2015年4月26日日曜日

説教集B2012年:2012年復活節第4主日(三ケ日)

第1朗読 使徒言行録 4章8~12節
第2朗読 ヨハネの手紙一 3章1~2節

福音朗読 ヨハネによる福音書 10章11~18節

   本日の第一朗読は、生来足の不自由な人を癒して民衆の注目を浴び、ソロモンの回廊で、人々に悔い改めて神に立ち帰るよう呼びかける説教をしていたペトロとヨハネが、神殿の守衛長たちに捕らえられて朝まで拘留され、翌日大法院に引き出されて、「お前たちは何の権威によって、あのようなことをしたのか」と尋問された時のペトロの話です。ガリラヤの無学な漁夫でしかなかった二人は、人間的にはこの世の権力やユダヤ教指導者たちの社会的権威に対抗できるものは何も持っていません。しかし、主キリストの弟子として召され、3年間主に伴っていて見聞した体験から得た大きな強い確信に生かされていました。それは、十字架刑によって殺されたナザレのイエスが真のメシアで、もはや死ぬことのない霊の命に神によって復活し、今も自分たちの内にあって、人類の救いのために働いておられるという確信であります。ですからペトロは、聖霊に満たされて恐れずにそのことを公言し、「他の誰によっても救いは得られません」と断言しました。この世の権力や社会的権威はなくても、その言葉にはあの世の神の権威が籠っていたと思われます。彼らによって癒された人もその側に立っていたので、議員たちは皆驚き、「返す言葉もなかった」と記されています。

   人間達の理知的な話し合いだけではもうどうしようもない程心と心の対立が深まり、世界の政治・経済が危機的状況に陥りつつある現代世界においても、2千年前のユダヤ教大法院のように伝統的価値観の遵守に拘ることなく、何よりも神の新しい働きや導きに積極的に従う精神を優先するならば、私たちはこの終末的現象の多発する今の世にあっても、神の愛深い導きと助けを実感しつつ、明るい希望と信頼の内に逞しく生き抜く事が出来るのではないでしょうか。想定外の巨大な東日本大震災から既に一年余を経ても、各種マスコミからの流される情報や多様の見解から察すると、この悲惨な出来事の背後に神の働き、天の働きを見ている人があまりにも少ないように思われます。私は古い伝統を受け継ぎ大切にしている人間で、日本人としてもカトリック者としても、こういう大きな出来事の背後にはいつも神からの天罰や警告を感じ取っています。私のこの立場から申しますと、現代の日本人はカトリック者は含めて、まだまだ奥底の心の目覚めが真に不完全であるように思われて成りません。

   京都生まれの明治学院大学名誉教授阿満利麿氏が、先日「良寛の地震体験に思う」という題で新聞に執筆していている一文を読みました。182811月に今の新潟県三条市を中心とするM.6.9という巨大地震を体験し、無数の農民たちの惨状を見聞きした70歳の良寛和尚は、「災難にあう時節には災難にあうがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難を逃るる妙法にて候」の一節を、知人の酒造家に宛てた手紙に書いていますが、この文章は屡々自然のままに随うのがよい、という意味で受け止められ、良寛の悟りの心境を表わす言葉と思われて来ました。それはそれで正しいのですが、しかし、その時の良寛の心境はそれだけではなかったようです。同じ頃に書かれたもう少し詳しい「地震後詩」と題する漢詩から察すると、良寛は、災害や死と向き合って、日常の我が無力となる中で、本来の自己の在り方を求める宗教的で積極的な生き方に目覚めるように勧めていると思われるからです。

   阿満氏の紹介している良寛和尚のこの漢詩に学んで、私たち現代の日本人は、天からの警告、神の声なき声にもっと真剣に心の耳を傾け、何よりもこの世的豊かさや便利さだけを追い求めて来たような現代文明の流れに毅然として対峙し、もっと自然界の環境や水資源・食料資源などを大切にする清貧な生き方へと、各人の日常生活を積極的に変革すべきなのではないすでしょうか。さもないと神は近い将来に、目覚めの足りない無数の人々の心を目覚めさせるため、もっと恐ろしい大災害を再びこの日本にお遣わしになることでしょう。早く目覚めて天の声に避け得る災害でしょうが、目覚める人があまりにも少ないために招来する警告の大災害だと思います。200年前頃の禅僧良寛は、幕藩体制に護られて安悦をむさぼっていた当時の金持ちや僧侶たちに対しては、厳しい批判を繰り返しています。彼が子供と手まりを楽しむ乞食僧の生活を始めたのは、この世の富を追い求めずに、純朴な子供心で天の声に聞き従おうとする生き方を、当時の庶民の間に広めるためだったのではないでしょうか。現代の私たちも一切の無駄遣いを止めて、日々あの世の神に心の眼を向けながら、節水・節電など、各種の節約の小さな心がけを神にお献げするなら、神も警告の災害を遅らせ、この世の人々の悔い改めの動きを、静かに慈しみのまなざしで見直して下さるまではないでしょうか。 

   ご存じのように良い羊飼いについての主の話が読まれる復活節第四主日は、カトリック教会において「世界召命祈願の日」とされていて、毎年全世界の教会は、司祭や修道者として神に仕える人が多くなるよう神に祈りを捧げています。14カ月程前の2010年末のヴァチカンの統計によりますと、全世界のカトリック信徒数は12億人に近い数値を示していますが、司祭数は50年前の第二ヴァチカン公会議直前頃の42万人余よりも少ない41万人余りでしかなく、50年前には信徒数が今の半分もいなかったことを思うとまだまだ足りなくて、昔に比べるとミサなどの秘跡に参加する便宜を失っている信徒たちが、国によりまた地方によって非常に多くなっています。女子修道会の会員数は50年前に比べますと半数程に激減しており、高齢化の進行もあって今なお大きく減少し続けています。アジア・アフリカの諸国では若い修道者たちが多少増えつつありますが、修道者は教会にとって貴重な存在ですので、若い修道者の増加のためにも、「取り入れの主」であられる神に召命の恵みを祈り求めましょう。以前私たちは毎月の第一月曜日に、司祭・修道者の召命のため特別にミサ聖祭を献げて祈っていましたが、この頃は晩の祈りに司祭・修道者の召命のための祈りを加えています。それでよいと思いますが、本日のミサ聖祭もその召命のために献げますので、全世界の教会と心を合わせ、相応しい心の司祭・修道者の増加のため、神に恵みと助けを願い求めましょう。本日の第一朗読に登場した使徒ペトロのように、日々主と共に生きることによって培われる確信と聖霊に満たされて、生き、働き、語る司祭・修道者が一人でも多くなるよう、神の特別の導きと助けを祈り求めたいと思います。