2010年11月28日日曜日

説教集A年: 2007年12月2日待降節第1主日(三ケ日)

聖書朗読:マタイ24・37-44

① 待降節初日の今朝は、美しく晴れ渡った星空に聖母マリアのシンボルとされている「明の星」金星が大きく輝いていました。私は名古屋でも毎朝5時少し前に起床して、部屋のすぐ横にあるベランダに出て外の空気を吸うのを習慣にしていますので、晩秋から早春にかけては星空を眺めることが多いです。金星の見える位置は年によっていろいろと変わりますが、これまで待降節の夜明け前に金星を眺める年が多かったように記憶しています。他の星たちに比べて金星の昇るのは少しずつ遅れていますが、今年はこの分ですかと、待降節の間じゅうは、日の出の一時間ほど前に「明の星」を眺めることができるように思います。この「明けの星」のように、いつもそっと私たちを見守っていて下さる聖母マリアの温かい母性愛に感謝し、その取次ぎを願い求めつつ、主の来臨に対する心の備えに努めましょう。

② 本日の第一朗読は、2千7百年数十年も前に、イザヤ預言者が見たこの世の終末後の世界についての幻であります。典礼暦年最後の週である先週の週日に、教会ルカ福音書の中からこの世の終末についての主の予言を毎日のように朗読させ、主の再臨の日に備えて「いつも目覚めて祈る」よう私たちの心を堅めさせましたが、しかし、終末の恐ろしいマイナス面にだけ心の眼を向けることのないよう、本日の第一朗読では、主の再臨後の輝かしい平和と愛の世界についても眼を向けさせています。それは、全知全能の神が直接に支配なさる世界であり、国々の民がこぞって大河のように主の御許に集い、もはや一切戦うことをしない美しい平和と愛の世界であります。現代世界の多くの民族は、人間中心の理知的な考えや意欲が齎した各種の対立抗争のため、テロや破壊・貧困・不安などに悩まれていますが、主キリストが全宇宙の王としての権威と栄光の内に再臨なさり、諸国民や国々の不義と争いをお裁きになると、忽ち素晴らしい人類世界が実現するに至るのです。この大きな明るい希望を心に抱きながら、神が聖書を介して提供しておられる勧めや戒めのお言葉に従うよう心がけましょう。

③ 使徒パウロは第二朗読の中で、「眠りから覚めるべき時が既に来ています」「救いが近づいているからです」「闇の行いを脱ぎ捨てて」「品位をもって歩みましょう」「争いと妬みを捨て、主イエス・キリストを見にまといなさい」などと勧めています。新しい典礼年の初めにあたり、とかく目先の苦楽や不安などに囚われ勝ちであったこれまでの生き方を脱ぎ捨てて、洗礼の時に神に捧げた決心を新たにし、神中心の聖い生き方に目覚めて誇りと品位をもって生活しようというのが、使徒の勧めだと思います。

④ 主イエスも本日の福音の中で、二度も目を覚ましているよう警告しています。世の終りも私たち各人の裁きの時、死の瞬間も、思いがけない形で突然に来るからです。旧約聖書に語られているノアの洪水も、主によると全く突然に、人々が楽しく食べたり飲んだりしていた時に、急に始まったようです。未曾有の恐ろしい大集中豪雨が始まってからでは、もう逃げ場がありません。主は「人の子が来る時も、このようである」と警告しておられます。一緒にいる二人のうち、「一人は連れて行かれ、一人は残される」のです。どちらが救われ、どちらが滅ぼされるのか分りませんが、ノアの洪水を例にとって話されたのですから、ノアとその一族のように、残された人の方が救われるのかも知れません。現代世界に流行している各種の詐欺や盗みも、全く思いがけない巧妙な仕方で多くの人を不幸のどん底に陥れています。通常の常識に従って用心していても、その想定外の仕方で発生するのが、現代の詐欺や盗みの特徴のようです。これまでの社会的常識に従って生きているだけでは足りません。何よりも神に祈り、神の勧め・神のお言葉に対する心のセンスを実践的に磨いていましょう。そうすれば、私がこれまで幾度も体験して来たように、神が不思議な程私たちを護り導いて下さいます。神に対する信頼心を新たにしつつ、神を迎える待降節の修行に励みましょう。

2010年11月21日日曜日

説教集C年: 2007年11月25日 (日)、王たるキリスト祝日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. サムエル下 5: 1~3. Ⅱ. コロサイ 1: 12~20.
     Ⅲ. ルカ福音書 23: 35~43.


