2012年9月30日日曜日

説教集B年:2009年間第26主日(三ケ日)


朗読聖書: . 民数記 11: 25~29.     . ヤコブ 5: 1~6.  
   . マルコ福音 9: 38~43, 45, 47~48.

   本日の第二朗読は、神を信ずる人たちの間にもいる利己的蓄財に没頭する金持ちたちを、厳しく糾弾する使徒ヤコブの書簡からの引用です。一般社会の不信仰者たちに対する非難ではありません。ヤコブはエルサレムの信徒団を統括し指導する初代司教の要職に就いていましたから、ここでは富裕なユダヤ人の地主たちを念頭に置いて、警告しているのかも知れません。全ての人の救いに奉仕するキリストの愛の実践に励んでいないと、現代の私たちの教会内にも、貧しい者、弱い者を除け者にする悪習がはびこる虞があると思います。「あなた方は、この終りの時のために宝を蓄えたのでした」という言葉から察しますと、第二朗読にある金持ちたちは、伝統的な各種団体が統率力を失って共同体が内面から瓦解しつつあった、当時の過渡的激動社会を巧みにくぐり抜けて儲けをあげ、不安な終末の時のため備えていたのかも知れません。

   これまでの社会倫理の基盤が、打ち続く激震で液状化現象を起こしているように見える現代世界にも、そのようにして巧みに大儲けをしている人たちが少なくないことでしょう。殊に近年世界的に広まったネット社会では、自分を隠して相手と交渉したり、契約を結んだり、金を振り込ませたりすることが容易にできるので、悪魔たちはこの文明の利器を各種の詐欺犯罪などに頻繁に利用させているようです。しかし、この世の富、この世の生活の安全を第一にして、そのためには他の人たちを搾取することも厭わない、そのような精神や生き方に、使徒ヤコブは非常に厳しいです。万軍の主なる神は、何よりも助けを必要としている小さな者や弱い者たちの嘆きや叫び声に耳を傾けておられ、その人たちの願いに応じて裁きを行おうとしておられるからです。私たちも気をつけましょう。富める人たちや能力ある人たちを優遇して、いつも特別扱いにするような行為は慎み、何よりも小さな者や弱い者たちの願いを優先しておられる神の御心を、身をもって世に証しするよう心がけましょう。

   本日の福音は、前半と後半の二つの話から構成されています。前半は、主が第二の受難予告に続いて弟子たちに話された教えで、弟子たちは自分たちの団体や組織に属していない者たちを敵視したり、除外視したりせずに、主の御名を使って悪霊を追い出したり奇跡をなしたりしているなら「私たちの味方」なのだから、その活動を止めさせたりしないようにと命じておられます。このお言葉は、マルコ福音書だけではなく、マタイ福音書にも、ルカ福音書にも読まれますから、福音記者たちは皆、宗教の世界からわが党主義を排斥する主のこの寛大な御精神を重視していたと思われます。

   教会内の世界も教会外の世界も極度に多様化しつつある現代においては、この教えは大切だと思います。神の驚くほど多様な働きを原理主義的に一つの体系、一つの組織だけに閉じ込め、独占することのないよう気をつけましょう。私たちはカトリック教会の伝統的慣習や生き方を大切にし、それを将来にも残し伝えようと努めていますが、しかし、全人類の救いを望んでおられる神は、私たちの所だけではなく、キリスト教の伝統を全く知らずに、新しい道で救いをたずね求めている多くの異教徒たちにも、キリストによる救いの恵みを分け与えることがおできになりますし、事実、その人たちの信仰に応えて数々の奇跡をなしておられます。心を大きく開いて、そういう神の働きにも信仰の眼を向け、その人たちの活動を敵視したり悪く言ったりしないよう気をつけましょう。私たちが日々ささげているミサ聖祭の功徳、主キリストによる救いの恵みは、まだ主の御教えをよく知らずにいる純真なその人たちの内に、私たちの所以上に効果的奇跡的に働くかも知れませんが、そのことで気を悪くすることのないよう心がけましょう。理知的な人たちは、自分の信ずる理論に対する合理的整合性を重視するあまり、そのような寛大な生き方、すなわち人間側の努力や業績中心に報酬が与えられると考えない生き方を嫌うようですが、しかし、私たちは人間の理論や組織などを遥かに越えておられる、神秘な神の御旨と神の働きに従うよう召されているのですから、原理主義者たちの固い冷たい「石の心」は退け、神の愛の霊によって生かされている柔軟で温かい「肉の心」を持つように心がけましょう。

