2015年5月31日日曜日

説教集B2012年:2012年三位一体の主日(三ケ日)




第1朗読 申命記 4章32~34、39~40節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章14~17節
福音朗読 マタイによる福音書 28章16~20節



   本日の第一朗読は、約束の地カナアンを目前にしてモーセが神の民に語った遺言のような話からの引用ですが、その中でモーセは「あなたに先立つ遠い昔、神が地上に人間を創造された最初の時代にさかのぼり、また天の果てから果てまでたずねてみるがよい。これ程大いなることがかつて起こったことがあろうか。云々」と、天地万物と人間をお創りになった神の御業の偉大さに、まず民の心を向けさせています。そしてその神が、他の多くの国民の中からイスラエルを特別に選び出し、神による数多くの徴しや奇跡を体験させながら、これから入る約束の地まで民をお導き下さったことを語り、天においても地においてもこの神が唯一の主であり、他に神のいないことを弁えて、神から与えられた掟と戒めを守り行うよう命じています。そうすれば民もその子孫も、主がお与えになるこの約束の地で、長く幸せに生きることができるのだ、と明言しています。
   モーセがその民に語ったこれらの言葉は、現代世界に生きる私たちにとっても大切だと思います。私たちは神が創造なされたこの巨大な天地万物の恵みや、その中で神から特別に選ばれ愛されている人間という存在の素晴らしい恵み、並びにその使命などについて、日々心にしっかりと刻み込み、神に感謝を捧げているでしょうか。20世紀の中頃から人間の科学が大規模に発達して来てみますと、神がお創りになった宇宙の絶大な大きさや、その細かい所まで行き届いている組織体制の神秘には、全く圧倒される程の感動を覚えます。神は本当に大きな愛と配慮を込めてこの宇宙を、また人間をお創りになり、今も絶えず細かい所まで行き届くその御力と温かいお心で、万物を支え導いておられるように思います。
   筑波大学の名誉教授で遺伝子研究の世界的権威者の一人である村上和雄氏は、大人の人間の体に60兆もあると言われている、小さな小さな細胞1個の中に、「宇宙(全体)に匹敵する程の神秘が隠されている」と述べています。村上氏によると、ヒトの遺伝子暗号は約30億の科学的文字(塩基)から成っていますが、この30億の文字を人間が読めるような普通の文字に拡大しますと、1ページ1千字で、千ページもの分厚い本が3千冊になるそうです。それだけの詳しい情報が、私たちが胎児の時から受け継いでいる体の各細胞に書き込まれているのだそうですから、これは「神の驚くべき御業」と言わざるを得ません。村上氏は「20世紀に発見された最大の奇跡」と称しています。しかも、その遺伝子情報は、両親の遺伝子や兄弟姉妹の遺伝子とも幾分異なっている、全く各人独自の情報だそうで、こう考えますと、一人一人の人間は、すでに胎児の時から「神からの特別の贈り物、貴重な宝物」と言わざるを得ません。神からのその貴重な贈り物を、人間中心の浅墓なこの世的考えで、無駄にして仕舞わないよう心がけましょう。
   自然界の動植物の遺伝子より遥かに多い、その30億にも及ぶヒトゲノムの配列は、21世紀に入るとすぐ全部解読されましたが、以前にもここで申しましたように、そのうちonの状態(目覚めている状態)になっているのは7パーセント程で、残りの93パーセントはoffの状態になっており、どういう機能を持つ遺伝子であるかは分かっていないと聞きます。その話を聞いた時私はすぐ、それらのまだ眠っている遺伝子の多くは、世の終わりに主イエスの復活体と同じ姿に復活した時に働き出すのではないかと考えました。天文学者たちによると、この巨大な宇宙は今も尚、光の速度で無限に膨張し続けているのだそうです。