① いよいよ典礼暦年の最後の日曜日となりました。来週はまた新しい典礼年が待降節という形で始まります。教会はこういう一つの典礼年の暮れに、この世の終末や私たちの人生の最後を思い起こさせるような聖書の言葉を、週日のミサ聖祭の中でも朗読させて、過ぎ行くこの世の事物に対する心の執着を捨てさせ、神の御前に進み出て罪の裁きを受ける覚悟を新たに固めさせますが、私たちを取り囲む晩秋の気候や風景も、盛者必衰の現実を見据えてあの世での新しい人生に備えるよう、私たちの心に呼びかけているように感じられます。一週間前にも申しましたが、罪に汚れたこの世の事物は全て、その根底において冷たい「無」と死の影に伴われており、晩秋の風はそのことを私たちに告げ知らせているのではないでしょうか。

② 私たちの心の奥底にも、そのような無色透明で孤独な「無」あるいは「空」と呼んでもよい、小さな虚無の世界が潜んでいるように思われます。私たちが時として感ずる侘びや寂びの美しい心情は、その「無」の世界から産まれ出るのかも知れません。事が思い通りに運ばずに失敗したような時や、愛情が実らずに愛する人に捨てられたような時、あるいは病気が進んで死が迫って来たような時、人間はその虚無を、挫折感や喪失感、あるいは悲痛や恐怖として痛感させられますが、しかしそれは、私たちの心が神と結ばれ、神に生かされて生きるという人間本来の生き方を見失って、意識的にしろ無意識的にしろ自分中心に生きている時に、その心の眼に恐ろしく悲しいもの、空しいものとして映る虚無であって、人間をそのような存在としてお創りになった神の側に立って観るならば、その「無」あるいは「空」の場こそ、愛の神が私たちを生かすために、心の一番奥底に眠っている能力を目覚めさせて働いて下さる場なのではないでしょうか。心がこの世の儚さ・わびしさや、自分の働きの空しさなどを痛感する時は、神に眼を向けるように致しましょう。神はその時、そっと私たちの心の奥に伴っておられ、私たちが人間中心・この世中心の生き方に死んで、心の底から真剣に神に縋り、神の愛に生かされようとするのを、静かに待っておられるのですから。

③ 本日の第一朗読は、サウル王を失って国の乱れに悩んでいたイスラエルの全部族の長老たちがへブロンにいたダビデの所に来て、彼を全イスラエルの王として戴く話です。私は時々こういう話を読むと、使徒パウロがローマ書8章に書いている、「被造物は空しさに服従させられていますが、」「神の子らが現れるのを、切なる思いで待ち焦がれているのです」という言葉を連想します。神にかたどり神に似せて創られた、と聖書に啓示されている私たち人間は、自分中心・人間中心のこの世的思想や生き方に留まっている限りでは、その心の内に神の超自然の力がまだ働けないために、神の支配に服従しようとしていないこの苦しみの世にあって悩み苦しむ弱い存在でしかありません。しかし、ダビデのように神を讃え、自分中心の生き方に死んで、ひたすら神の御旨中心に生きようと立ち上がりますと、そこに神の御独り子メシアの命が働き始めます。そして神が創造の始めに意図しておられた「神の子ら」としての人間像を体現するようになり、神の命と力に生かされて、次第にメシアのように何者をも恐れない霊的王としての威厳、万物の霊長としての威厳を身に帯びるようになります。多くの聖人・殉教者たちは、そのような模範を私たちに残していますが、この世の無数の被造物たちも皆、私たちがそのような霊的王、万物の霊長として生き始めるのを、「切なる思いで待ち焦がれている」のではないでしょうか。

