2010年11月21日日曜日

説教集C年: 2007年11月25日 (日)、王たるキリスト祝日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. サムエル下 5: 1~3. Ⅱ. コロサイ 1: 12~20.
     Ⅲ. ルカ福音書 23: 35~43.


① いよいよ典礼暦年の最後の日曜日となりました。来週はまた新しい典礼年が待降節という形で始まります。教会はこういう一つの典礼年の暮れに、この世の終末や私たちの人生の最後を思い起こさせるような聖書の言葉を、週日のミサ聖祭の中でも朗読させて、過ぎ行くこの世の事物に対する心の執着を捨てさせ、神の御前に進み出て罪の裁きを受ける覚悟を新たに固めさせますが、私たちを取り囲む晩秋の気候や風景も、盛者必衰の現実を見据えてあの世での新しい人生に備えるよう、私たちの心に呼びかけているように感じられます。一週間前にも申しましたが、罪に汚れたこの世の事物は全て、その根底において冷たい「無」と死の影に伴われており、晩秋の風はそのことを私たちに告げ知らせているのではないでしょうか。

② 私たちの心の奥底にも、そのような無色透明で孤独な「無」あるいは「空」と呼んでもよい、小さな虚無の世界が潜んでいるように思われます。私たちが時として感ずる侘びや寂びの美しい心情は、その「無」の世界から産まれ出るのかも知れません。事が思い通りに運ばずに失敗したような時や、愛情が実らずに愛する人に捨てられたような時、あるいは病気が進んで死が迫って来たような時、人間はその虚無を、挫折感や喪失感、あるいは悲痛や恐怖として痛感させられますが、しかしそれは、私たちの心が神と結ばれ、神に生かされて生きるという人間本来の生き方を見失って、意識的にしろ無意識的にしろ自分中心に生きている時に、その心の眼に恐ろしく悲しいもの、空しいものとして映る虚無であって、人間をそのような存在としてお創りになった神の側に立って観るならば、その「無」あるいは「空」の場こそ、愛の神が私たちを生かすために、心の一番奥底に眠っている能力を目覚めさせて働いて下さる場なのではないでしょうか。心がこの世の儚さ・わびしさや、自分の働きの空しさなどを痛感する時は、神に眼を向けるように致しましょう。神はその時、そっと私たちの心の奥に伴っておられ、私たちが人間中心・この世中心の生き方に死んで、心の底から真剣に神に縋り、神の愛に生かされようとするのを、静かに待っておられるのですから。

③ 本日の第一朗読は、サウル王を失って国の乱れに悩んでいたイスラエルの全部族の長老たちがへブロンにいたダビデの所に来て、彼を全イスラエルの王として戴く話です。私は時々こういう話を読むと、使徒パウロがローマ書8章に書いている、「被造物は空しさに服従させられていますが、」「神の子らが現れるのを、切なる思いで待ち焦がれているのです」という言葉を連想します。神にかたどり神に似せて創られた、と聖書に啓示されている私たち人間は、自分中心・人間中心のこの世的思想や生き方に留まっている限りでは、その心の内に神の超自然の力がまだ働けないために、神の支配に服従しようとしていないこの苦しみの世にあって悩み苦しむ弱い存在でしかありません。しかし、ダビデのように神を讃え、自分中心の生き方に死んで、ひたすら神の御旨中心に生きようと立ち上がりますと、そこに神の御独り子メシアの命が働き始めます。そして神が創造の始めに意図しておられた「神の子ら」としての人間像を体現するようになり、神の命と力に生かされて、次第にメシアのように何者をも恐れない霊的王としての威厳、万物の霊長としての威厳を身に帯びるようになります。多くの聖人・殉教者たちは、そのような模範を私たちに残していますが、この世の無数の被造物たちも皆、私たちがそのような霊的王、万物の霊長として生き始めるのを、「切なる思いで待ち焦がれている」のではないでしょうか。

④ 本日の第二朗読では同じ使徒パウロが、神の御独り子メシアが宇宙万物の創り主であると共に、それらに対する王権も支配権も持っておられる「第一の者」「王」であることを讃美していますが、その前に、「御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さいました。私たちは、この御子によって贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」と書き、また「光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなた方が与れるようにして下さった御父に感謝」とも書いています。これらの言葉から考えますと、私たちも主キリストにおいてその王権に参与し、神の子らとして神と共に永遠に万物を支配する権力と使命を受けるに至るのではないでしょうか。黙示録22: 5に、「神である主が彼らを照らし、彼らは永遠に支配する」とありますから。罪に沈む今の世の流れがどれ程乱れて、荒れすさぼうとも、主キリストと一致して万物の霊的王としての誇りと尊厳を堅持し、姿勢をまっすぐに正し、勇気をもってそれらの乱れに対処するよう、今から私たちの心を神の子らにふさわしく整えていましょう。洗礼によって主キリストの霊的からだの細胞にしていただいても、自分中心のこの世的精神に死んで、キリストの聖い愛に内面から生かされる心に実践的に転向しない限りはガン細胞のようなもので、王としてのプライドをもって美しく逞しく生きることはできません。