   本日の福音の後半は、主を信じている小さな者の一人をも躓かせないようにという教えですが、主は同時に、そのような小さな者を躓かせてしまう心は私たち各人の中にもあることを明言し、この世中心・人間中心に生きようとするその心を、切り捨ててしまうようお命じになります。私たちには素晴らしい永遠の幸福が約束されているのです。あの世のその幸福への献身的愛の道を妨げるものは容赦なく切り捨てて進む、来世的人間の美しい潔さと勇気とを今の世の人たちに示しつつ、明るい希望のうちに生きるよう努めましょう。神はそのように生きる人たちに時々、挨拶しても見向きもしてくれない冷たい態度の人を派遣なさいます。そのような時、心で自分の言行を弁明したり、その人の心を詮索したり非難したりせずに、すぐに神の現存に心の眼を向けましょう。自分の心を悩ますその人は、神から派遣された恵みの使者なのです。その人を介して私のすぐ近くにまで来ておられる神に対する、畏敬の念を新たに致しましょう。まだ神中心に生きようとしていない自分の心の片手、片足、片目を切り捨てさせ、そこに新しい愛の片手、片足、片目を産み出させるために、神は時折愛する子らにそのような試練をお与えになるのです。くよくよ心配せずに、潔く神に全てを献げて古い自分に死に、新しい心に生まれ変わりましょう。そうすれば、自分の心の中に復活の主の力が働いて、失った手も足も目も立派に新しいものに生まれ変わり、その試練が自分にとって大きな恵みであったことも、冷たい態度をとっていた人たちがその恵みによって温かい心に変わって行くことも見ることでしょう。

2012年9月23日日曜日

説教集B年:2009年間第25主日(三ケ日)


朗読聖書: . 智恵 2: 12, 17~20.     . ヤコブ 3: 16~ 4: 3.  
   . マルコ福音 9: 30~37.

   本日の第一朗読には、神に逆らう者の言葉ですが、「彼の言葉が真実かどうか見てやろう。生涯の終りに何が起こるか確かめよう。本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ」などとある言葉から察しますと、これらの言葉は、主イエスの御受難の場面をあらかじめ神から示され、それを予見しながら語られているように思われます。豊かさと便利さの中で生まれ育ち、子供の時からこの世的成功や幸せだけを目指す能力主義教育を、家庭でも学校でも受けて来た現代人の中には、自分の成功や幸せの邪魔になるものは全て排除してしまおうとする、視野の狭い利己的精神や人生観に囚われている心の人が少なくないようですが、そのような人たちは、誤った教育の犠牲者、正しい心の教育の欠如から数多く生み出された犠牲者だと思います。2千年前頃の豊かなギリシャ・ローマ文明の中で生まれ育った人々の中にも、そのような視野の狭い利己的人間、わが党主義の人間が、社会の中にはびこっていたのかも知れません。救い主は、貧しい者、弱い者、助けを必要としている者たちを社会的に抑圧し、苦しめて止まないそういう人たちの無数の罪を背負って償うためにも、天の御父神からあれ程大きな苦難を与えられ、それらによく耐えて人類救済の御業を達成なされたのだと思います。その背後には、心の教育の歪みや欠如に対する、万物の創り主であられる全知全能の神の激しい怒りと憤りの御心があるのではないでしょうか。