④ 本日の第二朗読では同じ使徒パウロが、神の御独り子メシアが宇宙万物の創り主であると共に、それらに対する王権も支配権も持っておられる「第一の者」「王」であることを讃美していますが、その前に、「御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さいました。私たちは、この御子によって贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」と書き、また「光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなた方が与れるようにして下さった御父に感謝」とも書いています。これらの言葉から考えますと、私たちも主キリストにおいてその王権に参与し、神の子らとして神と共に永遠に万物を支配する権力と使命を受けるに至るのではないでしょうか。黙示録22: 5に、「神である主が彼らを照らし、彼らは永遠に支配する」とありますから。罪に沈む今の世の流れがどれ程乱れて、荒れすさぼうとも、主キリストと一致して万物の霊的王としての誇りと尊厳を堅持し、姿勢をまっすぐに正し、勇気をもってそれらの乱れに対処するよう、今から私たちの心を神の子らにふさわしく整えていましょう。洗礼によって主キリストの霊的からだの細胞にしていただいても、自分中心のこの世的精神に死んで、キリストの聖い愛に内面から生かされる心に実践的に転向しない限りはガン細胞のようなもので、王としてのプライドをもって美しく逞しく生きることはできません。

⑤ 本日は王たるキリストの祭日ですが、本日の福音を見ますとちょっと驚きます。十字架につけられて死を間近にしておられる主イエスの頭上には、「ユダヤ人の王」と書かれた捨て札が掲げられており、福音の前半には、その王が人々のあざ笑いと侮辱の対象とされているのですから。私たちは「王たるキリスト」と聞くと、世の終わりに天の大軍を率いて、輝かしい栄光のうちにこの世に再臨なさる主キリストのお姿を考え勝ちですが、それは、世の終わりにお示し下さるお姿、その御前に全ての国民がひれ伏すお姿で、その時までは、主はその栄光を深く深く覆い隠して、この罪の世・苦しみの世に生きる私たちの心に、日々そっと伴っておられるのではないでしょうか。日本語に「ぼろを着てても心は錦」という言葉がありますが、今の主イエスは外的には正にそのような全く貧しい無力な王として、目に見えないながら私たちの間に現存しておられるのだと思います。目に見えないその無力なやつれたお姿の王たるキリストを、全てを自分中心に考え利用しようとしている人たちは、無意識的ではあっても、現代の今も軽蔑したり、からかったり呪ったりしているのかも知れません。私たちは、どうでしょうか。

⑥ 本日の福音の前半には三種類の人々が登場し、いずれも王たるキリストをあざ笑ったり侮辱したり罵ったりしています。最初に登場するのはユダヤ人社会の指導者たちで、登場する人々の中ではたぶん十字架から一番遠く離れている位置で、ユダヤ人の王をせせら笑っていたと思われます。次に登場するのは処刑を執行した兵士たちで、十字架の斜め前辺りにいて、すっぱいぶどう酒を浸したものを主のお口につけたりしながら、主を笑いものにしていたのではないでしょうか。そして第三に登場するのは、主のすぐ隣に十字架にかけられていた犯罪人の一人ですが、この三種類の人々は、それぞれ社会や教育界をリードする支配者・宗教家・文化人グループ、軍人や労働者のグループ、そして庶民や犯罪人のグループの代表で、今もなお隠れて現存する主を無視し、あざ笑って、神を悲しませている社会各層の人々の代表なのではないでしょうか。

⑦ しかし、社会にはそのような自分中心・この世中心一辺倒の人たちばかりではなく、言葉や態度を通して見えて来る心の愛や清さ・美しさに対する心の感覚を養っており、神による救いを願い求めている人たちもいます。そのような人たちの代表が、本日の福音の後半に登場しているもう一人の犯罪人ではないでしょうか。嘲り侮辱する人たちに対しては黙しておられた主は、そういう人たちにははっきりと神の国の恵みや喜びを約束し、与えて下さいます。フーゲルという画家の描いたご受難の絵には、十字架の主の向かって右側で十字架にかけられているこの良い盗賊のすぐ近くに、聖母マリアと使徒ヨハネが立っています。私たちもこの世の利己的世俗的人々の側からではなく、いつも聖母や諸聖人たちの側から王たる主キリストを眺め、主に話しかけるように努めましょう。

⑧ 90年ほど前の第一次世界大戦によって、それまで皇帝あるいは王として君臨していた人たちが皆失脚し、世界にはもう王としての大きな政治的権力をもって君臨している者が一人もいなくなった時、カトリック教会は1925年に「王たるキリスト」の祝日を制定し、毎年秋の日曜日に盛大に祝うようになりましたが、これは決して時代錯誤ではありません。サムエル記上巻の8章によると、イスラエルの民がサムエル預言者に王を立てて欲しいと願った時、サムエルはその願いを退けようとしました。神の民を支配し導くのは神ご自身であって、神以外に王があってはならないと信じていたからでした。民の代表者たちがそれでも尚、目に見える人間である王を持ちたいとしきりに願い続けると、神も「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上に私が王として君臨することを退けているのだ」とおっしゃいましたが、しかし、目に見える王を持ちたいという人間側の強い憧れを受け入れて、預言者が彼らのために王を立てることをお命じになり、こうしてまず神がその御摂理によってお選びになったサウルという青年を王に祝聖させました。メシアによる将来の支配を、神の民に多少なりとも実感させる形で予告するために、神が王をお立て下さったのだと思います。

