2014年10月26日日曜日

説教集A2011年:第30主日(三ケ日)

第1朗読 出エジプト記 22章20~26節
第2朗読 テサロニケの信徒への手紙一 1章5c~10節
福音朗読 マタイによる福音書 22章34~40節


   出エジプト記20章では、モーセがシナイ山で神から授かった十戒についての話がありますが、それに続いて23章の終りまでは、その十戒に従って生活する場合に心掛けるべき事柄が、具体的に細かく詳述されています。本日の第一朗読はその個所からの引用で、長年エジプトで外国人寄留者として虐待された体験を持つ神の民が、その奴隷状態から解放されたこれからの時代に心掛けるべき隣人愛について、神は具体的に教え諭しておられます。古代の男尊女卑の家父長社会では、父親の保護を失っている寡婦や孤児は弱い立場の人間の代表ですが、神は何よりもそういう弱い立場にある人たちの味方で、そういう人たちが苦しめられて叫ぶ時には、怒りに燃えて苛める者たちに復讐することを宣言し、警告しておられます。続いて同じく神の民の中にいる貧しい者たちを助けようとしない無慈悲な人たちに対しても、警告しておられます。彼らがその貧しさ故に苦しみ、神に叫びをあげるなら、憐れみ深い神はその叫びにも耳を傾けられますが、その神の御心に背いて貧者を苛める者は、神からの復讐を受けるであろうという警告が、その背後に読み取れます。いずれも、弱い者・貧しい者の背後にはいつも神がおられることを忘れないように、という勧めであると思われます。

   本日の第二朗読は、先週の日曜日に朗読されたテサロニケ前書冒頭の挨拶に続く話ですが、パウロはここで、テサロニケの信徒たちがユダヤ人や町の有力者たちから迫害されながらも、「聖霊による喜びをもって神の御言葉を受け入れ、私たちに倣う者、主に倣う者となり」それが、「マケドニア州とアカイア州にいる全ての信者の模範となるに至った」ことを喜んでいるようです。「主の御言葉があなたがたの所から出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至る所で伝えられているので」とも書いています。ギリシャの他の町々にいる人たち自身が、使徒たちがテサロニケでどのように迎えられたか、そしてテサロニケの信徒たちがどのようにして迫害に耐え、生ける真の神に仕えるようになったかを、他の人々に言い広めていたようです。

   ローマ帝国が支配していた時代のギリシャは、テサロニケを中心都市とするマケドニア州と、アテネやコリントを中心とするアカイア州との二つに分けられていましたが、そのどちらの州でも、迫害に耐えて信仰に生きた貴婦人たちを含むテサロニケ信徒団の模範が話題にされ、人々に語り伝えられていたのではないでしょうか。キリスト教の宣教は、福音の知識を伝えることよりも、力強く信仰に生きる実践的模範を世に示して人々の心を感動させることにより世界中に広まって来た、と申しても過言ではありません。既に古代から数多くの実例に基づいて、「殉教者の血は新しいキリスト者の種」という言葉が言い伝えられています。どんな困難や迫害に直面しても、忍耐と希望の内に信仰に生きる心の熱意を世に示すよう、日頃から心を堅めていましょう。1925年に教皇ピオ11世が10月最後の日曜日を「布教の主日」と定めて世界の宣教を大きく推進して以来、その伝統は今でも教会の中で、10月の第三日曜日に変えて受け継がれていますが、多くの信者がその日を単に「世界宣教のために献金する日」と受け止めて、各人の中の宣教熱を新たに堅め発展させようとしていないのは、少し残念だと思います。

   本日の福音では、一人の律法学者が主イエスを試そうとして、「先生、律法の中でどの掟が最も重要でしょうか」と尋ねています。打ち続く国際的平和の内に、国際貿易や商工業が盛んになって人口移動が激しくなり、社会も豊かになって若者たちの価値観も変動し始めると、過渡期のこの大きく揺れ動く社会の変化に対処してユダヤ教の伝統を守り継がせようと、聖書を研究し、その中で求められている全ての掟を厳守しようと熱心に努めたのが、民衆の宗教教育を担当していたファリサイ派の学者たちであります。しかし、人の力では聖書に記されている掟の全てを細かい所まで全部守ることはできませんし、また昔とは違う社会事情のためそれは部分的に不可能であり、必要でもありません。では今の社会事情の中でどの掟が最も重要か、どの掟を優先して遵守すべきかとなると、律法学者たちの間でもいろいろと意見が分かれていて、定説がなかったようです。そこでその律法学者はこの問題を主に提示して、主の見解を試してみようとしたようです。


