2015年4月19日日曜日

説教集B2012年:2012年復活節第3主日(三ケ日)

第1朗読 使徒言行録 3章13~15、17~19節
第2朗読 ヨハネの手紙一 2章1~5a節

福音朗読 ルカによる福音書 24章35~48節

   本日の第一朗読は、使徒聖ペトロが神殿の美しい門の所で生来歩けなかった男を奇跡的に癒したことに驚いた民衆に話した説教ですが、彼はその中で、メシアを殺害したユダヤ人の罪を糾弾した後に、神がその殺されたメシアを死者の中から復活させたと宣言し、「私たちは、このことの証人です」と述べています。度々復活の主に出会った目撃体験と、旧約聖書の言葉に基づいての力強い証言であると思います。ペトロがその結びで、「ところで兄弟たちよ、あなた方があんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったことは、私には分かっています。云々」と、大きな罪を犯してしまったユダヤ人の無知と弱さに、温かい理解を示していることも、注目に値します。罪を厳しく糾弾したのは、無知から犯してしまった罪をしっかりと自覚させ、一人でも多くのユダヤ人たちに、神からのその罪の赦しを受けさせるためであったと思います。自分たちの心が無知と弱さから犯した罪によって穢れていても、恥じる必要はありません。謙虚にそれを認めて神の憐れみを願い求めるなら、罪の穢れは、神の憐れみと大きな恵みとを私たちの上に呼び下す貴重な手段となるのですから。私たち人間の犯した罪には、神の御前にそういう大切なプラス面もあるのです。罪の多さや大きさだけに眼を向けて、悲観的にならないよう気を付けましょう。

   私たち現代人の心の中にも、無知と弱さから犯してしまった罪の穢れが宿っていて、私たちを事ある毎に内面から悩まし、憂鬱にして、神の恵みと明るい希望の内に生活するのを妨げているかも知れません。「罪」と聞くと、人はよく何かの社会的規則や修道会などの会規に違反した言動を考え勝ちですが、聖書が問題にしているのはそのような外的規則違反ではなく、何よりも神の愛の御心・御旨に従おうとしない、私たちの奥底の心の態度や心構えのようです。それは心の奥に深く隠れているので、全てを合理的に考える人には理解できない一つの神秘だと思います。私が神学生時代に聞いた話では、実際ある聖人は「罪の神秘」という言葉も使っているそうです。家族や社会の結束が根本から弱まり崩壊しつつある現代の大きな過渡期、自由主義思潮の横行で心の教育・鍛錬も善悪判断も軽視され歪められつつある現代の能力主義時代には、悪霊たちは外的出来事で人々を苦しめ悩ますよりも、むしろ各個人の心の奥に住みついて家庭や社会の絆を内側から弱め、各人を内的にも外的にも孤立させて個人の無力や失望を痛感させ、いじめ苦しめようとしているようにも思われます。

   戦後の自由主義教育を受けて育った最近の日本人の中には、福者マザー・テレサらの実践的模範に学んで奥底の心が目覚めたのでしょうか、震災や交通事故や就職難などによる劣悪な苦しい生活環境にあっても、隣人や貧しい人たちへの奉仕に新たな喜びや生き甲斐を見出している人が、各地で増えつつあるようですが、しかしその反面、生きている意味が分からない、遊んでも楽しくない、社会の将来にも希望を持てない、酒や薬物の依存症には勝てない、こんな苦しい状態がいつまでも続くのなら、いっそ思い切って贅沢な暮しをし、今の社会の深刻なマイナス面を何かの事件によって明るみに出し、国にも社会にも訴えて死んで行こう、などという捨て鉢の考えを抱いて苦しんでいる人たちも、まだ少なからず今の社会に隠れているようです。14年前から日本で自死する人が毎年3万人以上いるのも、このような希望のない行き詰まり感覚や虚しさ感覚と関係があることでしょう。現代の悪霊たちもそのような人々の心を悩まし、絶望へと追い込もうとしているかも知れません。主キリストによる復活信仰の希望や喜びを神から戴いている私たちは、そういう人たちの心に神による救いの恵みが与えられるよう、もっと真剣に祈る使命を持つと思います。罪の穢れがどれ程であっても構いません。その人たちが心を神に開き神の憐れみに頼るなら、神は全ての罪を取り除き、どんな悪人をも救うことがお出来になります。その人たちが、今の世の流れや行き詰まりにだけ心の眼を向けずに、自分の周辺に迫るその苦しみを介してその心を反転させ、全能の神の方に心の眼を向けて神の憐れみを願い求めるように、そして神による救いの道を見出すに至るように、神の恵みを祈り求めましょう。

   メシアの受難死は、数百年前から預言者たちによって予告されていた神の御旨でした。神のご計画では、メシアは人々の罪によって殺されても復活し、一層大きな自由の内に世の終りまで人類と共に留まり続け、悔い改めて信じる人を救うために派遣されたのです。ですから、たといメシア殺しの罪を犯してしまっても失望することなく、悔い改めて復活なされた主メシアの御許に立ち帰り、主の新しい命に生かされて神の御旨中心に従順に生きようと努めるなら、全ての罪は赦され、その人の内に神の愛が実現するようになります。使徒ヨハネが本日の第二朗読の中で「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方イエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪、いや私たちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。云々」と説いているのは、罪人を訪ね求めて一人でも多く改心させ、その罪を全て赦して神の愛の内に生きる新しい存在にしてあげようと、全てを捧げて真剣に努めておられる主の無限の愛を、熟知しているからだと思います。その愛に依り頼んで、私たちも一人でも多くの人を主の御許に導くよう努めましょう。

   復活の主キリストも本日の福音の中で弟子たちに、「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなた方はこれらのことの証人となる」と話しておられます。私たち人類の犯した罪がどれ程大きなものであろうとも、失望せずに一心に神により頼み、この世中心・人間中心のこれまでの生き方を捨てて、神の御旨に対する従順の生き方への「悔い改め」に努めるなら、その時主キリストの御功徳によって全ての罪が赦され、心の奥底に神からの新たな恵みが溢れるほどに注ぎ入れられて、人間は神の導きと力に支えられて明るい希望の内に生き始めるのです。それは、内的に自分に死んで神に生きる「死と生の恵み」ですが、主キリストはこの大きな恵みと希望を人類にもたらすために、受難死を遂げ復活なされたのです。今落胆と混迷のどん底に苦悩している現代人が、一人でも多く復活の主のこの恵みに浴することができるよう、本日のミサ聖祭の中で祈りましょう。