⑨ 従って、聖書思想によると、王または王朝というものは神の御摂理によって神の側から選ばれ立てられる者、世の終わりになってメシアが全被造物を支配する時が来るまでの間、神の王権を代行する者であって、民衆の側から多数決によって選出された者は王ではありません。ところが、神の王権を代行するそういう王が第一次世界大戦後にいなくなったのですから、神はカトリック教会に「王たるキリスト」の祝日を制定させて、これからは目に見えないながらも世の終わりまで実際に私たちの間に現存しておられる主キリストを、私たちの魂の王として崇め、神の支配に対する私たちの従順と忠実の精神を実践的に磨くよう導かれたのだと思います。主キリストは永遠の神の支配の実行者であって、民衆の多数決によって選ばれた過ぎ行くこの世の政治家とは質的に大きく違う、本来の王であります。本日はその王の私たちの間での現存に対する信仰を、新たに深める祝日だと思います。「現存」という言葉は、単にそこにあるということではなく、何かパーソナルな存在が私たちの方に向いて呼びかけつつ、そこにいることを意味しています。教会は、メキシコで国際聖体大会が挙行された2004年10月からの一年間を「聖体の年」として祝いましたが、その時の教皇の言葉に従ってご聖体の中での王たるキリストの現存に対する信仰を新たにしながら、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2010年11月14日日曜日

説教集C年: 2007年11月18日 (日)、2007年間第33主日(三ケ日)

(2007/11/18 ルカ21・5-19)

① いよいよ秋の暮、人生の終わりやこの世の終末を偲びつつ覚悟を固めるに相応しい季節になりました。平安前期の紀貫之の従兄弟で歌人の紀友則には、この世の悲哀感を慎ましやかに詠っているものが幾つもありますが、「吹き来れば身にもしみける秋風を色なきものと思ひけるかな」と、晩秋の風のもの寂しさを「色なきもの」と表現しているのは、注目を引きます。この罪の世の事物は全て、その根底において無色で冷たい「無」と死の影に伴われており、晩秋の風はそのことを私たちに教えているのではないでしょうか。典礼暦が終わりに近づくこの時期のミサ聖祭に、教会も終末の時を思うに適した朗読を読ませています。本日の第一朗読は、旧約聖書最後の預言書マラキ書からの引用ですが、マラキはヘブライ語で「わが使者」という意味だそうで、長年のバビロン捕囚から帰郷した最初の人々は故国の荒廃に驚き、まずは自分たちの生活の建て直しに努めましたが、ハガイ預言者からの要求で神殿の再建を優先させられ、何とか外的に神殿もでき上がりました。しかし、預言者が約束した神の祝福を受けることはできずにいました。それで、マラキ預言者が神の言葉を受け、自分の望み第一で、神への愛故になしていない献げ物に問題があることなどを示したのが、マラキ書であると思います。

② 本日の朗読箇所は、恐ろしい終末の日には、日頃自分の社会的地位や外的業績などを誇りとしていた人々と自分の望み中心に生きていた人々が、全てわらのように焼き捨てられ、神を畏れ敬いつつ神の僕・婢のように慎ましく生きていた人たちが、義の太陽によって癒され救われると教えていると思います。私たちは果たしてその日に神から癒され救われるような、内的に神と共に生きる生き方をしているでしょうか。自分の死の時を先取りして、本日ゆっくりと反省してみましょう。もし私たちが何よりもこの世の人からよく思われようとして、神の眼を無視したり忘れたりしているなら、神を畏れ敬う者ではないと思います。福音書に語られている主の譬え話はほとんど皆、怠りの罪を警告していると言うことができましょう。私たちも神と共に、主キリストと共に生きるという信仰の務めを忘れたり怠ったりしていないか、自分の心の眼のつけ所を厳しく吟味してみましょう。単に神の国のためのこの世的教会組織の中で、この世の人々の方に眼を向けながら、人並みに働いているだけでは足りないと思います。各人が何よりも神に心の眼を向け、それぞれパーソナルな愛をもって神と共に生活し、日々神に自分の祈りと苦しみと働きを献げることを、神は求めておられるようですから。

