2015年3月29日日曜日

説教集B2012年:2012年受難の主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 50章4~7節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙 2章6~11節
福音朗読 マルコによる福音書 14章1~15章47節

   ヘロデ大王が紀元前20年に始めたエルサレム神殿の大改築が殆ど完成していたキリスト時代には、天才的なギリシャ人建築師の活躍で美しくなったエルサレム神殿を見ようと、祭りの日にはユダヤ人ばかりでなく異邦人も大勢、国外からエルサレムに参集して全員がエルサレムの市内に宿泊できず、周辺の村々に宿泊したり、ゲッセマネなどの畑地に野宿したりする人たちも少なくなかったようですが、主が受難死を遂げる直前の頃、エルサレムには、主を死刑にしようと決めていたユダヤ教指導者たちの声に反対できず、それに従っていた人たちが大勢いました。しかし他方、過越祭を祝うため各地から参集したユダヤ人たちの中には、主をメシアとして信じている人たちも大勢いたようです。主のエルサレム入城の時には、この第二のグループの人たちが主の入城行進に参加する使徒たちやベタニア方面からの弟子たちの讃歌を耳にして、非常に大勢「黄金の門」と言われていた神殿の真東にある城門から出て来て、メシアを讃美し歓迎するその行列に参加したようです。ヨハネ福音書によりますと、それを見たファリサイ派の人々は互いに、「もう何もかも駄目だ。見ろ、世はこぞってあの人についてしまった」と言ったようです。

   本日のミサの開祭の前に、そのエルサレム入城を記念した儀式の中で朗読されたマタイ福音書の最後には、「前を行く者も後に従う者も『ホサンナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高き所にホサンナ』と叫んだ」とありますが、この讃美の言葉は、その時メシア歓迎の行列に自由に参加した群衆が新たに作り出して讃美ではなく、彼らが毎年秋の仮庵祭の行列の時に枝を携えて歌え慣れていた詩篇118番からの言葉だと思います。私たちがこの聖堂で、日曜日毎に唱和する詩篇118番の25, 26節は、日本語で「神よ、救いを私たちに。神よ、幸せを私たちに。神の名によって集まる人たちに神の祝福。祝福は神の家からあなた方の上に」と翻訳されていますが、ユダヤ人たちの唱えていたヘブライ語の原文では少し違っていて、「救いを私たちに」の言葉はホサンナとなっており、ホサンナという叫びは、「救ってください」という意味も持つそうです。そして「神の名によって集まる人たちに神の祝福」とある詩編の言葉は、主のエルサレム入城を報じている四福音書に共通して、「主の名によって来られる方に祝福」という風に言い換えられています。これはメシアを目前にしての歓迎の喜びで感激していた人たちが敢えて言い換え、主メシアを讃美・祝福する言葉にしたのだと思われます。

   本日の福音の場面は、メシア歓迎のその場面とは正反対で、主を死刑にしてもらおうとしていた祭司長たちや、長老・律法学者たちが主導権を取って、ユダヤ人群衆を扇動したり、ローマ総督ピラトの心を動かそうとしています。その人たちの話や罪状書きに、「ユダヤ人の王」という言葉が5回も登場していますが、その称号自体は正しいとしても、ピラトとローマ兵たちは政治的観点から、ユダヤ人たちは宗教的観点から、囚人の姿にされている主を王ではない、メシアではないと考えており、主のその称号を、皮肉を込めた軽蔑的意味で使っていたと思われます。そこには、数日前に主をメシアとして歓迎し讃美した敬虔な人たちの一部も、事の成り行きを見るため心配しながら出席していたと思われますが、折角捕縛することのできた主イエスを、是が非でも死刑にしてしまいたいと意気込んでいるユダヤ教代表者たちの険悪な雰囲気に圧倒されて、黙しているだけであったことでしょう。

