然の人間的結びつきを排除しないことを示しているように見えます。

    本日の福音に読まれる「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた」という言葉は、ヨハネが書いているあのパンの奇跡の所でも、同様に書かれています。そこでは主が後で、「私は天から降って来た生きるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きるであろう」と宣言しておられますから、復活なされた主がこの時、ガリラヤ湖畔で弟子たちに提供なされたパンも、単に彼らの胃袋を満たすための食物ではなく、同時に彼らを復活の主の愛の命に参与させ、永遠に生きるように養う霊的恵みの食物であったかも知れません。その同じ主は、今も目に見えないながら私たちの日常生活に伴っておられ、事ある毎に私たちの生活や必要を助け、霊的恵みの食物で私たちを養い力づけて下さっているのではないでしょうか。本日の聖体拝領の時、日ごろの主のこの隠れたお助けとお力添えに、深く感謝申し上げましょう。そしてその感謝を、私たちが日常的に出会う小さな不便や小さな失敗、あるいは小さな幸運や小さな成功などを、全て神の御手から喜んで受け止め、神にお献げすることによって表明致しましょう。それらは皆神よりの贈り物で、それらの小さなものに対する私たちの心の態度に、神は特別に注目しておられるように思います。小さなことを軽視しないよう心掛けましよう。