2015年4月2日木曜日

説教集B2012年:2012年聖木曜日(三ケ日)

第1朗読 出エジプト記 12章1~8,11~14節
第2朗読 コリントの信徒への手紙1 11章23~26節
福音朗読 ヨハネによる福音書 13章1~15節

   主の最後の晩餐の記念である今宵のミサ聖祭では、三つの奥義が特別に記念されます。それは、主が晩餐の前に弟子たちの足を洗われたことと、ご聖体の秘跡の制定と、「私の記念としてこれを行え」というお言葉による、聖体祭儀ならびに司祭職の制定であります。

   出エジプトの記念行事である過越の食事を始めるにあたって、主はなぜ伝統的慣例に反して弟子たちの足を洗うという行為、奴隷たちの中でも一番下の奴隷がなしていた行為をなさったのでしょうか。出エジプトの歴史的出来事は、神の民イスラエルに対する神の全く特別な愛の行為、その民がそれまでに犯した一切の忘恩・不忠実の罪を赦し、神の愛の許に自由独立している国民として発足させようとなさった、神の愛の働きでありました。神はシナイ山で、「私はあなたを奴隷の家エジプトから導き出した主なる神である。私の他に何者をも神としてはならない」とおっしゃって、改めて神の民イスラエルと愛の契約を結びましたが、主イエスは、出エジプトの時のこの救う神の愛、無償で全ての罪を赦し、新しく神の民として歩ませようとしておられた、神の奉仕的な愛を新たな形で体現し、その愛に弟子たちを参与させるために彼らを極みまで愛し、彼らの足を洗うことによって、全てを赦して奉仕するその愛を目に見える形で彼らにお示しになったのだと思います。

   旧約時代の神の民の歴史を吟味してみますと、民は人間的理性的に考えて、自分たちのこの世の生活に神が必要であると考えたから、神を信じるようになったのではありません。神が自分たちのためにどれ程大きなことを為して下さったか、また神が恩知らずの自分たちを赦し、深く愛して下さるのを数々の不思議な奇跡体験を介して、感謝の心で弁え知るに至ったところから、彼らの神信仰が始まったのです。新約時代に神が私たちから切に求めておられる信仰も、同様だと思います。自分の夢、自分の憧れに駆られて一生懸命神に祈り、自力で強い神信仰に生きようと努力しても、それは人間が作り出した信仰であって、そこにどれ程大きな善意があっても、神が私たちから求めておられる心の信仰ではないと思います。聖ペトロをはじめ初期の弟子たちは皆、競って神のために何か善いことを為して褒めてもらおう、評価してもらおうと努めるような信仰の熱心に励んでいたようですが、度々主イエスからその信仰の弱さや不足面を指摘され、叱責されていました。そうではなく、自分の日々の生活や体験を介して、自分がどれ程神から赦され愛されているかを感謝の心で深く弁え知ること、ごく平凡な小さな出逢いや出来事などの内に神からの求めや呼びかけを鋭敏に感知する心のセンスを磨き、神への従順に生きること、そして我なしの僕・婢の謙虚な精神で、神と人々への奉仕に努めること。ここに、太祖アブラハム以来のキリスト教的神信仰の基盤があると思います。それは、自分の考えや望みなどは完全に捨てて、ただ神の御旨のみを中心にして、それに従って生きようとする精神であると思います。

   主イエスは、これまで少しでも他の人に先んじて手柄を立てようと、互いに競い合い勝ちであった使徒たちの心を、このキリスト教的神信仰の基盤・中核に目覚めさせるために、皆に仕える一番下の奴隷のようなお姿で弟子たち一人一人の足を洗われた後、彼らに、あなた方も互いに足を洗わなければならないとお命じになったのではないでしょうか。自分を人々や社会の上に置いて、全てを自分の聖書理解に基づく何か不動の法規や理屈で割り切って考えたり裁いたりする、ファリサイ派のパン種には警戒しましょう。主キリストの模範に従って生きようとする私たち新しい神の民にとって、最高のものは神とその働き、無償で全ての罪を赦して下さる神の愛とその実践であります。私たちが主イエスのその愛に参与し、それを日々体現する時に、神も私たちの中で、私たちを通して特別に働いて下さり、神による救いの恵みが私たちの間に豊かに溢れ、私たちを通して社会にも広がって行くのです。

