2013年4月14日日曜日

説教集C年:2010復活第3主日(三ケ日)



朗読聖書: . 使徒 5: 27b~32, 40b~41. . 黙示 5: 11~14.

     Ⅲ. ヨハネ福音 21: 1~19. 

    本日の第一朗読は、使徒言行録の4章に述べられている、サドカイ派祭司たちによる使徒ペトロとヨハネの捕縛、ならびにこの二人に対するユダヤ人の最高法院の尋問と、二人の答弁に続いて再度投獄されたペトロと他の使徒たちに対する最高法院からの尋問と、それに対する使徒たちの答弁などについて扱っています。主キリストの受難死と復活の後、使徒たちの証言を聞いて悔い改め、洗礼を受けた人の数は、既に男たちだけで5千人ほどにもなりましたが、その多くはエルサレム以外の地に住んでいたようですから、エルサレム市内に住む信徒数は、まだそれ程大勢ではなかったと思われます。しかし彼らは、神が使徒たちを通して行われる多くの不思議なしるしを見て、神に対する畏れの内に心を一つにし、資産も共有にして、祈りも食事も共にしながら生活していたようです。

    社会的、人間的には弱くて迫害されているこういう人たちの小さなグループが、神に対する畏れのうちに心を一つにして信仰と相互奉仕の愛に励んでいるのを御覧になると、神はそういう人たちの中で特別にお働き下さるようです。無学なペトロたちがソロモンの回廊などで堂々と説教したのも、度々癒しの奇跡などのしるしをなしたのも、神の霊に動かされてのことでした。本日の第一朗読の話の直前にも、使徒たちはサドカイ派に捕らえられて公共の留置所に入れられていたのに、夜に主の天使が牢の戸を開いて彼らを連れ出し、「行きなさい。神殿の境内に立って、この命の言葉を全て民衆に語りなさい」と命じたのでした。信仰に生きる人たちが、この世的弱さ・小ささ・窮乏などの中で、祈りに応えて生き生きと働いて下さる神の支えや導きを体験すると、神に対するその信仰・信頼は一層強まり、どんな脅しや迫害にも屈しないものになります。第一朗読の最後に、「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行った」とあるのは、そのことを示していると思います。信仰を磨き鍛えるものは、何よりも実生活の中で神の働き・導きを体験することであると言っても、過言ではありません。私たちも自分の弱さ・小ささ・貧しさを愛し、それらの中で神に結ばれて生きることにより、信仰を実生活の中に深く根を下ろした、根強いものにするよう心がけましょう。

    一晩中漁をしても何も取れず、明け方には疲れと空腹を覚えていたと思われる弟子たちに、既に炭火をおこしてその上に魚を載せ、別にパンも用意して提供して下さる復活なされた主は、決して遠いあの世の存在、遥かに高い天上の存在ではなく、私たちの日常生活に伴っていて下さるごく身近な存在としてのご自身を、この出来事を通してお示しになったのではないでしょうか。153匹もの大漁をさせて下さったばかりでなく、自分たちにパンと魚などの朝食まで提供して、あの世を本当に身近なものとして痛感させて下さる、真に優しい思いやりに溢れておられる主のお姿を間近に見て、主と一緒に朝の食事をしながら、弟子たちは何を考えたでしょうか。

    お姿もお顔も以前とは多少違って見えますが、その風格やお声、並びに主がご受難によってお受けになった手足の深い傷跡は、エルサレムでご出現なされた時と同様、全く主ご自身であります。ですから弟子たちは誰も、「あなたはどなたですか」などとお尋ねしませんでした。しかしそれにしても、神から遣わされたメシアの来臨と復活によって、この世の人生がこんなにもあの世に近いものとなったことに、言い知れぬ感動を覚えたのではないでしょうか。ご復活後のあの世の主は、この世の私たちの平凡な日常生活にもすぐそばで伴っておられ、黙々と全てを御覧になったおられて、必要な時には助けようとしておられるのです。私たちも、このことを堅く信じながら、生活するよう心がけましょう。

    本日の福音の主題は、「不思議な大漁」というよりも、「復活の主が提供された食物」といった方がよいと思います。夜明け頃に岸辺に出現なされた主は弟子たちに、「魚は獲れたか」とお尋ねになったのではなく、「何か食べるものはあるか」とお言葉をかけられたのですから。ここで「食べるもの」と訳されている言葉プロスファギオンは、もともとは主食に味を添えるおかずの意味です。主食のパンは、主が既に弟子たちのために豊かに用意しておられたのだと思います。まだ春の曙の薄闇が残っていた時でしょうから、200ぺキュス、すなわち約90mも離れていますと、主のお姿も定かには見えなかったでしょうが、マグダラのマリアが「マリア」という主の呼びかけで、すぐに主だと判ったように、聴き覚えのある主のお声と不思議な大漁から、ヨハネは「主だ」と言ったのではないでしょうか。ヨハネのその声を聞くと、ペトロはすぐ上着をまとって水に飛び込み、泳いで主の御許に行きました。初めに述べられている弟子たち7人の名前から察しますと、主の生前に出来上がっていた出漁のグループは主の死後もそのまま続いており、これは、将来の信仰共同体も自然の人間的結びつきを排除しないことを示しているように見えます。

    本日の福音に読まれる「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた」という言葉は、ヨハネが書いているあのパンの奇跡の所でも、同様に書かれています。そこでは主が後で、「私は天から降って来た生きるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きるであろう」と宣言しておられますから、復活なされた主がこの時、ガリラヤ湖畔で弟子たちに提供なされたパンも、単に彼らの胃袋を満たすための食物ではなく、同時に彼らを復活の主の愛の命に参与させ、永遠に生きるように養う霊的恵みの食物であったかも知れません。その同じ主は、今も目に見えないながら私たちの日常生活に伴っておられ、事ある毎に私たちの生活や必要を助け、霊的恵みの食物で私たちを養い力づけて下さっているのではないでしょうか。本日の聖体拝領の時、日ごろの主のこの隠れたお助けとお力添えに、深く感謝申し上げましょう。そしてその感謝を、私たちが日常的に出会う小さな不便や小さな失敗、あるいは小さな幸運や小さな成功などを、全て神の御手から喜んで受け止め、神にお献げすることによって表明致しましょう。それらは皆神よりの贈り物で、それらの小さなものに対する私たちの心の態度に、神は特別に注目しておられるように思います。小さなことを軽視しないよう心掛けましよう。