私たちの住んでいるこの太陽系の星たちが所属する「天の川銀河系」と同じような巨大な星たちの集まりである銀河系は、一番近いアンドロメーダ銀河系をはじめ、他にもまだ無数に散在しているそうですから、私たち人間は、この世の時間空間の束縛から解放されたあの世の体に復活した後には、それらの銀河系の星たちの間を神出鬼没に自由に駆け巡りつつ、神がお創りになった無数の神秘を次々と発見し、大きな感動の内に三位一体の神を讃え、神に感謝し続けるのではないでしょうか。神に特別に似せ、万物の霊長として創られた私たち人間の未来には、想像を絶する程の明るい大きな永遠の喜びと、神の無数の被造物を益々深く理解し世話する使命が、神ご自身によって備えられているように思います。創世記1章にあるように、神は人間に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」「生き物を全て支配せよ」と、お命じになったのですから。
   本日の福音には、あの世の命に復活なされた主がガリラヤで弟子たちに、「全ての民を私の弟子にしなさい」と命じられたお言葉が読まれます。「教えなさい」と命じられたのではありません。無学なガリラヤの漁夫たちは、いくら聖霊の賜物によって心が満たされ強められたとしも、言葉の違う世界にまで出かけて行って、教養の高い文化人たちにまで教えるなどということは、できなかったと思います。しかし、自分たちの見聞きした体験から目撃証人として語り、その証言を聴いた世界各地の文化人が、それぞれ自分たちなりに提供された神の救いに心を開き、主キリストの弟子となって生き始めることは可能だったと思います。主のお言葉は、このことを指しているのだと思います。神による救いに心を開く人たちには、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授け、弟子たちに命じて置いたことを全て守るように教えなさい、というのが主のご命令だと思います。これなら、無学な漁夫達にも実践可能だったでしょう。このようにして神の子の命に参与する人々と共に、主は世の終りまでいつも共にいるというのが、主のお約束だと思われます。
   私が公教要理を学んだ終戦直後の頃、西洋では「三位一体の教義が一番理解し難い教理だ」と言われていたようです。しかし、当時のあるドイツ人宣教師は「日本人には、三位一体の教義はほとんど抵抗なくそのまま受け入れられるようだ」と話していました。私も当時を振り返ると、その教義にはそれ程抵抗を感ぜずに、神は孤独な唯一神ではなく、三方の愛の共同体なのだ、と素直に信じることができていました。公教要理を教えるドイツ人宣教師の話の中に、「作品は作者を表わす」という諺のように、神のお創りになった被造物の中には、例えば火のように、燃やす力と照らす光と温める熱とが一つになっているものが多く、太陽の引力も光線も熱線も一つになっている、というような説明がありましたから。
   人間理性は無意識のうちに何か不動の原則や尺度を作り上げていて、「唯一のものは、三つにはなり得ない」などと、人間理性がこの世の日常体験から作り上げたその尺度を、あの世の霊的真理についての神の啓示にまで適用しようとし勝ちです。それではあの世の神の御教え、神の真理の中に生きることができません。理性は自分で自分を欺き易い能力なのです。人間理性のその弱さを逆に利用して楽しませてくれているのが、今の世にも流行っているマジックなのです。「主は幼児のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(ルカ18:17)と教えておられます。人間理性がこの世の経験から作り上げている原則や価値観などから離れて、まずは親から愛され親に聴き従っている幼児のように素直な心で、神の声に心を傾け、神の導きに聴き従いましょう。日々その生き方を続けていますと、神の働きと思われる不思議な護りや導きを小刻みにたくさん体験するようになります。そして目に見えない神の現存や働きに対する心の信仰が、無数の体験に根差した揺るがない確信になって行きます。…….