   「我に従え」という救い主の御言葉を受けて、主に従う信仰生活を営んでいる私たちも、視野の狭い利己的精神の蔓延している現代世界に対する神の御怒りに対する、恐れの心を失わないよう心がけましょう。神の啓示を知らない人や認めようとしない人たちの中には、別に神に従う人たちをいじめたり迫害したりしなくても、この世での現実的成功や幸せだけを基準にして、善悪・真偽を判断している人が多いと思います。神はかつてもっと大切な真理、全ての人、全ての存在は神中心に永遠に仕合わせに生きるために創られたのであることを知らせるために、預言者や神に従う人たちを強いて、そういうこの世的精神の人々の所へ派遣し、場合によっては殉教や貧困・軽蔑に喜んで耐える精神によって、世にその信仰を証しさせたように、神に従う私たちにも、今の世の人たちの前で神に従う人の心の力を証しさせようとなさる、苦しい試練の時をお遣わしになるかも知れません。覚悟していましょう。

   科学技術の発達によって、現代人は昔の人たちとは比較にならない程外的には豊かで便利な生活を営んでいますが、その豊かさ故に互いに苦楽を分け合って逞しく生きていた昔の人たちの共同体精神は崩れてしまい、内的には極度に孤独な生活をなしている人が少なくないようです。しかも、理知的個人主義教育のためか、宗教団体などの組織に組み入れられ束縛されることは嫌い、その閉ざされた孤独の中に立て篭もっているのではないでしょうか。そこには悪霊たちも、彼らを絶望に追い込もうと働いているかも知れません。経済的危機や就職難などもからんで、近年増加の一途をたどっているそのような人たちの心が、少しでも早く福音の光や神の愛の喜びに目覚める恵みを祈り求めましょう。

   神の啓示に基づいて考えますと、私たちの人生は死によって終わるものではなく、この世は仮の世で、私たちの本当の人生はあの世にあり、人間は本来あの世で永遠に生きるため、神の愛の内に生かされ、神のように自由で仕合せな神の子となって、神によって創られた全てのものを主キリストにおいて統治するために創られているようです。原罪によって誤謬と死の闇が支配するようになったこの苦しみの世に呻吟しながらでも、人間には、その闇と苦しみに鍛えられつつ、神の子の心を目覚めさせて鍛え上げ、あの世の本当の人生に備える恵みが与えられています。あの世中心のこのような人生観・価値観を、私たちの生き方を通して今の世の人々に証しするよう努めましょう。

   第二朗読の中でヤコブは、「得られないのは願い求めないからで、願い求めても与えられないのは、間違った動機で願い求めるからです」と警告していますが、ここで言う「間違った動機」というのも、あの世中心の人生観・価値観に基づいていないという意味だと思います。まず徹底的にあの世の人生中心の動機で生活する、主キリストや聖母マリアのような宗教的人間、内的に修道的人間になりましょう。そうすれば、私たちの心に蒔かれている神の御言葉の種が、神からの息吹によって次々と良い実を結ぶようになり、あの世の人生のため豊かな命を準備していることを実感するようになります。

   本日の福音には、「全ての人の後になり、全ての人に仕える者になりなさい」だの、「私の名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである」などという主のお言葉が読まれますが、これは、全ての人の救いのために神から派遣された主が、幼少の時から一生を通じて心がけておられた生き方なのではないでしょうか。私たちも、自分の仕事の足手まといでしかないと思われる無信仰の一人の子供や病人に対してさえも、その人が神から自分に派遣されている人かも知れないと思われる時には、主キリストを迎えるような温かい心でその人を受け入れ、神の奉仕的愛に生きるよう心がけましょう。「私を受け入れる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである」という主のお言葉も心に銘記し、助けを必要としているその一人の背後に臨在しておられる、天の御父に対する信仰を大切に致しましょう。神とのそのような出遭いは、私たちにとって大きな恵みの時でもありますから。

2012年9月16日日曜日

説教集B年:2009年間第24主日(三ケ日)


朗読聖書: . イザヤ 50: 5~9a.     . ヤコブ 2: 14~18.  
   . マルコ福音 8: 27~35.