③ 本日の第二朗読の出典であるテサロニケ後書の1章と2章に、使徒パウロはこの世の終りに主イエスが再臨なさることと、その時の神による裁きとその再臨の前に世に現れ出る徴、例えば神に反逆し、自分を神として神の聖座に居座る「滅びの子」の出現などの験について語っていますが、そのすぐ後に、
信徒団が自分たちから学んだ正統の教えを堅く守り、善い業と祈りなどに励むよう、いろいろと言葉を変えて繰り返し勧めています。その話の一つが、本日の第二朗読になっています。そこには、「働きたくない者は、食べてはならない」という命令も読まれますが、パウロは、間もなく世の終りが来ると考えて労働を軽視し、残り少ない人生を働かずに楽しもうとするような人たちに警告したのかも知れません。私たちも、世の終り前に世に広まると予告されている異端説や悪の勢力に警戒しつつ、最後まで神に忠実に留まり、働き続ける覚悟を新たに堅めていましょう。

④ 本日の福音は、人々がエルサレム神殿がヘロデ大王によって見事なギリシャの大理石で再建され、各地からの奉納物で飾られているのに見とれていた時に、主がお語りになった話ですが、「一つの石も石の上に残ることのない日が来る」という予言は、それから40年後の紀元70年に実際にその通り実現してしまいました。大理石は水にも風にも強い、非常に硬い石ですが、カーボンを多量に含有しているため火には弱く、火をかけられると燃え落ちる石ですから。アウグスト皇帝が推進したシルクロード貿易の発展で、当時のエルサレムには大勢の国際貿易商が来ており、町は豊かになって建設ブームが続いていましたが、経済的には豊かに発展しつつあったその町が急に徹底的廃墟と化してしまったのです。かつてなかったほど便利にまた豊かに発展しつつある現代世界も、内的堕落の道を歩むなら、いつ恐ろしく悲惨な崩壊に落ち込むか判りません。主はエルサレムの滅亡と重ねて、世の終りについても話しておられるからです。同じルカ福音の17章にも、主は人の子が再臨する時に起こる大災害について、「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、娶ったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも、同じようなことが起こった。云々」と、その大災害が豊かさと繁栄の最中に突然襲来することを予告しておられます。私たちも覚悟していましょう。

⑤ 「そのことが起こる時には、どんな徴があるのですか」という質問に、主は本日の福音の中で、大きく分けて三つのことを教えておられます。その第一は、世を救うと唱道するような人々が多く現れるが彼らに従ってならないこと、戦争や暴動のことを聞いても怯えてはならないこと、これらの徴がまず起こっても世の終りはすぐには来ないことの三つであります。第二は、民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に大地震・飢饉・疫病が起こって、天に恐ろしい現象や著しい徴が現れることです。そして第三は、これらのことが全て起こる前に、すなわち起こり始めている時に、キリスト者に対してなされる迫害であります。

⑥ ところで、主がここで話しておられるような徴は、一時的局部的には教会の二千年の歴史の中で幾度も発生しており、その徴があるから世の終りが近いと結論することはできません。しかし、第二と第三の徴はルカ福音書では終末時の出来事とされているようですから、大地震・飢饉・疫病・迫害などが世界中到る所で発生し、天空に何かこれまでになかったような恐ろしい現象や著しい徴が現れたりしたら、その時は世の終りが間近だと覚悟し、この世の事物やこの世の命に対する一切の執着を潔く断ち切って、ひたすら神から与えられるものだけに眼を向けつつ、神に対する信仰・希望・愛のうちに全てを耐え忍び、忍耐によって神の授けてくださる新しい命を勝ち取るよう努めましょう。それはある意味で、この世に死ぬことと同じでしょうが、しかし、信仰に生きる私たちにとっては、死は新しい世界への門であり、新しい命への誕生なのですから、「恐れてはならない」という主のお言葉を心に銘記しながら、大きな明るい希望と信頼のうちに、終末の災害・苦難を神の御手から感謝して受けるよう心がけましょう。主は本日の福音の後半に、「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と智恵を、私があなた方に授ける」と約束しておられますし、「親、兄弟、親族、友人にまで裏切られ」「全ての人に憎まれ」ても、「あなた方の髪の毛一本も決してなくならない」と保障しておられます。そして本日の第一朗読にも、「その日は、と万軍の主は言われる」「わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼には癒す力がある」という慰めの言葉が読まれます。神よりのこれらの言葉を心に堅持して、迫害には雄々しく忍耐強く対処するよう、今から覚悟を堅めていましょう。神は、弱い私たちを必ず助け導いて下さいます。