2015年5月24日日曜日

説教集B2012年:2012年聖霊降臨の主日(三ケ日)



第1朗読 使徒言行録 2章1~11節
第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 5章16~25節
福音朗読 ヨハネによる福音書 15章26~27、16章12~15節



  聖霊降臨の大祝日と聞くと、聖霊の祝日と思う人もいるでしょうが、本日のミサの集会祈願も奉納祈願も拝領祈願も、聖霊よりは天の御父と主イエスに対する願いとなっており、「聖霊を世界にあまねく注いで下さい」と御父に願ったり、「御子が約束された通り聖霊を注ぎ、信じる民を照らして下さい」などと主イエスに願ったりしていますから、教会はこの祝日を伝統的に聖霊だけの祝日としてではなく、三位一体による新しい神の民誕生の祝日としていたように思われます。もはや死ぬことのない永遠の生命に復活なされた主イエスは、その復活の日の晩に弟子たちに出現なされた時にも、ヨハネ福音書によりますと、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。云々」と話しておられますから、主は五十日祭の前にも弟子たちに聖霊を注いでおられますが、復活後最初の五十日祭の時には天の御父も御子も、主の復活を信じ主の御言葉に従って祈っていた聖母マリアを始め使徒たちや信者たちの上に、特別に豊かにまた劇的に聖霊を注ぎ、その直後の弟子たちの活発な活動や、大勢の人たちの受洗などを考慮しますと、この聖霊降臨によって新約の神の民が世に産まれ出たのだと思います。としますと、それ以前の聖霊の注ぎは、いわば産まれ出る前の胎児のような教会の体を育てるためのものであった、と考えてもよいかと思います。

  使徒パウロは本日の第二朗読の中で、「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことはないでしょう」と述べて、肉の業と、それとは全く違う神の霊の結ぶ実とについて列挙していますが、私たちは神の愛の霊を受けて主キリストの神秘体の細胞にして戴いても、この世に生きている限りはまだ古いアダムの肉をまとっているのですから、主イエスや聖母マリアのように、何よりも神の僕・神の婢の精神で、しっかりと自分の肉の欲を統御し十字架につけて、神の霊の器・道具となって生きるよう心がけなければなりません。その時、聖霊は私たちの内にのびのびと自由に働き、私たちはその霊の導きと自由に参与して、霊の実を豊かに結ぶに至るのではないでしょうか。

  本日の福音は、最後の晩餐の席上で語られた主の遺言のような話からの引用ですが、主はその中で、弟子たちが神の霊の器・道具のようになって生きること、証しすることを勧めておられるように見えます。「言っておきたい事はまだたくさんあるが、今あなた方には理解できない」というお言葉は、数年間主と生活を共にした弟子たちに、主についての証しをさせようとしても、彼ら自身の人間的能力では主による救いの業について正しく理解し、正しく証しすることができないことを示していると思われます。しかし、主がお遣わしになる「真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。云々」というお言葉は、聖霊の内的導きに従おうと努めているなら、証し人としての使命を立派に果たすことができることを、保証しておられるのではないでしょうか。「世の終りまで共にいる」と約束なされた主イエスは、現代の私たちにも聖霊を注いで、各人の信仰体験から証し人としての使命を果たさせようとしておられると思います。しかし、聖霊の器・道具となって霊の導きを正しく受け止め、それに従って行くには、まず自分の中の古いアダムの心に死ぬように努め、自分中心のわがままな主体性や欲望をしっかりと統御しなければならないと思います。

  個人重視の自由主義教育を受けた現代人の中には、自分の考えや自分の企画中心のファリサイ的熱心から、神のため教会や社会のために何かをしようと思っている人が少なくないと思います。その善意はよく分かりますし、夫々その人なりに実績をあげていると思いますが、しかし、そのような人間的善意だけを中心にして外的、人間的に大きな実を結んでも、神はその実をお受け取りにならないのではないでしょうか。そこには己を無にし、日々神より与えられる十字架を担って、神の御旨中心に生きる模範を示しておられた主イエスの、味わい深い信仰と愛の御精神が込められていないからです。神の愛の霊・聖霊の導きに従って、主キリストの御精神で働く所、生きる所にこそ、外的この世的にはどんなに小さな実であっても、神から喜ばれ受け入れられる実が豊かに結ばれるのだと思います。いつも神の霊の導きに心を向け、それに従うよう心がけましょう。そして「聖霊の生きる神殿」として生活するように努めましょう。小さいながらでもそのような実践的信仰のある所に、神ご自身が主導権をとって、数多くの味わい深い愛の実を実らせて下さると信じます。