   ところで、主が弟子たちの足を洗われたのは、単に己を無にして下から仕えるという模範をお示しになっただけではありません。もしそれだけのことであったら、主がペトロに話された「私が洗わないなら、あなたは私と何の関わりもないことになる」、「既に体 (即ち足) を洗った者は全身清い」などのお言葉は、不可解になります。主が弟子たちの足を洗われたという行為には、もっと深い象徴的意味が隠されているのではないでしょうか。それは、主がその人の罪を全て受け取り、ご自身の受難死によって償おう、こうしてその人の霊魂の汚れをちょうど洗礼のようにして洗い流し、その人を神の所有物、神の子にするという、主の贖いの死の恵みに参与させようとすることも、意味していたと思われます。洗礼の時には頭に水が流れただけでも、その人の魂は神によって浄化され神の子とされますが、同様に主がその人の足を洗っただけでも、その人の魂の罪は救い主に引き取られ、清くされるのだと思われます。主は弟子たちにも、このようにして互いに相手の負い目を赦し、その罪を自分で背負って清めよう、己を犠牲にして相手に神の子の命を伝えようと奉仕し合うよう、お命じになったのではないでしょうか。主のお考えでは、人を赦す、人を愛するとは、このようにして自分を犠牲にして赦し、愛することを意味していたのだと思われます。

   私たちが、主のこの無償の献身的愛に参与して生きることができるように、主はご聖体の秘跡を制定し、そこにそれまでご自身が生きて来られた奉仕的、自己犠牲的な神の愛を込め、私たちの魂を養い力づけるための食物・飲み物となさいました。それは真に不思議な生きている食物・飲み物で、それを相応しい愛の心で拝領する人の中では、その魂と主イエスとの内的一致を深め、その心を守り助け力づけて下さいます。しかし、他人も社会も宗教も神も、すべてを自分の考えで利用しようとしている人間の中では、主のお体を汚すその不信の罪故に、その心を裏切り者ユダの心のように暗くし、自分の身に悪魔を招き入れることにもなり兼ねません。ですから、使徒パウロもコリント前書11: 21に警告しているように、拝領前に自分の心をよく吟味し、自分中心の利己的精神に死んで、主の献身的愛の命に生かされて生きる決意を新たにしながら、拝領するよう心がけましょう。主の愛が私の内に主導権を持ち、私はその主に従って生きるのだ、という僕・婢の精神を新たにして拝領することが大切だと思います。


   こうして主キリストと一致する全てのキリスト者は、同時に主の普遍的司祭職にも参与し、主と一致して人々のため、また社会のために神にとりなし、神から恵みを呼び下すこともできるようになります。いや、そういう働きを為す使命を身に帯びるに至るのです。主は最後の晩餐の時、パンを取って神に感謝を捧げてからそれを割り、「皆これを取って食べなさい。これはあなた方のために渡される私の体である」とおっしゃいましたが、この「渡される」というお言葉には、そのお体が徹底的に苛めさいなまれ、鞭打たれて十字架に釘付けられる全てのお苦しみの予見が込められていたと思います。同様に、「これは私の血の杯、あなた方と多くの人のために流されて罪の赦しとなる、新しい永遠の契約の血である」とおっしゃった、その「流されて」というお言葉にも、鞭打ちや茨の冠などによる無数の痛ましい傷や、心臓を刺した槍のひと刺しにより最後の一適までこの世に与え尽くす、恐ろしい苦しみの予見が込められていたと思います。私は最近ミサの聖変化の御言葉を唱える度毎に、最後の晩餐の時の主のこのような徹底的捧げのご心情を偲んでいます。今宵私たち一人一人も、主において参与している普遍的司祭職の使命を改めて自覚し、司教・司祭たちの働きを下から支え助けて、主キリストの司祭職が現代においても多くの人に神による救いの恵みをもたらすことができるよう、特に祈りと苦しみを捧げて協力する決意を新たにしつつ、この聖なる感謝の祭儀を献げましょう。