2010年11月7日日曜日

説教集C年: 2007年11月11日 (日)、2007年間第32主日(三ケ日)

朗読聖書 Ⅰ. マカバイ後 7: 1~2, 9~14.   Ⅱ. テサロニケ後 2: 16 ~ 3: 5. Ⅲ. ルカ福音書 20: 27~38.

① 本日の第一朗読は、ユダヤがまだシリアのセレウコス王朝の支配下にあった紀元前2世紀の中頃に、シリア王アンティオコス四世が、国民の団結を宗教によって固めるため、全国民にギリシャ人の神々を拝ませようとして生じた、ユダヤ教迫害の時の母子8人の殉教について述べています。この迫害が、宗教創始者や伝道者だけではなく、社会的犯罪無しの一般庶民をも宗教信仰ゆえに無差別に殺害した、歴史上最初の宗教迫害であります。ギリシャの神々の神殿では豚をいけにえに献げ、その肉を食べることでその神々の力に参与すると信じられていました。しかしユダヤ人たちは、神に献げるいけにえとして使うことが許されていない豚を清くない動物と考えて、豚肉を口に入れることはアブラハムの神に対する背信・棄教と信じていました。それで、国家権力によるそのような強制に、民族をあげて強く抵抗し続けました。結局シリア王はユダヤ人たちの民間から生まれた抵抗勢力に勝てず、BC 142年には遂に、ユダヤ人に国の独立を認めざるを得なくなりました。

② 本日の第一朗読には永遠の命への復活を意味する動詞が三回読まれますが、そこに登場しているユダヤ人殉教者たちは、いずれもその来世信仰に根ざして生きており、神から授けられた律法に背かず、神に忠実であり続けるなら、その神によってあの世で永遠の命に復活させていただけるのだと、堅く信じていたようです。彼らの言葉を拾ってみましょう。最初の息子は「我々は父祖伝来の律法に背くくらいなら、いつでも死ぬ用意はできているのだ」と言い放ち、第二の息子は「世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へと蘇らせて下さるのだ」と、その希望を命をかけて表明しています。また第三の息子は「主の律法のためなら惜しいとは思わない。私は主からそれらを再びいただけるのだと確信している」と言明しており、第四の息子は「たとえ人の手で死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせて下さるという希望をこそ選ぶべきである。だがあなたは、蘇って再び命を得ることはない」などと、来世信仰・復活信仰に生きていない迫害者を憐れんでさえいます。

③ 四百年前、三百数十年前のわが国のキリシタン殉教者たちも、皆同様の強い来世信仰・復活信仰に生きていました。この世的には貧しく苦しい人生であっても、彼らはその貧しさや苦労を全てあの世の神に献げつつ、日々大きな希望と喜びのうちに生活していました。信仰と希望に生きるこのような心のある所に、神も特別に眼をかけ生き生きと働いて下さいます。察するに、彼らは日々神の不思議な助けを体験し、神の身近な現存を実感しつつ生きていたのではないでしょうか。彼らの残した数多くの言葉の背後には、そのような体験に基づく喜びが感じられます。

④ これまでの伝統という伝統が全て次々と揺らぎ出し、内面から崩壊しつつある現代世界の、黒潮のように大きな潮流に押し流されながら生活することになると思われる私たち現代人も、心の深刻な不安に打ち勝って日々大きな希望と喜びのうちに生活するには、昔の殉教者たちの生き方にもっと本腰入れて見習うべきなのではないでしょうか。この世に生まれた以上、誰もが必ず死ぬことは心で分かっているのに、目前の過ぎ行くこの世の事柄にだけ心を向けて、自分の死については考えないようにしている人が余りにも多いように思います。「いくら考えても分からないから」と言う人も多いでしょう。確かに、この世の経験に基づいて考えるように造られている人間理性でいくら考えても、経験していない死後のあの世については何も分りません。しかし、私たちにこの素晴らしい大自然とこの命を恵んで下さった偉大なお方に対する感謝の心で、謙虚に、また欺瞞の教えに対する十分な警戒心をもってたずね求めるなら、あの世の神からの声なき声での呼びかけや啓示は、そっと驚くほど多く提供されています。聖書をこの世中心の理知的精神で読まないよう心がけましょう。そこには、何よりも私たち各人の心に対するあの世の神からの呼びかけが込められ、隠されているのですから。