   神の子メシアの福音に謙虚に耳を傾けようとしない、そんな人々が大勢群がりいきり立っている前に、囚人のようにして連れ出された主が、裁判席に着いた総督ピラトから「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問されても、相手は主の返答を正しく受け止める宗教心を持たず、また持とうともしていないのですから、主はあいまいな返事をし、それ以上には何もお答えになりませんでした。「それは、あなたが言っていることです」という言い方は、「その通りです」という肯定的意味の返事であることも、逆に否定的意味の返事である場合もあったようです。主は、わざとこのあいまいな言い方を利用なされたのだと思います。メシアは確かにユダヤ人の王ですが、ビラトがその言葉で考えるようなこの世の王ではなく、もっと遥かに偉大で超越しておられる神のようなあの世の王なのですから。主を処刑させようとして騒ぐその場のユダヤ人たちから何と言われても、それらの言葉を毅然として受け止め、少しもたじろがすに沈黙しておられる主の威厳に満ちたお姿も、主が偉大な王であられることを示していたと思われます。総督ピラトも少しはそのことを感じていたでしょうが、しかし、ローマ法によって厳しく処罰されることになる暴動を阻止するために、目前に騒ぎ立てているユダヤ教指導者たちや群衆の心をなだめることを優先し、結局彼らの要求通りに、主に十字架刑を言い渡してしまいました。

   可哀そうな総督ピラトのために一言弁明するなら、経済的に発展していた当時のローマ帝国は、法の順守と平和や秩序の維持を強調し、何かの非合理的情念にかられて社会秩序を乱す者に対しては驚く程厳しく弾圧していましたから、ユダヤ教代表者たちがこぞって、ローマ法に基づいて話し合うことのできない、そのような非合理的宗教的な情念に駆られて、大勢の群衆と共に主イエスの死刑を要求する姿に呆れるとともに、もしここで彼らの要求を退けるなら、国を挙げての大暴動も起こりかねないと思ったのかも知れません。その場合、宗教心と結ばれたその暴動の鎮圧には、非常に多くの犠牲が伴うばかりでなく、ローマ皇帝から自分の対応が悪かったとされて、厳しく責任を問われることになるであろう。そんな事態を避けるには、彼らの要求通りに今囚人として連れて来られたこの一人の男に死んでもらうのが得策と考えたかも知れません。そこに、ピラトの大きな罪があると思います。もし落ち着いていたなら、彼には逃げ道がなかったわけではありません。ローマ法で裁くことのできないこういう裁判は、自分で裁こうとせずに、その男イエスを留置してローマ皇帝に送り、ローマで裁判してもらえば良かったと思います。しかし、神の御摂理は、イスカリオテのユダにも総督ピラトにも罪を犯させることによって、人類救済の業をこの時エルサレムで達成させてくださったのだと思います。
   主が十字架上で死ぬ少し前に大声で叫ばれた、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」というお言葉は、絶望の叫びではありません。父なる神に希望をかけて、ひたすらに助けと救いを求める祈りの叫びだと思います。主が全人類の罪を背負って絶望的孤独に耐えておられたこと、そして絶望の淵に立たされている罪人たちの救いのためにも祈っておられたことを示す叫びでもあると思います。この言葉自体は詩篇22番の最初の言葉であり、この詩の後半には、私たちが度々『教会の祈り』の中で唱えているように、「神よ、私から遠く離れず、力強く急いで助けに来て下さい」、「神は弱り果てた人々を思いやり、顔をそむけることなく、その願いを聞き入れられた」、「遠く地の果てまで、すべての者が神に立ち帰り、諸国の民は神の前にひざをかがめる」などの言葉が多く続いていて、神の救いに対する希望と感謝と讃美に溢れています。主は、無数の罪人たちに対する神の救いの業を強く促し、神の助けを早めるために、大声でこのように叫び、息を引き取られたのではないでしょうか。

   するとその時、エルサレム神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたと、共観福音書は三つとも一致して伝えています。これはそれまでの古い神殿礼拝の時代が終わり、主がかつてサマリアの女に話された「霊と真理のうちに」捧げる新しい普遍的礼拝の時代が始まったことを示しているのだと思います。主の受難死の一部始終を間近で目撃していたローマ軍の百人隊長は、主のご死去直後に、「まことに、この人は神の子であった」と、おそらく深い感動の心で話したようですが、この時から世界各国の異教徒も続々と主イエスを神の子として信奉し、至る所で神を礼拝する新しい時代が始まった、と言うことができます。人類救済のためになされた主の祈りと受難死に感謝しながら、本日の集会祈願にもありますように、私たちも主と共に苦しみに耐えることによって、復活の喜びを共にすることができるよう、神の導きと恵みを願い求めましょう。