  ご存じのように、今世界の多くの国は政治的にも経済的にも複雑な問題を抱えて動揺しているように見えます。政治家たちは皆、これまでになかったような人類社会破たんの危険性を痛感しつつ、苦慮していることでしょう。神の特別の助けなしに人間中心の国際協力だけでは、今人類の抱えているこの大きな危機は、乗り越えられないのではないでしょうか。私たちは皆小さな小さな存在ですが、それでも生き生きとした実践的信仰をもって「聖霊の神殿」として生活し続けるならば、私たちの中におられるその神である聖霊が、世界各国の政治的経済的平和共存のために、陰ながら大きな働きをして下さると信じます。私たち各人の小さな信仰生活は、今の人類の平和共存と福祉のためにも、神の御前で大きな力を保持しているのではないでしょうか。新約の神の民の誕生を記念する聖霊降臨祭を迎えて、スケールの大きな人類的使命感のためにも、各人の信仰生活・修道精神を深めて磨く決意を新たにし、神にお献げ致しましょう。

2015年5月17日日曜日

説教集B2012年:2012年主の昇天(三ケ日)


第1朗読 使徒言行録 1章1~11節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 4章1~13節

福音朗読 マルコによる福音書 16章15~20節


2012年主の昇天(三ケ日)
   本日の第一朗読には、もはや死ぬことのない永遠の命に復活なされた主イエスは、40日間にわたって度々使徒たちに出現し、神の国についてお語りになったばかりでなく、彼らと一緒に食事をしたりして数多くの証拠を示しながら、実際に神出鬼没のあの世の命があること、そして主がその命に今も生きておられることを証しました。それは、本日の朗読にもあるように、彼らが「地の果てに至るまで」主の証人となり、大きな確信と希望をもって神の国の命に生きて見せ、その生き方を世界の人々に広めるためであったと思います。その40日間の最後頃、主は彼らと一緒に食事をしておられた時、エルサレムを離れないで、あなた方が私から聞いた父の約束を待っているように、とお命じになりました。「間もなく聖霊によって洗礼を授けられるから」と。

   このご命令をお与えになった後に、主は彼らの見ているうちに天に上げられて行きました。その時の主のお姿は、それまでとは違って天上の威光と喜びに輝いているように見えたのではないでしょうか。それで弟子たちは、主のそのお姿を追い求めて、いつまでも天を見詰めていたのだと思います。するとそこに、白衣の人の姿で二位の天使が彼らの側に現れ、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなた方から離れて天にあげられたイエスは、天に昇るのをあなた方が見たのと同じ有様で、また来るであろう」と告げました。天使たちのこの言葉は、今の世に生きる私たちにとっても忘れてならない言葉だと思います。私たちの未来には、主がかつて世の終りの恐ろしい苦難と不安について預言なされた時に、「その時、人の子が力と大いなる栄光を帯びて、雲に乗って来るのを見るであろう」(ルカ21: 27)とおっしゃった、力強く輝かしい勝利の主キリストを仰ぎ見る日が、全能の神によって備えられているのです。今生活しているこの世がどれ程乱れて絶望的に成ろうとも、その主のお言葉を信じつつ、明るい希望の裡に全てを耐え忍び、逞しく生き抜きましょう。

