2010年11月7日日曜日

説教集C年: 2007年11月11日 (日)、2007年間第32主日(三ケ日)

朗読聖書 Ⅰ. マカバイ後 7: 1~2, 9~14.   Ⅱ. テサロニケ後 2: 16 ~ 3: 5. Ⅲ. ルカ福音書 20: 27~38.

① 本日の第一朗読は、ユダヤがまだシリアのセレウコス王朝の支配下にあった紀元前2世紀の中頃に、シリア王アンティオコス四世が、国民の団結を宗教によって固めるため、全国民にギリシャ人の神々を拝ませようとして生じた、ユダヤ教迫害の時の母子8人の殉教について述べています。この迫害が、宗教創始者や伝道者だけではなく、社会的犯罪無しの一般庶民をも宗教信仰ゆえに無差別に殺害した、歴史上最初の宗教迫害であります。ギリシャの神々の神殿では豚をいけにえに献げ、その肉を食べることでその神々の力に参与すると信じられていました。しかしユダヤ人たちは、神に献げるいけにえとして使うことが許されていない豚を清くない動物と考えて、豚肉を口に入れることはアブラハムの神に対する背信・棄教と信じていました。それで、国家権力によるそのような強制に、民族をあげて強く抵抗し続けました。結局シリア王はユダヤ人たちの民間から生まれた抵抗勢力に勝てず、BC 142年には遂に、ユダヤ人に国の独立を認めざるを得なくなりました。

② 本日の第一朗読には永遠の命への復活を意味する動詞が三回読まれますが、そこに登場しているユダヤ人殉教者たちは、いずれもその来世信仰に根ざして生きており、神から授けられた律法に背かず、神に忠実であり続けるなら、その神によってあの世で永遠の命に復活させていただけるのだと、堅く信じていたようです。彼らの言葉を拾ってみましょう。最初の息子は「我々は父祖伝来の律法に背くくらいなら、いつでも死ぬ用意はできているのだ」と言い放ち、第二の息子は「世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へと蘇らせて下さるのだ」と、その希望を命をかけて表明しています。また第三の息子は「主の律法のためなら惜しいとは思わない。私は主からそれらを再びいただけるのだと確信している」と言明しており、第四の息子は「たとえ人の手で死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせて下さるという希望をこそ選ぶべきである。だがあなたは、蘇って再び命を得ることはない」などと、来世信仰・復活信仰に生きていない迫害者を憐れんでさえいます。

③ 四百年前、三百数十年前のわが国のキリシタン殉教者たちも、皆同様の強い来世信仰・復活信仰に生きていました。この世的には貧しく苦しい人生であっても、彼らはその貧しさや苦労を全てあの世の神に献げつつ、日々大きな希望と喜びのうちに生活していました。信仰と希望に生きるこのような心のある所に、神も特別に眼をかけ生き生きと働いて下さいます。察するに、彼らは日々神の不思議な助けを体験し、神の身近な現存を実感しつつ生きていたのではないでしょうか。彼らの残した数多くの言葉の背後には、そのような体験に基づく喜びが感じられます。

④ これまでの伝統という伝統が全て次々と揺らぎ出し、内面から崩壊しつつある現代世界の、黒潮のように大きな潮流に押し流されながら生活することになると思われる私たち現代人も、心の深刻な不安に打ち勝って日々大きな希望と喜びのうちに生活するには、昔の殉教者たちの生き方にもっと本腰入れて見習うべきなのではないでしょうか。この世に生まれた以上、誰もが必ず死ぬことは心で分かっているのに、目前の過ぎ行くこの世の事柄にだけ心を向けて、自分の死については考えないようにしている人が余りにも多いように思います。「いくら考えても分からないから」と言う人も多いでしょう。確かに、この世の経験に基づいて考えるように造られている人間理性でいくら考えても、経験していない死後のあの世については何も分りません。しかし、私たちにこの素晴らしい大自然とこの命を恵んで下さった偉大なお方に対する感謝の心で、謙虚に、また欺瞞の教えに対する十分な警戒心をもってたずね求めるなら、あの世の神からの声なき声での呼びかけや啓示は、そっと驚くほど多く提供されています。聖書をこの世中心の理知的精神で読まないよう心がけましょう。そこには、何よりも私たち各人の心に対するあの世の神からの呼びかけが込められ、隠されているのですから。