   ご存じのように、本日「枝の主日」は教皇ヨハネ・パウロ2世により、1988年からカトリック教会において「世界青年の日」(ワールド・ユース・デー)とされています。いろいろと数多くの問題を抱えている現代社会の重荷を背負い、それらの問題の解消に取り組んでくれるのは、若者たちの純真な神信仰と果敢な挑戦意欲だと思います。本日のミサ聖祭の中で、現代世界の若者たちが神の導きと助けを受けて、人類社会の内的向上のため実り豊かな生き方をすることができるよう、全世界の教会と心を合わせて、かれら若者たちの上に神の祝福を願い求めたいと思います。どうぞ、ご一緒にお祈り下さい。

2015年3月22日日曜日

説教集B2012年:2012年四旬節第5主日(三ケ日)

第1朗読 エレミア書 31章31~34節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 5章7~9節
福音朗読 ヨハネによる福音書 12章20~33節

   本日の第二朗読には、「キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方 (すなわち天におられる父なる神) に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」という言葉が読まれます。全能の神の御子であられる主は、この世にお生まれになった時、実際にそこまでこの苦しみの世に生きる私たち人間の肉の弱さを背負い、苦しみながら泣きながら弱い人、苦しむ人に伴って生活し、父なる神に助けを願い求めつつ生きておられたのだと思います。全能の神の御子は、罪と闇に苦しむこの世の貧しい人たち、苦悩する人たちの間に生活し、その苦しみを分かち合うことによって、この現し世の苦しみを聖化し、神の超自然的恵みの器・手段に高めて下さったのではないでしょうか。「傷める貝にのみ真珠は宿る」と申しますが、体内に入った異物に苦しめば苦しむ程、アコヤ貝はそれを核にして大きな美しい真珠・光輝く真珠を生み出し、育て上げるのだと思います。ある聖人は、主キリストと一致して耐え忍ぶ苦しみが多くの恵みをもたらすことに感嘆し、苦しみを「第八の秘跡」と呼んだそうです。私たちの生活しているこの現し世には、病気・災難・誤解・不安・詐欺・失敗などから齎される試練や苦しみが数限りなく存在し、時々私たちの心を襲って苦しめ悩ましますが、その時この世に受肉し、私たちの人間性をしっかりと受け止めて聖化なされた救い主が、私たちの魂の中に深く隠れてその苦しみを一緒に耐え忍び、私たちの内に人間救済の超自然の恵み、超自然の真珠を産み出しておられることに心を向けましょう。

   本日の第二朗読には、主イエスは神の御独り子であっても、また激しい叫び声をあげ、どれほど涙を流して祈っても、人間としてのその願いはそれだけでは天の御父に聞きいれられず、神を畏れ敬い、神の御旨中心に生きる僕の心を、「日ごろの態度」にもはっきりと表明し体現しておられたので、その実践的態度の中に主の従順心を御覧になっておられた神によって、その願いが聞きいれられたかのように述べられています。ヨハネ5章の中ほどに、主はユダヤ人たちに、「私の裁きは正しい。私は自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御旨を行おうとしているからである」と話しておられますが、何が正しいかという正義や権利の問題になると、私たち人間はとかく何かの法や何かの理論に基づいて権利や義務などについて考え勝ちです。しかしそれは、この世の人間社会には通用しても神には通用しません。神の上に法や理論を置くことになるからです。私たちの信仰生活においては、神の御旨だけが正義の基準であり、それを実践的に畏れ尊ぶ従順の生き方だけが、神の御前に義とされ、神に願いが聞き届けられる道であると信じます。主は、その模範を身を持って示しておられたのではないでしょうか。

   第二朗読から学びたいもう一つのことは、「多くの苦しみによって従順を学ばれ、完全な者となられたので」全ての人の「永遠の救いの源となった」という理由付けであります。神の子という肩書きや、修道者・司祭というような肩書きが幾つあっても、それだけではたとえどれ程多くの祈りを神に捧げても、人々の上に救いの恵みを豊かに呼び降すことはできないと思います。私たちの心の奥底には、人祖から受け継いだ自分中心の罪の根、不従順の罪の力がまだ根強く残っていて、神の働きを妨げて止まないでしょうから。その隠れている罪の力を、多くの苦しみに耐えることによって根絶し、神への徹底的従順を体得し体現して神の愛の恵みが心の底にまで行き届く人間になってこそ、神の御独り子と内的に深く結ばれた神の子・修道者・司祭となり、全ての人に救いの恵みを伝える神の器に高められて行くのではないでしょうか。人となられた神の子イエスを、人間としても初めから全てを知っておられて、何も学ぶ必要のなかった方と考えないように気をつけましょう。主は人間としては多くの苦しみによって神への従順を学び、最後まで内的に成長し続けられた方であったと思います。神は私たちも同じ様に従順によって内的に成長し続け、人類救済の業に参与するよう望んでおられるのではないでしょうか。主において私たちにも与えられているこの使命を、私たちもできるだけ忠実に果たすことができるよう、主の実践に学びましょう。