   ところで、復活なされた主イエスは世の終りに栄光に包まれてこの世の再臨なされるまでの間は、どこにおられるのでしょうか。天にお昇りになったのですから、天におられると申してよいでしょうが、その天を私たちがこの世の自然的な目で見慣れている上空の天と考えないように致しましょう。天使たちは、「なぜこの世の自然界の天を仰いで立っているのか」と、弟子たちがこの世の人間的自然的な観念に囚われているのを、咎めたのではないでしょうか。すでに過ぎ去った過去の主の人間的自然的なお姿だけを慕い求めるのではなく、主の新しいお姿に心の眼を向けるようにと、呼びかけていると考えられます。主はこの世の天へとお昇りになったのではなく、あの世の天、霊界の天へとお昇りになり、この世からは御身を隠されたのです。その霊界の天はどこにあるのでしょうか。私はそれは場所的には、神がお創りになった最高傑作であるこの水の惑星、即ち私たちの住むこの大地と同じ所にあり、主は今も霊的には私たちと同じ所に共存しておられると考えます。主は最後の晩餐の時に「私はあなた達をみなし児にはしておかない。私はあなた達の所に戻って来る。しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなた達は私を見る。私が生き、あなた達も生きるからである。私が父の中におり、あなた達が私の中におり、私があなた達の中にいることを、その日にあなた達は悟るであろう」(ヨハネ14: 18-20)と、弟子たちにお語りになったからです。このお言葉は、この世の目ではもう私を見ることができなくなるが、暫くすると弟子たちには聖霊が降って、霊の眼で私を見るであろう、そして主が弟子たちの中にいることを悟るであろう、という意味だと思います。

   主が弟子たちの上に呼び下して主の教会を誕生させたその聖霊は、今も教会とともにあり、私たちの裡に働いています。私たちもその聖霊に生かされている信仰の眼、霊の眼をもって日々私たちと共におられる主を眺めるように努めましょう。激動する今の世の悩んでいる人類社会の中にも密かに受肉し、隠れて現存しておられる主の新しいお姿に対する心のセンスを磨きつつ、また主の栄光の再臨を待望しつつ、大きな明るい希望の内に神の国の証し人として生きるよう、私たちは神から求められているのではないでしょうか。この世の知識人たちは、2千年前の主の人間的この世的お姿を明らかにしようとし勝ちですが、復活なされた主は、私たちの過去におられるよりも、むしろいつも私たちの前に、私たちの未来に私たちを待っておられると信じます。主に対する愛と信仰を新たにしながら、その主の現存や働きについて証しする人になるよう、主は私たちをも招いておられるように思います

   主は山上の説教の中で、「隠れたことをご覧になるあなたの父は報いて下さる」だの、「隠れた所にお出でになるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた行いをご覧になるあなたの父が報いて下さる」などと、「隠れた」という言葉を繰り返しながら天の御父について話しておられますが、思うにこれは、人間としての主の常日頃の実践から、ごく自然にお口から出た表現ではないでしょうか。私は父なる神も、復活の主ご自身も、聖霊も、いつも私たちの日常茶飯事に伴っておられ、人目に隠れたごく小さな行いを、隠れた所からご覧になっておられるように感じています。と申しますのは、私が何気なく自由になした些細な奉仕や親切などが、後になって見ると不思議に神に喜ばれ、神によって報いられているように覚える、小さな成功や巡り合わせなどの喜びを、数多く体験しているからです。人間的社会的には義務でも何でもない、社会と自然界に対する小さな自由な奉仕や親切を、あの世の神に心の眼を向けながら実践してみましょう。復活の主も、人目に隠れたそういう小さな実践を特別の関心をもって見ておられ、事ある毎にその自由な実践に報いて下さるように思います。そしてこういう体験の蓄積によって、あの世の神に対する信仰も地に着いたものとなり、祈りにも熱がこもるようになります。主は私たちの心が、復活なされた主の現存や働きについてのこのような体験に基づく証し人になることを、お望みなのではないでしょうか。私たちはこのようにして、数々の問題や不安に囲まれて呻吟している現代人に対して、主イエスの復活の証し人になることができます。

