2015年5月10日日曜日

説教集B2012年:2012年復活節第6主日(三ケ日)

第1朗読 使徒言行録 10章25~26、34~35、44~48節
第2朗読 ヨハネの手紙一 4章7~10節

福音朗読 ヨハネによる福音書 15章9~17節

   本日の第一朗読には、「ペトロが話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者でペトロと一緒に来た人たちは皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て大いに驚いた。異邦人が異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペトロは、「イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた」という言葉が読まれます。聖書のこの箇所を読む時、私はいつも「私の後においでになる方は聖霊と火によってあなた方に洗礼をお授けになる」という洗礼者ヨハネの言葉を思い出します。カトリック教会で授けられる秘跡としての水の洗礼だけを重視して、その洗礼を受けないものは皆救われない、聖霊はその洗礼を受けた霊魂の中でのみお働きになる、などと考えてはなりません。仏教からの改宗者である私の体験を振り返ってみますと、神は私が受洗する前にも既に私の心の中に働いて下さった、とはっきりと言うことができます。私は今もそのように考えていますが、神学生の時には、聖トマスや聖ボナベントゥーラの教えに基づいて、受洗者の心は水の洗礼を受ける前にまず聖霊の洗礼を受ける、とドイツ人宣教師たちから教わりました。

   私は20年程前から、原始福音重視の月間誌『生命之光』を愛読していますが、この月刊誌『生命之光』は、終戦直後の熊本県で神の霊の働きを生き生きと体験なさった手島郁郎氏が、1948101日に創刊した小冊子であります。現実のキリスト教があまりにも外的人間的形に執着して、聖霊の自由な働きを阻害していることを嘆く手島氏は、無教会主義の立場に立って主キリストの原始福音を再興しようとしていることに私は賛同し、1973年に帰天なされた手島郁郎氏の中に、またその信奉者たちの中に神の聖霊、主キリストの霊が確かに働いて数多くの様々な奇跡的御業や治癒をなさったこと、そして今もその現象が続いていることを、事実として確信しています。教会堂を持たないその人たちの「幕屋礼拝」は今や日本全国に広まり、アメリカやブラジル・メキシコ・パラグアイなどの中南米諸国、及び台湾・インドネシアやヨーロッパ・イスラエルなどの諸国にも拠点を設けて、神の霊の奇跡的働きに憧れる現代人たちの間に広まっています。

   しかし、神は私たちにもっと大事な使命、すなわち主キリストが残された愛の福音を体現しつつ全人類のためにミサ聖祭をささげること、そして復活なされた主の御命・霊的体を秘跡によってこの世にしっかりと現存させること、という使命を託しておられるのですから、私たちカトリック者が毎週、その人たちの集会に参加して神の霊の働きを祈り求めるのは、神の御旨ではないと思います。幕屋礼拝に出席している人たちの中での聖霊の働きの基盤は、主キリストが私たちの間でお献げになるミサ聖祭の秘跡であると信じるからです。私たちは、直接その人たちの集会に出席しなくても、ミサ聖祭のいけにえや祈りに深く参与することにより、その人たちの中での聖霊の働きに寄与しているのです。同じことは、他宗教の敬虔な信仰者たちの生活についても、この世の政治や福祉・医療活動、救済活動などについても言うことができると思います。救いや助けを必要としている無数の人たちの声に耳を傾けつつも、ミサ聖祭と祈りに励むことによって聖霊の働きに協力するのが、神から受けた私たち修道者の使命だと信じます。

   本日の第二朗読は、主の新しい愛の掟の実践を力説する、使徒ヨハネの第一書簡の中心部分と称してもよいと思います。この書簡がしたためられた背景には、全てを人間理性によって理知的に解釈しようとした、1世紀末葉の理知的知識人たちの動きがあったと思われます。ヨハネはそれに対して、この書簡の第4章の始めに、そういうこの世の思想的立場に立って主イエスの受肉を軽視する人々を「偽預言者」、「反キリスト」、「世から出た者たち」として退け、神から出たものでない「迷いの霊」を見分けることを説いてます。そして私たち「神から出た者たちは、既に彼らに打ち勝っている」のだという信仰に堅く立って、只今ここで朗読されたように、第47節から「愛する者たちよ、互いに愛し合いましょう。云々」と、美しい愛の讃歌を綴っているのです。神は愛であり、神の愛は、神がその御独り子を世に遣わして私たちを贖い、私たちが彼によって生きるようにして下さったことによって明らかにされたもので、その愛はこの世の人間からのものではないとするこの讃歌を、ゆっくりと味わってみましょう。私たちの存在が、徹頭徹尾温かい神の愛に包まれ抱かれているように感じられて来ることでしょう。私たち修道者は、カトリック教会の豊かな伝統の中に保たれている神のこのような働きをしっかりと身につけ、現代世界の中でも暗躍して止まない「偽預言者」、「反キリスト」、「迷いの霊」などを正しく見分けて、敢然と退ける使命も持っていると思います。そういうカトリック教会2千年の伝統を知らない、善意ある無数の幕屋礼拝参加者たちのためにも、復活の主キリストの光を高く掲げて、悪霊の働きを許しているこの世の精神的闇、人間中心主義の闇を退けるよう努めましょう。

   復活節第6主日の本日は、公会議直後の1966年からカトリック教会では「世界広報の日」としてされています。現代世界で大きな影響力を行使しているマスコミ関係者たちのためにも、神に照らしと導きの恵みを願い求めて、本日のミサ聖祭をお献げしたいと思います。善意あるマスコミ関係者は大勢いますが、現代世界は極度に多様化していて、何が善、何が悪かをその時その時の具体的局面で正しく識別することは非常に難しくなっていると思います。神の霊がその人たちの心をも内面から照らし導いて下さるよう、このミサ聖祭の中でも心を合わせて祈りましょう。 話は違いますが、最近アメリカの国際政治学者ジョゼフ・ナイ教授が、サイバー戦争について新聞に書いている記事を読んで、政治面でも経済面でも数多くの悩みを抱えている現代の人類社会には、サイバー攻撃という隠れている恐ろしい危険性も伴っていることを知りました。2年前にイランの核計画コンピューターにウィルスが侵入して、ウラン濃縮に用いられる多数の遠心分離器に損傷を与えた事があったそうです。誰がやったのか不明ですが、研究の遅れていたイラン側では、こういうサイバー攻撃には用意していなかったようです。この時一部の識者たちは、「この破壊工作は新しい形の戦争の先駆けだ」と宣言したそうですが、民間の非政府主体によるこのようなサイバー攻撃の技術は、その後もますます進歩していて、まだ発展の初期段階にあるのだそうです。ご存じのように現代文明は、技術も情報も、従って産業も経済も政治も、ネットワーク化したコンピューターやコミュニケーションに大きく依存していますので、もしこの最も基本的な組織が悪魔的なサイバー攻撃によって大きく破壊されたり乱されたりしますと、人類社会の組織全体が崩壊して、想定外の恐ろしい混乱や対立に苦しむ恐れがあるようです。文明大国は皆ウィルスのコンピューター侵入に極度に警戒していますが、新しく開発されつつあるサイバー攻撃は、技術的にはまだ完全には防ぎ得ないようです。この危険性回避のためにも、神のご保護を祈り求めましょう。