   主のご受難が間近に迫って来た頃の話である本日の福音には、まずユダヤ人の過越祭の時に礼拝するため、エルサレムに上って来た数人のギリシャ人たちが、ギリシャ系の名前を持つフィリッポとアンドレアスを介して、主に御目にかかりたいと願い出たことが語られています。彼らからの願い出を聞くとすぐに、主は、ギリシャ語原文によると「時が来た。人の子が栄光を受ける時が」と話し始められたのです。そのお言葉には、一種の感動のようなものが感じられます。主は以前に「善い牧者」について語られた時、「私にはこの囲いに入っていない羊たちがいる。私はそれらをも導かなければならない。…. こうして一つの群れ、一人の牧者となる。…. 私は命を捨てることができ、また再びそれを得ることができる。私は、この命令を父から受けた」などと話されましたが、異邦人の到来は、何かこの話と関係しているのではないでしょうか。主はギリシャ人たちの来訪の中に、何か御父からの徴を御覧になり、この時にあらためて全人類の罪を背負われたのではないでしょうか。とにかく主は、ギリシャ人たちの来訪を知らされると、突然ご自身の死について語られ、「私はまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名に栄光を現して下さい」などと祈りましたが、その時天から「私は既に栄光を現した。再び栄光を現そう」という声が響き渡ったようです。側にいた群衆はそれを、雷が鳴っただの、天使が語ったなどと思ったようですが、その声が、雷鳴のような威厳に満ちていたからであったと思われます。

   ところで、主が「栄光を受ける時」あるいは「御名に栄光を現す時」と表現しておられるその「時」は、主がその御命を捨てる受難死の時を指しています。主はその時について、「一粒の麦が地に落ちて、…. 死ねば多くの実を結ぶ」と説明し、更に弟子たちのためにも、「自分の命を愛する者はそれを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。私に仕えようとする者は私に従え。そうすれば、私のいる所にいることになり、…. 父はその人を大切にして下さる」などと教えておられます。私たちも主と一致して神に敵対する人類の罪までも背負い、その罪に汚れた自分の命をいけにえとなして神に捧げるなら、そして地に葬られてその殻が破られるなら、その時、私たちのこの世の命の殻の中に孕まれていた神の子の永遠の命も輝き出て、多くの人を救いに導き、豊かな実を結ぶに至るのではないでしょうか。「私に従え」という主の御言葉は、そのことを指していると思います。私たち各人がそのようにしてそれぞれの死を神に捧げる時、本日の福音にあるように、神の栄光が私たち各人の上にも現れて、この世の支配者、悪霊たちを追放して下さるのではないでしょうか。それは、生身の弱さを背負う人間となられた主ご自身も、「私の魂は騒いでいる。何と言おうか。父よ、私をこの時から救って下さい」と御父に祈られた程、恐ろしい苦しみの「時」でしょうが、しかし、その魂がこの世の殻を破って輝かしい栄光の命に生まれ出る時でもあります。ちょうど昆虫が羽化して成虫になり、古い殻を捨て去る飛躍の時のように。


   主の受難死と復活を記念する聖週間の典礼を間近にして、本日の福音にある主のお言葉を心に銘記しながら、私たちも主と共に全てを全能の神に委ねつつ、大きな信頼のうちに自分の死を先取りし、内的に主の死を追体験するよう心がけましょう。主は「私に仕えようとする者は私に従え。そうすれば、私のいる所に私に仕える者もいることになる」「父はその人を大切にして下さる」と語っておられるのですから。恐れずに、主と共に勇気をもって、苦しみと死に向かって進んで行きましょう。多くの人の救いのため、自分の命を主のいけにえに合わせて天の御父にお献げするために。

2015年3月8日日曜日

説教集B2012年:2012年四旬節第3主日(三ケ日)

第1朗読 出エジプト記 20章1~17節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 1章22~25節
福音朗読 ヨハネによる福音書 2章13~25節