   本日の第一朗読であるイザヤ書の40章から55章までは、バビロン捕囚とその直後頃の預言書で第二イザヤ書と呼ばれていますが、そこには42章、49章、50章、52章から53章と、「主の僕の歌」と言われている美しい詩文が四つ読まれます。本日の第一朗読は、そのうちの第三の歌からの引用であります。第二イザヤ書に登場するこの「神の僕」が誰であるかについては、預言者個人であろうとか、捕囚の苦しみを受けているイスラエルの民であろうなどと、旧約時代から相異なる解釈が試みられていたようですが、いずれも皆を納得させることはできずにいました。しかし、メシアの受難死が現実となってみますと、それらは全て何よりもメシアのことを預言したものとあるという解釈が、キリスト教会の内に定着しました。

   「私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、云々」と続く長い独り言は、ご受難の時の救い主イエスのご心情についての預言であると思います。感謝の心で主のお言葉に耳を傾けると共に、本日の朗読箇所に二度登場する「主なる神が助けて下さる」というお言葉も、心に銘記しましょう。私たちはそのような耐え難い苦難に直面すると、自分の弱さや自分の力の限界にだけ目を向け、もうダメだと思い勝ちですが、主イエスはそのような絶望的苦難の時にこそ、何よりも全能の父なる神の現存と助けに心の眼を向け、「私の正しさを認めて下さる方は近くにいます」と心に言い聞かせて、天の父なる神のその時その時の助けに支えられつつ、受ける苦しみを一つ一つ耐え忍んでおられたのではないでしょうか。主は本日の福音の中でもペトロを「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく叱責しておられます。何よりもまず、神の御旨をたずね求めてそれに従おうと努める、このような信仰心のある所に神の力が働いて、人間の力では不可能なことも可能にしてくれます。いつの日か私たちも死の苦しみを迎える時、主のこの御模範に倣い、主と一致してその苦しみを多くの人の救いのために献げるように致しましょう。

   本日の第二朗読であるヤコブ書は、様々の具体例をあげて神に対する信仰と愛に基づく行いの重要性を教えていますが、本日の箇所に読まれる、「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」という言葉は大切だと思います。ただ聖書を研究するだけ、あるいは聖堂で祈るだけのファリサイ的な頭の信仰に留まっていてはなりません。それは、神から戴いた言葉の種や神の愛の火を、心の奥に蓋をしてしまいこんで置くようなもので、やがてその命も火も消えてしまいます。神よりの命は、実生活に生かしてこそ心に根を張り、成長して実を結ぶのであり、愛の火も、日々小刻みに実践を積み重ねることによって、次第に輝き始めるのだと思います。その実りや灯りの輝きを期待しつつ、隠れた所からそっと私たちを見ておられる神の現存に対する信仰の内に決心を新たにして、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2012年9月14日金曜日

説教集B年:2009年9月14日十字架称賛の祝日(泰阜のカルメル修道院で)



1主イエスがかけられた聖なる十字架は、4世紀前半にキリスト教に完全な自由を与え、積極的に援助してくれたコンスタンティヌス大帝の母聖ヘレナ皇太后が、330年頃にエルサレムやベトレヘムなどの、救い主と関係ある地所や聖遺物を細かく調査した時に、秘蔵されていて発見された三つの十字架の一つに盲人を触れさせたら、奇跡的に癒された出来事から主の十字架として崇められるようになり、この聖十字架の発見は5月3日に祝われています。