⑤ 本日は王たるキリストの祭日ですが、本日の福音を見ますとちょっと驚きます。十字架につけられて死を間近にしておられる主イエスの頭上には、「ユダヤ人の王」と書かれた捨て札が掲げられており、福音の前半には、その王が人々のあざ笑いと侮辱の対象とされているのですから。私たちは「王たるキリスト」と聞くと、世の終わりに天の大軍を率いて、輝かしい栄光のうちにこの世に再臨なさる主キリストのお姿を考え勝ちですが、それは、世の終わりにお示し下さるお姿、その御前に全ての国民がひれ伏すお姿で、その時までは、主はその栄光を深く深く覆い隠して、この罪の世・苦しみの世に生きる私たちの心に、日々そっと伴っておられるのではないでしょうか。日本語に「ぼろを着てても心は錦」という言葉がありますが、今の主イエスは外的には正にそのような全く貧しい無力な王として、目に見えないながら私たちの間に現存しておられるのだと思います。目に見えないその無力なやつれたお姿の王たるキリストを、全てを自分中心に考え利用しようとしている人たちは、無意識的ではあっても、現代の今も軽蔑したり、からかったり呪ったりしているのかも知れません。私たちは、どうでしょうか。

⑥ 本日の福音の前半には三種類の人々が登場し、いずれも王たるキリストをあざ笑ったり侮辱したり罵ったりしています。最初に登場するのはユダヤ人社会の指導者たちで、登場する人々の中ではたぶん十字架から一番遠く離れている位置で、ユダヤ人の王をせせら笑っていたと思われます。次に登場するのは処刑を執行した兵士たちで、十字架の斜め前辺りにいて、すっぱいぶどう酒を浸したものを主のお口につけたりしながら、主を笑いものにしていたのではないでしょうか。そして第三に登場するのは、主のすぐ隣に十字架にかけられていた犯罪人の一人ですが、この三種類の人々は、それぞれ社会や教育界をリードする支配者・宗教家・文化人グループ、軍人や労働者のグループ、そして庶民や犯罪人のグループの代表で、今もなお隠れて現存する主を無視し、あざ笑って、神を悲しませている社会各層の人々の代表なのではないでしょうか。

⑦ しかし、社会にはそのような自分中心・この世中心一辺倒の人たちばかりではなく、言葉や態度を通して見えて来る心の愛や清さ・美しさに対する心の感覚を養っており、神による救いを願い求めている人たちもいます。そのような人たちの代表が、本日の福音の後半に登場しているもう一人の犯罪人ではないでしょうか。嘲り侮辱する人たちに対しては黙しておられた主は、そういう人たちにははっきりと神の国の恵みや喜びを約束し、与えて下さいます。フーゲルという画家の描いたご受難の絵には、十字架の主の向かって右側で十字架にかけられているこの良い盗賊のすぐ近くに、聖母マリアと使徒ヨハネが立っています。私たちもこの世の利己的世俗的人々の側からではなく、いつも聖母や諸聖人たちの側から王たる主キリストを眺め、主に話しかけるように努めましょう。

⑧ 90年ほど前の第一次世界大戦によって、それまで皇帝あるいは王として君臨していた人たちが皆失脚し、世界にはもう王としての大きな政治的権力をもって君臨している者が一人もいなくなった時、カトリック教会は1925年に「王たるキリスト」の祝日を制定し、毎年秋の日曜日に盛大に祝うようになりましたが、これは決して時代錯誤ではありません。サムエル記上巻の8章によると、イスラエルの民がサムエル預言者に王を立てて欲しいと願った時、サムエルはその願いを退けようとしました。神の民を支配し導くのは神ご自身であって、神以外に王があってはならないと信じていたからでした。民の代表者たちがそれでも尚、目に見える人間である王を持ちたいとしきりに願い続けると、神も「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上に私が王として君臨することを退けているのだ」とおっしゃいましたが、しかし、目に見える王を持ちたいという人間側の強い憧れを受け入れて、預言者が彼らのために王を立てることをお命じになり、こうしてまず神がその御摂理によってお選びになったサウルという青年を王に祝聖させました。メシアによる将来の支配を、神の民に多少なりとも実感させる形で予告するために、神が王をお立て下さったのだと思います。

⑨ 従って、聖書思想によると、王または王朝というものは神の御摂理によって神の側から選ばれ立てられる者、世の終わりになってメシアが全被造物を支配する時が来るまでの間、神の王権を代行する者であって、民衆の側から多数決によって選出された者は王ではありません。ところが、神の王権を代行するそういう王が第一次世界大戦後にいなくなったのですから、神はカトリック教会に「王たるキリスト」の祝日を制定させて、これからは目に見えないながらも世の終わりまで実際に私たちの間に現存しておられる主キリストを、私たちの魂の王として崇め、神の支配に対する私たちの従順と忠実の精神を実践的に磨くよう導かれたのだと思います。主キリストは永遠の神の支配の実行者であって、民衆の多数決によって選ばれた過ぎ行くこの世の政治家とは質的に大きく違う、本来の王であります。本日はその王の私たちの間での現存に対する信仰を、新たに深める祝日だと思います。「現存」という言葉は、単にそこにあるということではなく、何かパーソナルな存在が私たちの方に向いて呼びかけつつ、そこにいることを意味しています。教会は、メキシコで国際聖体大会が挙行された2004年10月からの一年間を「聖体の年」として祝いましたが、その時の教皇の言葉に従ってご聖体の中での王たるキリストの現存に対する信仰を新たにしながら、本日のミサ聖祭を献げましょう。