   本日の第一朗読は、モーセを通して与えられたいわゆる「十戒」でありますが、ここでは先週と同様、第二朗読と福音についてだけ、ご一緒に考えて見たいと思います。第二朗読には、「ユダヤ人はしるしを求める」とありますが、なぜしるしを求めるのでしょうか。何事も自分中心に理知的に考え、利用しようとしている自我を捨てきれず、神の大らかな愛に全く身を委ね、神の僕・婢として、信仰と従順の闇の中で神への奉仕愛に生きようとしていないからではないでしょうか。また自力で智恵を探していると言われているギリシャ人たちも、自分中心の理知的自我の立場に立つ限りでは、人々に神による救いの恵みをもたらすため、十字架の死を甘受なされたキリストの献身的愛の生き方を理解できず、数多くの誤解や不安や矛盾が渦巻くこの「現し世」の深い霧の中に、いつまでも留まり続けると思います。

   使徒パウロがユダヤ人やギリシャ人について書いているこれらの言葉は、2千年前のユダヤ人・ギリシャ人にだけ該当する指摘ではなく、自分中心・この世の生活中心に生きている全ての人に、時代や場所の違いを超えて通用する指摘であると思います。極度の豊かさと便利さの中に生れ育ち、民主主義・自由主義の時代思想を自分中心の立場で都合よく理解しながら生活している、現代の多くの人たちにもそのまま該当すると思います。現代には若者や中年の大人たちの間で、家族や人間社会に対しても、自分の人生についても心に一種の根深い不信感ないし絶望感を抱いている人が増えて来ているように思われます。わが国で14年前から毎年3万人以上の人が自殺しているのも、各人の自我が自分で作った内的殻の中に自分の心を閉じ込め、大きく開いた明るい奉仕的精神で、家族や社会と共に生きる若さを持てずにいる証拠だと思います。夏目漱石は、各人に大きな自由と夢を与える近代文明・現代文明の背後には、個人主義の反乱が齎すそのような恐ろしいマイナス面が隠れていることを予見していたようで、『草枕』の中に、「文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする」などと書いています。私たちの生活を支えておられる神の存在を知らず認めずに、ただ人間の力だけに頼って生きることしか知らないなら、次々と際限なく様々の格差や相互対立を産み出して止まない現代の歪んだグローバル社会に、不安と絶望を痛感するのは当然だと思います。神に対する信仰・信頼・委ねの心という、人生にとって大切な霊的土台が欠如しているからです。

   将来に明るい希望を持てずにいる、そういう人たちが増えつつあることを思うと、神信仰に生きる恵みに浴している私たちには、神の愛・聖霊の神殿としての生き方を実践的に深めることにより、神の恵みと憐れみを世の人々の心に呼び下す使命を、神から与えられ期待されていると思います。神は一人でも多くの人を救おうと、真剣になっておられる親心の持ち主ですから。神は私たちの奥底の心を目覚めさせるため、時として思わぬ失敗・病苦・災害などの試練をお遣わしになりますが、その時はすぐに神に心の眼を向け、神の僕・婢としてそれらの苦しみを甘受し、今神よりの照らし・助けの恵みを必要としている人たちのため、喜んで神にお献げ致しましょう。そしていつも神中心に神のため、無料奉仕の精神で生きるよう努めましょう。すると私たちの奥底の心がしっかりと目覚めて立ち上がり、私たちの自我がいつの間にか無意識のうちに築いていた、心の殻や壁を内側から打ち壊して、新たな奉仕の意欲で自由にのびのびと生き始めるようになります。心の中に神の霊の力、神の賢さが働いて下さるからだと思います。使徒パウロはそのことを自分でも度々体験し、その体験に基づいて、本日の聖書の中で神の力、神の知恵を私たちに説いているのではないでしょうか。

   本日の福音に読まれる、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」という主のお言葉は、主が常日頃ご自身の体を神の神殿、神の霊の生きている神殿と考えておられたことを示していると思います。使徒パウロもコリント前書3章や6章に、洗礼の秘跡を受けた私たちの体が、聖霊の宿って下さる神殿になっていることを説いています。主イエスの御模範に倣って、私たちもこの信仰を大切に致しましょう。私たちの体は自分個人のものではなく、洗礼の秘跡によって聖化され、神に献げられた神殿になっているのです。私たちは修道誓願によっても、この献げを更に堅めています。四旬節に当たってこの初心を新たにし、日々主イエスと深く一致しながら、聖霊の生きる神殿として生活するよう心がけましょう。そうすれば私たちのごく平凡な言行も、ちょうどあどけない幼子の言行が母親の愛を促すように、父なる神の愛と憐れみを促して、この世の人々の上に神による照らしと助けの恵みを豊かに呼び下すと信じます。