2この時発見された長い聖十字架の一番下の部分1m程の木は切り離されてローマに運ばれ、コンスタンティヌス大帝がラテラノ大聖堂の正門から西北の方へ700m程離れた所に、「エルサレムの聖十字架聖堂」を建立して、そこに安置しました。皇帝はローマにラテラノ聖堂をはじめ、聖ペトロ聖堂、聖パウロ聖堂など七つの古い聖堂を建立しましたが、この聖十字架聖堂を建てるためには、エルサレムの西北にあった小さなカルワリオの山を崩して、その岩や土砂を当時の戦車5百台に積み、何回にも渡ってカイザリア港に運ばせて、そこから船でローマに運び、その土を地盤にして聖十字架聖堂を建設させたと伝えられています。ですから、エルサレムにはもうカルワリオ山はなく、ただその近くにあって主が葬られた墓所に聖墳墓聖堂が建っているだけです。一方、今日ではローマの聖十字架聖堂の香部屋の横から聖堂裏の方へ、緩やかなスロープを登りながら十字架の道の祈りができるように、十字架の道行の祈りの各留が設けられており、一番高い所からは左にラテラノ大聖堂、右にサンタ・マリア・マジョーレの大聖堂が眺められます。......

3他方、エルサレムでは5世紀から、復活聖堂の献堂を記念する913日の翌日に聖十字架を崇敬する行事が行われていたそうです。ところがササン朝ペルシャ帝国のコスロアス王が614年にエルサレムを急襲し、総大主教ザカリアを捕虜として引き上げる時、エルサレム教会の無二の宝物であった聖十字架をも分捕り品として持ち去りました。そこで東ローマ皇帝ヘラクリオスは、強力になったペルシア軍を相手に15年間も戦い続け、遂に勝利して講和の条件の一つに、奪われた聖十字架の返還も要求しました。伝えによると、こうして返還された聖十字架を元の場所に安置する時、敬虔な皇帝ヘラクリオス自身がその十字架を担って運び込もうとしら、いくら渾身の力を込めても一歩も歩くことができず、そのうちに身動きもできなくなりました。この思いがけない有様に、周囲の人達は驚き呆れるばかりでしたが、その時総大主教ザカリアが御前に進み出て、「昔主キリストはこの十字架を、兵卒の古い粗末な衣服と茨の冠で担われたのですが、陛下が立派な御衣と黄金の冠で担われるのは、主の思し召しに適わぬからではないでしょうか」と申し上げたそうです。信心深い皇帝はそれを聞いて粗末な衣服に着換えてみたら、今度は難なくその十字架を運ぶことができたそうです。東方教会ではこの出来事を記念するために、この7世紀から十字架称賛の祝日が導入され、それが間もなく同じ7世紀に西方教会でも祝われるようになったと聞いています。

5ところが、東ローマ帝国に敗れたササン朝ペルシア帝国が急速に衰退し、642
 年にイスラム軍に敗れ、651年に滅亡すると、イスラム軍が聖地エルサレム辺りを侵略するようになったので、キリストの聖十字架はコンスタンチノープルら移されました。しかし、1202年から04年にかけての第四回十字軍遠征の時、ヴェネツィア商人たちに唆された十字軍はローマ教皇の意図に反してコンスタンチノープルを占領して、そこに保管されていた数多くの聖人たちの遺骨や聖遺物と共に、主の聖十字架をも奪ってしまいました。商人たちはそれらを高価に売りさばくことによって大儲けをすることを夢見たのかも知れません。時の教皇インノチェンツィウス3世はこの背反事件を厳しく非難しましたが、聖十字架はこの後分解され細分されて世界各地に分散されるに至りました。しかし、教皇庁は詐欺や偽物を可能な限り排除するため、教会の権威者たちが慎重に精査して、各破片が聖十字架よりのものであることを立証し、証明を添付するようにしました。

4カルメル会の十字架の聖ヨハネも、御受難会の創立者十字架の聖パウロも、主が日々自分に与えて下さる小さな苦しみや思わぬ失敗・苦難・不安・誤解などを、主と一致して快く受け止め耐え忍ぶことにより、多くの恵みをこの地上にもたらすことを、数多くの体験に基づいて述懐しています。私たちも......。

2012年9月9日日曜日

説教集B年:2009年間第23主日(三ケ日)


朗読聖書: . イザヤ 35: 4~7a.     . ヤコブ 2: 1~5.  
   . マルコ福音 7: 31~37.