⑤ シリア王朝から国の独立を勝ち取った時には、まだ来世信仰に生きていたと思われるユダヤ人指導層の一派サドカイ派は、神殿礼拝の収入を独占して豊かになり、更にローマ帝国の傘下に入ってギリシャ・ローマ文明の恩恵にも恵まれて生活するようになると、エルサレム神殿を中心とするユダヤ教の伝統を悪用して、過ぎ行くこの世の事物や社会的権利などに執着するようになり、あの世での復活を否定するようになったようです。神の民の教会は神のもので、そのものとしては聖なるものですが、人間が指導し統治する組織体でもありますので、十分に気をつけていないと、そこに悪の力が介入する可能性を排除できません。このことは、全てが極度に多様化するグローバリズムの波にもまれて苦闘している現代の教会についても言うことができます。私たちも警戒していましょう。本日の福音ではそのサドカイ派の人々が、来世の復活を信じるファリサイ派の人々を悩ますために持ち出していたレビーラト婚の問題を、主キリストに吹っかけて、主を悩まそうとした話を扱っています。長男が先祖の伝統を第一に受け継ぐ長子権が重視されていた時代に書かれた申命記25章には、先祖以来の家名を存続させて財産が人手に渡るのを阻止するためか、兄が子なしに死んだら、弟はその兄嫁と結婚して兄の後継ぎを設けなければならないと規定されていますが、もしあの世に復活があるなら、馬鹿げたことになるというのが、彼らサドカイ派の主張でした。

⑥ 主はこれに対して、この世の人間は皆死ぬ運命にあるので、結婚によって子孫を残そうとするが、この世に死んで次の世に復活した人々は、天使たちのように、もはや死ぬことのない永遠の神の命に神の子として生きるのだから、娶ることも嫁ぐこともなく、誰の妻だ、誰の夫だなどという一切の束縛から自由になるのだ、と説明なされたようです。そして更に、復活を信じないサドカイ派の誤りを正すために、彼らが唯一聖書として重んじているモーセ五書の中にも、モーセが神を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んで、既に数百年も前にこの世を去った太祖たちが、あの世に復活し生きているように話していることに注意を喚起しています。日本語ではこのように呼んだだけでは、それらの太祖たちが今生きているという証拠になりませんが、ここで主が引用しておられる出エジプト記3: 6には、神がモーセに「私はあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあって、この「である」という現在形の動詞が、アブラハムたちが今も神と共に生きていることを示す証拠になることを、主は指摘なされたのです。

⑦ 私たちの人生はこの世で終わるものではなく、死後にもずーっと永遠に続くものなのです。「永遠に続く」と聞くと、あの世は何と退屈な所だろうなどと想像する人もいますが、それは井の中の蛙が考えるような現実離れの想像だと思います。聖書がそれとなく啓示している断片的な言葉から察せられるあの世は、この小さな地球上の目に見える経験からの想像を遥かに絶する大きな霊的世界で、その世界に迎え入れられた神の子らは、この世の体とは比較できない輝かしい体に復活し、仕合わせに暮らす処のようです。退屈するどころか、尽きぬ感動と喜びと感謝のうちに神を讃え、皆天使たちのように神出鬼没に動き回りつつ、神から与えられた命を永遠に楽しく暮らす処のように思われます。いかがなものでしょうか。

⑧ 本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「私たちの主イエス・キリスト御自身、ならびに私たちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えて下さる私たちの父である神が、どうかあなた方の心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者として下さるように」と祈っていますが、使徒パウロにこの祈りをさせて下さった慈しみ深い父なる神は、私たちが皆この苦しみの世界から死の門をくぐって美しいあの世に生れ出る日を、大きな愛の御心でお待ちになっておられると信じます。この喜ばしい信仰と希望を新たにしながら、本日のミサ聖祭を献げましょう。