   神殿は、神と人間社会とを結ぶ祈りの場であり、神が恵みを施すパイプのような器であると思います。神殿はまた、太祖ヤコブが夢に見た天と地を結ぶ梯子のようなもの、あるいはモーセたちが荒れ野を旅した時に神臨在の幕屋の上に留まっていた雲の柱のようなものでもあると思います。私たち各人の体と天の神とを結ぶ、目に見えないそのような霊的梯子や雲の柱の存在を信じ、自分の体を物質的動物的にだけ見ないよう心がけましょう。神殿は、神と人々への献身的奉仕にその存在価値を持つものであることも、忘れてはなりません。主イエスは「私は仕えられるためではなく、仕えるために来た」とおっしゃいましたが、私たちも同じ精神で日々神と人とに仕えるよう心がけましょう。

2015年3月1日日曜日

説教集B2012年:2012年四旬節第2主日(泰阜カルメル会で)

第1朗読 創世記 22章1~2, 9a, 10~13, 15~18節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章31b~34節
福音朗読 マルコによる福音書 9章2~10節

  本日の第一朗読はアブラハムが捧げた「イサクのいけにえ」についての話ですが、ここでは本日の第二朗読と福音について考えてみたいと思います。第二朗読はローマ書第8章からの引用で、「もし神が私たちの味方であるならば、誰が私たちに敵対できますか」という言葉に始まる、神に対する大胆な信頼と、どんな敵をも恐れない豪胆な意志表示だけの短い引用文であります。この意志表示に込められている使徒パウロの心を味わい知るには、使徒がその前後に述べているローマ書第8章の話全体を、一緒に考え合わせる必要があります。使徒はこの8章を「キリスト・イエスに結ばれている者には、もはや死の宣告はありません」「聖霊が罪と死の原理から解放してくれたからです」という言葉で書き始め、まずその御独り子を罪深い「肉」の姿でこの世にお遣わしになった神が、その御子を罪を償ういけにえと為して律法の要求する所を成就し、その御子に結ばれ、御子の「霊」に従って生きている私たちを、罪と死の支配から解放して下さったことを説いています。

  したがって、死者の中から復活なされた主イエスの霊を心に宿し、その霊に従って生きる私たちは死んでも皆、主イエスのように生きるようになるのです。「肉」に従って生きるなら死にますが、聖霊によって悪い行いを絶つなら生きるのです。聖霊に導かれる人は、神の子とする霊を受けたのですから皆神の子なのです。私たちはこの霊によって、神を「アバ、父よ」と呼んで祈ることができ、また主キリストと共同で神の国の相続人とされています。キリストと共に苦しむなら、キリストと共に栄光を受けるのです。使徒パウロはこう述べた後に、「現在の苦しみは、私たちに現わされる筈の栄光に比べると、取るに足りないと思います。云々」と書き、虚しさに服従させられている被造物たちが、神の子らの現れるのを切なる思いで待ち焦がれていることや、私たちの将来に輝かしい希望があることなどを述べています。そして「聖霊も私たちの弱さを助けて下さいます。私たちはどのように祈るべきか知りませんが、聖霊ご自身が言葉に表せない呻きを通して私たちのために執り成して下さるのです」と私たち各人の中での聖霊の祈りや働きについて述べており、それは、神が私たち召された者たちを「御子の生き写しになるようにと予めお定めになったからである」ことや、こうして「御子が大勢の兄弟たちの中で長子となるため」であること、また召された者たちを正しい者として、栄光をお与えになることなどについて述べています。

  神による新しい救いの御業についてのこれらの言葉に続いて、使徒パウロの書いているのが本日の第二朗読の言葉です。そこには「私たち全てのために、その御子さえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒に全てのものを私たちに賜わらない筈がありましょうか。云々」と、神の絶大な愛に対する信頼が表明されています。この引用文のすぐ後にも、「誰が私たちをキリストの愛から引き離すことができましょう。災いか、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か」などと大胆な信頼の言葉が続いています。そして第8章の終末には、「死も、生命も、天使も、支配者も、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高い所にいるものも、深い所にいるものも、他のどんな被造物も、我らの主キリスト・イエスにおいて現れた神の愛から私たちを引き離すことはできないのです」と書いています。四旬節に当たり、神の愛故に被造物界のどんな存在や現象をも恐れない使徒パウロのこの模範に倣い、私たちも小さい者ながら、神のその大きな愛に対する理解と信頼を一層深めるように努めましょう。

