2015年4月3日金曜日

説教集B2012年:2012年聖金曜日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 52章13節~53章12節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 4章14~16節、5章7~9節
福音朗読 ヨハネによる福音書 18章1節~19章42節

   三年前の聖金曜日にもここでその一部を話したことですが、私は聖金曜日を迎えるといつも懐かしく思い出す話があります。それは、ドイツがナポレオンの支配下に置かれていた19世紀初頭に、北ドイツで聖痕を受けたカタリナ・エンメリッヒという敬虔な修道女が、主イエスと聖母マリアのご生涯について非常に詳細に見せてもらった幻示のことです。この幻示を、クレメンス・ブレンターノという著名な詩人が、本人に細かく語ってもらいながら書き留め、後で整理してかなり分厚い2冊のドイツ語本にまとめて出版しています。支那事変の初期に召集されて中国に渡った東京・本所教会の信徒坂井兵吉という医師は、現地で親しくなった神言会のドイツ人宣教師からそのドイツ語著書をもらい受けて戦争中に邦訳し、戦後に出版しています。私はその訳書の一部を既に神学生時代に読み、ローマに留学してドイツ語の原本を読んだりもしていますが、主の御受難のさまざまな場面は今でも印象深く覚えています。福音書に書かれていない裏話のような話が多いので、ローマに留学していた時に、一緒に生活していたドイツ人聖書学者に、カタリナ・エンメリッヒの見た幻示について質問してみました。すると今の聖書学の立場からは、その受難物語のどこにもはっきり誤りとして退けることのできる話は一つもないとのことでした。それで帰国後に、本所教会で訳者の坂井兵吉氏に会い、その訳書を入手しています。

   私の読んだその本によると、主イエスは最後の晩餐の後には一睡もしておらず、ゲッセマネで悪霊に苦しめられただけではなく、ユダヤ人たちに捕らえられ、大祭司カイヤファの家に連行される途中でも、ケドロンの谷川に投げ落とされたりするなどの、酷い虐待に苦しめられておられます。一晩中そのように虐待され続けた後に、ローマ兵によって激しく鞭打たれたり、茨の冠を被せられたりしたのですから、丈夫なお体の主がどんなに頑張っても、生木の重い十字架を担って刑場まで運ぶ途中で何度もお倒れになったのは、当然であったと思われます。カタリナ・エンメリッヒの見た幻示によると、三度ではなく七度も倒れておられます。そしてその度ごとに虐待されています。今の聖地巡礼に参加しますと、ピラトが裁判の席についていた、ヘブライ語でガバタと呼ばれた敷石のある所から、十字架に釘付けにされた記念の岩などが残されている聖墳墓教会のある所までは、ゆっくり歩いて15分程で行けますから1キロも離れていませんが、昔のエルサレムの城壁の内側に建設されているその聖墳墓教会の所にゴルゴタの丘があったのではありません。その教会の横にある城門を出て更に西へおそらく2キロ程進んだ所に、「されこうべ」型のゴルゴタと呼ばれていた小高い丘があったのであり、弱り果てていた主はその丘の上まで、何度も倒れながら登らなければならなかったのです。この丘は、紀元330年頃にコンスタンティヌス大帝の母、聖ヘレナ皇后により主の聖十字架が、ある奇跡的治癒を介して発見された後、ローマ軍によって取り崩され、その頂上の岩石や土などは当時のエルサレム城壁内に移されて、その上に聖墳墓教会が建設されましたが、その他の岩石や土砂は数百台の車でカファルナウムの港まで運ばれ、そこから船でローマ市内にまで運び込まれ、その岩石や土砂の上にコンスタンティヌス大帝が建設させたのが、今もラテラノ大聖堂の近くに建つ、エルサレム聖十字架大聖堂であります。ですから、もともとのゴルゴタの丘は、跡形もなくなっているのです。

   主が他の二人の盗賊たちよりも早く息を引き取られたのは、主がお受けになった虐待の酷さのためであると思われます。主は実際、私たちの想像を絶する程の恐ろしい苦しみを耐え忍びつつ、その御命を生贄として天の御父に献げ、人類の罪の赦しと人類救済の恵みを天から呼び下されたのではないでしょうか。同時にこの世の全ての苦しみを聖化して、神による救いの恵みを私たちの魂に呼び下す器として下さったのではないでしょうか。そのために極度の苦しみを耐え忍ばれた主に対して、深い感謝の心を新たに致しましょう。そして私たちも、日々自分に与えられる苦しみを主と内的に一致して耐え忍び、神に献げることにより、世の人々の上に神から恵みを呼び下すように努めましょう。


   苦しみそのものには少しも価値がない、などと言う人もいます。苦しみを単に受けるだけ我慢するだけで、外的社会的には何も産み出さないものとしてこの世的・理知的に考えるなら、そうかも知れません。しかし、少なくとも神の御独り子がこの世に来臨して多くの苦しみを進んで耐え忍び、それにより人間救済の業を成就なさった後には、苦しみは、主イエスと内的に一致して生きようとする私たちキリスト者にとって人間救済の手段として祝別され、神の恵みの器としての高い価値を持つに至ったように思われます。苦しみは、固く凝り固まっている私たちの心の土を打ち砕いて掘り起こし、そこに神の恵みの種が深く根を張って、豊かに実を結ぶことができるようにしてくれるからです。病気、誤解、失敗、その他の突然の思わぬ苦しみを受けたような時、目前のその出来事だけに目を向けずに、救い主キリストにも信仰と感謝の眼を向けて、主と一致してその苦しみを受け止め、多くの人の救いのため、私たちの忍耐を快く神にお献げするよう努めましょう。その時、主ご自身が私たちの内に共に苦しんで下さり、その苦しみを浄化して、私たちの魂を一層強く豊かにして下さるのを実感するようになると思います。恐れずに、受けた苦しみを愛し、苦しみを耐えることによって主との一致を深めるように心がけましょう。