   本日の第一朗読には、「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる」という預言者の言葉が読まれますが、心の教育が大きく乱れて立ち遅れているため、現代世界にはかつてなかった程の規模で犯罪が多発したり、それが国際的に普及したりしているようです。昔の保守的ドイツ人宣教師たちの感化を受けて育った私は、これ程多くの異常な犯罪多発の背後には、無数の悪魔が策動しているのではないかと考えています。恐ろしい犯罪や各種の悲惨なテロ事件は、これからも多発し続けるかも知れません。現代世界の長引く内的地震に揉まれて、これまでの社会の安定していた地盤が液状化現象を起こし、神を無視する社会の地盤に潜んでいたものが続々と表に現れて来るからです。それに地球温暖化が進むと、今の私たちには想像できない程の深刻な災害が、多くの人を絶望的状態に追い込む事態も生ずるかも知れません。

   前述した、預言者を介して語られた神のお言葉を心に銘記し、どんな事態をも恐れずに、雄々しく生き抜く心を堅めていましょう。この世の社会や生活が不安で危険になればなる程ますます真剣に神に縋り、神に信頼と希望をもって祈るよう努めましょう。社会を内的に堕落させるような恐ろしい嵐に抵抗することは誰にとっても嫌ですが、嫌がって逃げ腰になっていると悪の勢力につけ込む隙を与えます。神の力に頼って雄々しく立ち向かおうとすると、私たち各人の心の奥底に与えられている本当の勇気が、目覚めて働き出します。神はそのような勇気と信仰と希望を堅持している人たちをご覧になると、その人たちを介して、力強く働いて下さいます。神の御言葉に対する信仰を堅持して、力強く生き抜きましょう。

   本日の第二朗読はヤコブ書からの引用ですが、ヤコブ書の122節には「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけの人になってはなりません」という言葉があり、これがヤコブ書全体のテーマになっている、と言うことができます。本日の朗読箇所も一つの具体例をあげて、人をその外的服装などから差別扱いをしないよう、厳しく警告しています。神が私たちから求めておられるのは、福音の御言葉を受け入れて心に保つだけではなく、その御言葉に従って生きる実践であります。種蒔きの譬え話から明らかなように、主の御言葉は種であります。その種が心の畑に根を張って、豊かな実を結ぶようにする実践が何よりも大切だと思います。しかし、ここで気をつけたいことがあります。それは、私たちが主導権を取り自分の考えや望みに従って、その種に実を結ばせようとしてはならない、ということです。使徒パウロはコリント前書3章に、「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さったのは神です」と書いています。神がなさる救いの御業に仕える姿勢を堅持しながら、人々の心の中での神の働き、神の命の御言葉の成長に下から奉仕し、温かい心でその豊かな実りを祈り求める実践に励みましょう。

2012年9月2日日曜日

説教集B年:2009年間第22主日(三ケ日)


朗読聖書: . 申命記 4: 1~2, 6~8.    . ヤコブ 1: 17~18, 21b~22, 27.  
   . マルコ福音 7: 1~8, 14~15, 21~23.