   本日の福音に述べられているような、「毒を飲んでも害を受けず、病人に手を置けば治る」などの大きな奇跡は何一つ体験しなくても、悪魔の働きが益々活発になって来ているように思われる今の社会やこれからの社会で不安におびえる人々に、私たちが日々小さな事柄の中で体験する不思議な導きや助けなどに基づいて、復活の主が目には見えなくても今も私たちの身近に現存しておられ、事ある毎に導き助けてくださることを証しすること、そして人々の心に信仰に基づく希望の光を注ぐことはできると思います。現代に生きる私たちが小さいながらも、このようにして復活の主の現存と働きを証しすることができますように、恵みを願いながら本日のミサ聖祭を献げましょう。

2015年5月10日日曜日

説教集B2012年:2012年復活節第6主日(三ケ日)

第1朗読 使徒言行録 10章25~26、34~35、44~48節
第2朗読 ヨハネの手紙一 4章7~10節

福音朗読 ヨハネによる福音書 15章9~17節

   本日の第一朗読には、「ペトロが話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者でペトロと一緒に来た人たちは皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て大いに驚いた。異邦人が異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペトロは、「イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた」という言葉が読まれます。聖書のこの箇所を読む時、私はいつも「私の後においでになる方は聖霊と火によってあなた方に洗礼をお授けになる」という洗礼者ヨハネの言葉を思い出します。カトリック教会で授けられる秘跡としての水の洗礼だけを重視して、その洗礼を受けないものは皆救われない、聖霊はその洗礼を受けた霊魂の中でのみお働きになる、などと考えてはなりません。仏教からの改宗者である私の体験を振り返ってみますと、神は私が受洗する前にも既に私の心の中に働いて下さった、とはっきりと言うことができます。私は今もそのように考えていますが、神学生の時には、聖トマスや聖ボナベントゥーラの教えに基づいて、受洗者の心は水の洗礼を受ける前にまず聖霊の洗礼を受ける、とドイツ人宣教師たちから教わりました。

   私は20年程前から、原始福音重視の月間誌『生命之光』を愛読していますが、この月刊誌『生命之光』は、終戦直後の熊本県で神の霊の働きを生き生きと体験なさった手島郁郎氏が、1948101日に創刊した小冊子であります。現実のキリスト教があまりにも外的人間的形に執着して、聖霊の自由な働きを阻害していることを嘆く手島氏は、無教会主義の立場に立って主キリストの原始福音を再興しようとしていることに私は賛同し、1973年に帰天なされた手島郁郎氏の中に、またその信奉者たちの中に神の聖霊、主キリストの霊が確かに働いて数多くの様々な奇跡的御業や治癒をなさったこと、そして今もその現象が続いていることを、事実として確信しています。教会堂を持たないその人たちの「幕屋礼拝」は今や日本全国に広まり、アメリカやブラジル・メキシコ・パラグアイなどの中南米諸国、及び台湾・インドネシアやヨーロッパ・イスラエルなどの諸国にも拠点を設けて、神の霊の奇跡的働きに憧れる現代人たちの間に広まっています。

   しかし、神は私たちにもっと大事な使命、すなわち主キリストが残された愛の福音を体現しつつ全人類のためにミサ聖祭をささげること、そして復活なされた主の御命・霊的体を秘跡によってこの世にしっかりと現存させること、という使命を託しておられるのですから、私たちカトリック者が毎週、その人たちの集会に参加して神の霊の働きを祈り求めるのは、神の御旨ではないと思います。幕屋礼拝に出席している人たちの中での聖霊の働きの基盤は、主キリストが私たちの間でお献げになるミサ聖祭の秘跡であると信じるからです。私たちは、直接その人たちの集会に出席しなくても、ミサ聖祭のいけにえや祈りに深く参与することにより、その人たちの中での聖霊の働きに寄与しているのです。同じことは、他宗教の敬虔な信仰者たちの生活についても、この世の政治や福祉・医療活動、救済活動などについても言うことができると思います。救いや助けを必要としている無数の人たちの声に耳を傾けつつも、ミサ聖祭と祈りに励むことによって聖霊の働きに協力するのが、神から受けた私たち修道者の使命だと信じます。