  唯今ここで朗読された本日の福音の始めは鍵括弧で [その時] となっていますが、マルコ福音書には「六日の後」となっており、その前の個所を読んでみますと、そこにはガリラヤ湖の北東ヘルモン連山の麓にある、フィリポ・カイザリアの町とその周辺の村々をめぐっておられた主が、弟子たちに最初の受難予告をなさったことと、その後でペトロが主を諌めようとしたら、「サタン、退け。あなたの思いは神のものではなく、人間のものである」と厳しくお叱りになったことなどが述べられています。使徒として召された12人全員が集まっていた所で、「サタン」と呼ばれて厳しく叱責されたペトロのショックは大きかったと思います。そこで主は、移りゆくこの世の体験に基づく人間の思いとは天地の差である、神秘なあの世の栄光に包まれておられる神の思いとはどのようなものかを垣間見せるために、使徒たちの中からペトロとヤコブとヨハネの三人だけを連れて、高い山にお登りになったのだと思います。

  中世の十字軍遠征時代からでしょうか、ガリラヤ中心部のイズレイル平原の北東端にある、海抜588mのお饅頭のような形のタボル山が、その時の主の御変容の山だという伝えが広められ、今日ではそこに建てられた聖堂に、聖地の巡礼団が多く連れて行かれるようですが、聖書をよく読むと、それは話が違うと思います。ルカ福音書によると、一行は山で一夜を過ごして翌日下山したのですから、タボル山よりももっと高い山であったと思われます。フィリポ・カイザリアの近くにある2千メートル級のヘルモン連山の一つに、登ったのではないでしょうか。ルカ福音書には、「ペトロと他の二人の弟子たちは眠くてたまらなかったが、はっきり目を覚ますと、イエスの栄光と、云々」とありますから、光輝く主の御変容は、夕刻か夜の出来事であったかも知れません。

  聖書によると、主の一行はこの出来事の後でガリラヤに入り、そこで主が第二の受難予告がなされたようですから、御変容はガリラヤ中央部のタボル山での出来事ではないと思います。タボル山にはキリスト時代に、ガリラヤ地方での謀反を抑止するためのローマ軍の砦も置かれていましたから。また主の御受難が間近に迫って来た冬の出来事でもなく、もっと前の夏の出来事であったと思われます。冬には2千メートル級のヘルモン連山には雪が積もって一夜を過ごすことはできませんが、夏ならそこは快い所だと思います。「私たちがここにいるのは、素晴らしいことです。云々」というペトロの言葉もうなづけます。それに、5百メートル級の山では雲はそんなに速く動きませんが、2千メートル級の山では、雲はしばしば突然に現れて全員を覆い隠し、また急に去って行くという現象も珍しくありません。私は神学生時代の夏休みに、同僚たちと一緒に海抜2,542mの浅間山に二度登りましたが、二度目の時に山頂の大きな噴火口を一周した時には、一瞬のうちに全員が真っ白い雲に覆われ、足元とすぐ隣の人が薄っすらと見えるだけという体験もしました。その雲の中をしばらく歩いていましたら、突然雲が消えて、すぐ眼の前に高さ3mほどの大岩が立っていたので、驚いたことがありました。2千メートル級の山の上では、このようなことは珍しくありません。私たちの教会暦では、毎年86日が主の御変容の祝日とされていますが、これは古代教会からの古い伝統に基づいている記念日だと思います。


  この出来事は、やはりヘルモン山でのことだと思います。雲の中から聞こえた「これは私の愛する子」という威厳に満ちた神の御声は、ヨルダン川での主の御受洗の時にも天から聞こえましたが、この山の上では「これに聞け」というお声も続いています。人間の思いのままに主イエスのため神のために何かを為そう、手柄を立てようとするのではなく、何よりも主イエスの御後に従って、神から与えられる苦しみも死も甘受し、復活の栄光に到達するようにというのが、使徒たちだけではなく、私たち各人に対する神の強いお望みでもあると思います。四旬節に当たり、神のその厳しい御望みに従う覚悟も新たに堅めましょう。