⑤ シリア王朝から国の独立を勝ち取った時には、まだ来世信仰に生きていたと思われるユダヤ人指導層の一派サドカイ派は、神殿礼拝の収入を独占して豊かになり、更にローマ帝国の傘下に入ってギリシャ・ローマ文明の恩恵にも恵まれて生活するようになると、エルサレム神殿を中心とするユダヤ教の伝統を悪用して、過ぎ行くこの世の事物や社会的権利などに執着するようになり、あの世での復活を否定するようになったようです。神の民の教会は神のもので、そのものとしては聖なるものですが、人間が指導し統治する組織体でもありますので、十分に気をつけていないと、そこに悪の力が介入する可能性を排除できません。このことは、全てが極度に多様化するグローバリズムの波にもまれて苦闘している現代の教会についても言うことができます。私たちも警戒していましょう。本日の福音ではそのサドカイ派の人々が、来世の復活を信じるファリサイ派の人々を悩ますために持ち出していたレビーラト婚の問題を、主キリストに吹っかけて、主を悩まそうとした話を扱っています。長男が先祖の伝統を第一に受け継ぐ長子権が重視されていた時代に書かれた申命記25章には、先祖以来の家名を存続させて財産が人手に渡るのを阻止するためか、兄が子なしに死んだら、弟はその兄嫁と結婚して兄の後継ぎを設けなければならないと規定されていますが、もしあの世に復活があるなら、馬鹿げたことになるというのが、彼らサドカイ派の主張でした。

⑥ 主はこれに対して、この世の人間は皆死ぬ運命にあるので、結婚によって子孫を残そうとするが、この世に死んで次の世に復活した人々は、天使たちのように、もはや死ぬことのない永遠の神の命に神の子として生きるのだから、娶ることも嫁ぐこともなく、誰の妻だ、誰の夫だなどという一切の束縛から自由になるのだ、と説明なされたようです。そして更に、復活を信じないサドカイ派の誤りを正すために、彼らが唯一聖書として重んじているモーセ五書の中にも、モーセが神を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んで、既に数百年も前にこの世を去った太祖たちが、あの世に復活し生きているように話していることに注意を喚起しています。日本語ではこのように呼んだだけでは、それらの太祖たちが今生きているという証拠になりませんが、ここで主が引用しておられる出エジプト記3: 6には、神がモーセに「私はあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあって、この「である」という現在形の動詞が、アブラハムたちが今も神と共に生きていることを示す証拠になることを、主は指摘なされたのです。

⑦ 私たちの人生はこの世で終わるものではなく、死後にもずーっと永遠に続くものなのです。「永遠に続く」と聞くと、あの世は何と退屈な所だろうなどと想像する人もいますが、それは井の中の蛙が考えるような現実離れの想像だと思います。聖書がそれとなく啓示している断片的な言葉から察せられるあの世は、この小さな地球上の目に見える経験からの想像を遥かに絶する大きな霊的世界で、その世界に迎え入れられた神の子らは、この世の体とは比較できない輝かしい体に復活し、仕合わせに暮らす処のようです。退屈するどころか、尽きぬ感動と喜びと感謝のうちに神を讃え、皆天使たちのように神出鬼没に動き回りつつ、神から与えられた命を永遠に楽しく暮らす処のように思われます。いかがなものでしょうか。

⑧ 本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「私たちの主イエス・キリスト御自身、ならびに私たちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えて下さる私たちの父である神が、どうかあなた方の心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者として下さるように」と祈っていますが、使徒パウロにこの祈りをさせて下さった慈しみ深い父なる神は、私たちが皆この苦しみの世界から死の門をくぐって美しいあの世に生れ出る日を、大きな愛の御心でお待ちになっておられると信じます。この喜ばしい信仰と希望を新たにしながら、本日のミサ聖祭を献げましょう。