   本日の第二朗読は、主の新しい愛の掟の実践を力説する、使徒ヨハネの第一書簡の中心部分と称してもよいと思います。この書簡がしたためられた背景には、全てを人間理性によって理知的に解釈しようとした、1世紀末葉の理知的知識人たちの動きがあったと思われます。ヨハネはそれに対して、この書簡の第4章の始めに、そういうこの世の思想的立場に立って主イエスの受肉を軽視する人々を「偽預言者」、「反キリスト」、「世から出た者たち」として退け、神から出たものでない「迷いの霊」を見分けることを説いてます。そして私たち「神から出た者たちは、既に彼らに打ち勝っている」のだという信仰に堅く立って、只今ここで朗読されたように、第47節から「愛する者たちよ、互いに愛し合いましょう。云々」と、美しい愛の讃歌を綴っているのです。神は愛であり、神の愛は、神がその御独り子を世に遣わして私たちを贖い、私たちが彼によって生きるようにして下さったことによって明らかにされたもので、その愛はこの世の人間からのものではないとするこの讃歌を、ゆっくりと味わってみましょう。私たちの存在が、徹頭徹尾温かい神の愛に包まれ抱かれているように感じられて来ることでしょう。私たち修道者は、カトリック教会の豊かな伝統の中に保たれている神のこのような働きをしっかりと身につけ、現代世界の中でも暗躍して止まない「偽預言者」、「反キリスト」、「迷いの霊」などを正しく見分けて、敢然と退ける使命も持っていると思います。そういうカトリック教会2千年の伝統を知らない、善意ある無数の幕屋礼拝参加者たちのためにも、復活の主キリストの光を高く掲げて、悪霊の働きを許しているこの世の精神的闇、人間中心主義の闇を退けるよう努めましょう。

   復活節第6主日の本日は、公会議直後の1966年からカトリック教会では「世界広報の日」としてされています。現代世界で大きな影響力を行使しているマスコミ関係者たちのためにも、神に照らしと導きの恵みを願い求めて、本日のミサ聖祭をお献げしたいと思います。善意あるマスコミ関係者は大勢いますが、現代世界は極度に多様化していて、何が善、何が悪かをその時その時の具体的局面で正しく識別することは非常に難しくなっていると思います。神の霊がその人たちの心をも内面から照らし導いて下さるよう、このミサ聖祭の中でも心を合わせて祈りましょう。 話は違いますが、最近アメリカの国際政治学者ジョゼフ・ナイ教授が、サイバー戦争について新聞に書いている記事を読んで、政治面でも経済面でも数多くの悩みを抱えている現代の人類社会には、サイバー攻撃という隠れている恐ろしい危険性も伴っていることを知りました。2年前にイランの核計画コンピューターにウィルスが侵入して、ウラン濃縮に用いられる多数の遠心分離器に損傷を与えた事があったそうです。誰がやったのか不明ですが、研究の遅れていたイラン側では、こういうサイバー攻撃には用意していなかったようです。この時一部の識者たちは、「この破壊工作は新しい形の戦争の先駆けだ」と宣言したそうですが、民間の非政府主体によるこのようなサイバー攻撃の技術は、その後もますます進歩していて、まだ発展の初期段階にあるのだそうです。ご存じのように現代文明は、技術も情報も、従って産業も経済も政治も、ネットワーク化したコンピューターやコミュニケーションに大きく依存していますので、もしこの最も基本的な組織が悪魔的なサイバー攻撃によって大きく破壊されたり乱されたりしますと、人類社会の組織全体が崩壊して、想定外の恐ろしい混乱や対立に苦しむ恐れがあるようです。文明大国は皆ウィルスのコンピューター侵入に極度に警戒していますが、新しく開発されつつあるサイバー攻撃は、技術的にはまだ完全には防ぎ得ないようです。この危険性回避のためにも、神のご保護を祈り求めましょう。