2013年4月7日日曜日

説教集C年:2010復活第2主日(三ケ日)


朗読聖書: . 使徒 5: 12~16. . 黙示 1: 9~11a, 12~13, 17~19.

. ヨハネ福音 20: 19~31.

    本日の福音は主が復活なされた日の夕方の出来事と、そのちょうど一週間後の出来事について語っています。この二つの出来事を比べてみますと、幾つかの点で類似しています。その一は、どちらも「週の初めの日」、すなわち私たちのいう日曜日に起こった出来事であることです。それで教会は初代教会の頃から、復活なされた主が特別にお働きになったこの日を「主の日」として大切にしており、今でも教会は、この日に主の復活を記念し、その恵みに感謝を献げています。天に昇られた復活の主が、天から聖霊を火の舌の形で劇的に送って下さったのも、同じく日曜日でした。その二は、どちらのご出現の時にも、主は初めに「あなた方に平和があるように」と、弟子たちに挨拶しておられることです。恐らく今日でもユダヤ人の挨拶にごく普通に使われている「シャローム」という言葉で、挨拶なさったのだと思われますが、しかし復活なされた主は、社会で言い交わされている挨拶よりは遥かに深い意味を込めて、弟子たちにこの言葉を話されたと思われます。すでに主は、最後の晩餐の席上弟子たちに、「私は平和をあなた方に残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない」と話しておられますが、復活の日の夕方にも、その挨拶のすぐ後で、重ねて「あなた方に平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」とおっしゃいました。これはもう、単なる挨拶や相手の上に平和を祈る願望の言葉ではなく、主が実際にご自身の内に持っておられる「神の平和」を、弟子たち各人の心に与えるために話された言葉であると思われます。

    主はこう話されてから、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなた方が赦せばその罪は赦される。誰の罪でも、あなた方が赦さなければ赦されないまま残る」とおっしゃっておられます。主がこの時お与えになった平和は、全ての罪を赦して神と内的に和解させる実存的恵みの平和、神に背を向け勝ちだった私たちの存在を聖霊の愛によって変革し、新しい被造物に創り変える「神の平和」だからではないでしょうか。「シャローム」という言葉は「平和」と邦訳されることが多いですが、「平安」と訳すこともできます。他者との関係に注目する時は「平和」という訳が、各人の心の状態に注目する時は「平安」という訳が適当であると思われます。「シャローム」には、この両方の意味が含まれていると思います。心に神の働きによる平安を宿しながら、神とも人とも平和に暮らす生き方、それが復活なされた主が弟子たちに齎された最初の恵みであると思います。わたしが三十数年前に上智大学でのカトリック神学会で研究発表をした時に、本日の福音に登場する主の御言葉を「私は平安をあなた方に残し、云々」と邦訳して話してましたら、私のすぐ後に研究発表した奥村一郎神父から高く評価され、聖書の邦訳にこの個所が「平和」という言葉一辺倒に邦訳されているのは問題だとの指摘もありました。

    主は、やがてまた死ぬことになるこの世の命に蘇られたのではありません。永遠に死ぬことのないあの世の栄光の命に復活なされたのです。その主が、あの世の命に復活したお体でこの世に顕現なされると、そのお体にはただならぬ神の威厳や霊能のようなものが伴っていて、人々の心に恐れを感じさせるものがあったのではないでしょうか。復活の日の出来事について他の福音書に読まれる記事を調べてみますと、例えばマタイ福音書には、「婦人たちは恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去った」とか、「婦人たちは近寄り、その前にひれ伏した。イエズスは言われた。恐れることはない。云々」などの言葉が読まれますし、ルカ福音書にも、「弟子たちは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」などの言葉が読まれます。本日の第二朗読でも、幻示の中で復活の主に出会った使徒ヨハネが、その足元に倒れて死んだようになると、主は「恐れるな。云々」と呼びかけておられます。察するに、復活なされた主はその威厳や霊能を極力覆い隠して、婦人たちや弟子たちにそのお姿をお見せになったのだと思います。しかしそれでも、神秘なあの世のお体に伴う言い知れぬ霊能に、人々は大きな恐れを感じたのではないでしょうか。

    復活の日の夕方に他の弟子たちと一緒にいなくて、復活の主に出会わなかったトマスは、この世的実体験を優先する立場から「私はこの手をそのわき腹に入れてみなければ、決して信じない」などと言い張りましたが、一週間後にその主と実際に出会った時、驚きと恐れからでしょうか、「私の主、私の神よ」と叫んでしまいました。トマスの心も、復活の主のお体から発する霊能に圧倒されたのではないでしょうか。私たちはトマスのように、この世で復活の主と実際に出会う恵みに浴することはないでしょうが、しかし「見ないで信じる人は幸いである」という主のお言葉に従い、私たちの平凡な日常生活の場に、実際にそっと伴っていて下さる復活の主の現存を、堅く信じながら生活するよう心がけましょう。そうすれば、その力強い信仰のある所に、復活の主が実際に私たちに伴い、助け、導いて下さいます。

    本日の第一朗読は、幾たびも復活の主のご出現を目撃して、主の復活と現存を堅く信ずるに到った使徒たちの活動について語っています。しかし、よく読んでみますと、使徒たちが神のためにこれをしよう、あれもしようなどと自分で考え、自分の力で活動したのではなく、復活の主ご自身が彼らを生きた道具のようにして利用しながら、多くの病人たちを癒して下さったように思われます。例えば人々は病人たちを担架や床にのせて大通りに運び出し、そこを通りかかるペトロの影だけでも病人にかかるようにした、などと述べられています。そして「一人残らず癒してもらった」と記されていることから察しますと、そこにはペトロの言行を道具として復活の主ご自身が現存し、多くの人に癒しの恵みを与えておられたように思われます。現代の私たちも日々内的に自分に死んで、主の復活と現存を堅く信じつつ生活しているなら、主はその私たちをも道具にように利用しつつ、今の世に苦しむ人たちの上に救いの恵みを与えて下さるのではないでしょうか。外的には、全く平凡な生活であっても良いのです。この信仰と明るい希望を堅持しながら、今日も各人の置かれている場で、出会う人々の心に喜びの花を咲かせるように生活しましょう。