   本日の第一朗読には、モーセが神の民に「イスラエルよ、今私が教える掟と法を忠実に行いなさい。云々」という言葉に始まる話の後半に、「そうすれば、諸国の民にあなた方の知恵と良識が示され、彼らは、(中略)この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民であると言うであろう。いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか」と話しています。人間は神から優れた理解力、自分で考え出す能力を与えられていますが、その心は原罪によって神から離れ、神のように自分中心に生きようとする強い傾きを奥底に宿しているために、神の御旨に反する望みを抱いたり、考えの違う人たちとの対立や争い事に生きたりもします。無数の人たちの知恵や歴史的体験が山ほど蓄積されて来ている現代世界においても、有り余る情報や知識の流れの中で、自分中心の不賢明な行為や生き方をしている人たちが少なくありません。宇宙万物の創造主であられる神の御旨に、感謝をもって従おうとしないからだと思います。何よりも神の御旨に従おう、神の掟を守ろうとする人の中で神が働いて下さり、神の力に生かされて知恵と良識に富む人間に成長することを、モーセは長年の人生体験から確信していたのではないでしょうか。

   モーセがその話の中で、「あなたたちは私が命じる言葉に、何一つ加えることも減らすこともしてはならない。私が命じる通りにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい」と命じていることは、注目に値します。神はモーセを通して、神の言葉に対する徹底的従順を求めておられるのではないでしょうか。神のために何か善業をしようという心で、何かの事業を企画したり、人々にもしきりに寄付を呼びかけたりしている人を見ることがありますが、その熱心には敬意を表しても、それが果たして神の御旨なのかどうかについては、少し距離を置いて慎重に吟味してみる必要があります。いくら善意からであっても、神の掟や神の言葉に、人間のこの世的考えや望みから何かを加えることは、神のお望みに反することになり兼ねないからです。まずは天の御父の御旨のみをたずね求め、それに従っておられた主イエスの模範や、多くの聖人たちの模範に倣って、祈りの内に神の霊の働きに対する心の感覚を磨き深めることに努めましょう。そうすれば、個々の具体的な事柄について、神の霊が私たちの判断を照らし導いて下さいます。時にはすぐに判断できず、長く待たされることがあるとしても。

   使徒ヤコブは本日の第二朗読に、「心に植え付けられた(神の)御言葉は、あなた方の魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。聞くだけで終わる者になってはなりません」と勧めていますが、この言葉も大切だと思います。神から戴いた御言葉を頭で理解するだけの信仰、いわば頭の信仰に留まっていてはなりません。日常茶飯事の中のごく平凡な人間的行為や小さな奉仕などを、温かい親心をもって隠れた所から私たちを見ておられる天の御父に心の眼を向けながら、為してみましょう。天の御父は、神現存の信仰の内になす、そのような小さな事を特別の関心を持ってちゃんと見ておられるように思います。私は数多くの小さな体験から、そのように信じています。主イエスも一度天の御父について、「あなた方の髪の毛までも一本残らず数えられている」(マタイ10:30)と話されましたが、全能の神は実際にそれ程行き届いた御心で私たち人間の生活に伴っておられるのではないでしょうか。欠点多い私たちは、時々小さな失敗や小さな不安に心を腐らすこともありますが、その時すぐに愛する神に心を向け、その失敗や不安をお献げ致しましょう。それは、神が特別にお喜びになる祈りだと思います。神がその小さな失敗や不安を道具にして、不思議に良い結果が生ずるよう働いて下さるのを体験しますから。

   主イエスは山上の説教の中で、「まず、神の国とその御旨を行う生活を求めなさい。そうすれば、これらのものも皆加えてあなた方に与えられるであろう。だから、明日のことを思い煩ってはならない」と話されましたが、ここに言われている「神の国」は、どこか遠くにある神の王国のようなものを意味しているのではなく、私たちの心の中での神の支配、神の働きを意味していると思います。ギリシャ語のバジレイアという言葉には、「国」という意味と「支配」という意味の両方がありますから。自分の奥底の心を自分が支配するのではなく、神が支配して下さるよう実践的に願い求めましょう。そうすれば神は私たちのこの欠点多い心を道具として使って下さり、必要なものは何でも次々と与えて下さるのを体験するようになります。幼子のように素直な心で主の御言葉を信じ、その信仰を日々実践的に表明するよう心がけましょう。