   主はすぐに、聖書に記されている神に対する愛の掟と隣人に対する愛の掟との二つを、第一と第二と順序をつけて提示し、「律法全体と預言者(すなわち当時の言い方で聖書全体)は、この二つの掟に基づいている」と力強く宣言なさいました。神に対する愛と隣人愛、この二つの愛は内的に一つに結ばれています。神によってそのように結ばれているのです。ですから人間が自分の助けを必要としている隣人の事は後回しにして、神だけを深く愛そうとしても、人間が自分の考えで自由に選び取ったそのような対神愛は、聖書によっても神から厳しく禁じられ忌み嫌われています。そして神を愛そうとする全ての努力は無駄になるだけではなく、神のお怒りを招くことになります。本日の第一朗読からも明らかなように、神は私たちの助けや奉仕を必要としている弱い者、小さい者、貧しい者の背後におられて、神に対する愛をまずその人たちに対して実践的に示すことを求めておられるのですから。私のことを話して恐縮ですが、他の司祭たちに劣らず、他人からいろいろと謝礼などをもらうことの多い私は、盲人や身障者を支援する慈善事業や、自殺を考えている人を救う「いのちの電話」、国際的救援医師団やその他様々の慈善事業のために、長年それぞれ数千円位ずつ寄付していました。しかし数年前に、失職して五人の子供たちを夫婦のバイトで何とか育てなければならない貧困家庭にめぐり逢った時からは、この人たちを助けるのが神から今自分に求められている隣人愛だと確信し、「いのちの電話」ともう一つの慈善事業への寄付を除いて、他の事業へは事情を話して寄付を断り、その貧困家庭の援助に努めています。そして時には手持ちの財布に千円札が一枚もない貧しさも体験していますが、しかし、このようにして貧者と苦労を共にしつつ清貧愛に心掛けていますと、小さな事で神からの不思議な助けを体験することも以前より多くなり、人知れず喜んでいます。神は実際に私たちのつたない日常生活の全てを隠れた所から見ておられ、私たちの小さな必要や願いにも愛を持って応えようとしておられます。その慈しみ深い神の働きと結ばれ、日々それに支えられながら生活するのが、激動する巨大な過渡期の波を無事に乗り切る秘訣だと思います。

2014年10月19日日曜日

説教集A2011年:第29主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 45章1、4~6節
第2朗読 テサロニケの信徒への手紙一 1章1~5b節
福音朗読 マタイによる福音書 22章15~21節

   本日の第二朗読はテサロニケ前書の冒頭からの引用ですが、この書簡は新約聖書の中で最も早くに書かれた文書と考えられています。使徒言行録16章によりますと、使徒パウロは第二回伝道旅行の途中小アジアで夜に幻の内に現れたマケドニア人の男から、「マケドニアに渡って来て、私たちを救って下さい」という強い依頼を受け、シラスと一緒にマケドニアにあるローマの中心的植民都市フィリッピに行って数日間滞在し、かなり良い宣教成果を上げ始めました。ここでシラスとあるのは、エルサレムでの使徒会議の決議を異教から改宗した信徒たちに立証するため、エルサレム教会から特別に派遣された二人の預言者的宣教師の一人であります。しかし、フィリッピでは若い占い女の叫び声によって宣教活動が邪魔されたので、パウロがその女に取り付いていた占いの霊を主イエスの御名によって追い出したら、その占いの霊によって利益を挙げていたその女奴隷の主人から役人に訴えられ、パウロもシラスも投獄されました。でも、大地震によってその牢獄の土台や扉が異常な状態になった事件を機に二人は釈放され、役人からフィリッピを去るように願われたので、そこから西に二百数十キロ離れているテサロニケの町に移ったのでした。

   このテサロニケは、ローマから海を越えてギリシャやオリエント諸国に行く軍用・商工業用の国道「エグナティヤ街道」に面していて、当時のマケドニアで最も重要な港町でした。古くはテルマ(温泉)と呼ばれていたそうですが、マケドニア王国が大きく発展すると、前315年頃からアレクサンドロス大王の妹の名をとつて、テサロニケと呼ばれる国際的港町に発展し始めたのだそうです。アウグストゥスとアントニウスの連合軍がブルートゥスとカシウスの連合軍と戦った時、この港町は前者の連合軍に忠節を尽くしたので、その功によりローマ総督の支配下に置かれていない自由都市とされたので、市の内政に関しては自治権をもっていました。それで、使徒言行録の17章にも述べられているように、長年この港町に住んで市の有力者たちを味方にしていたユダヤ人たちが、新しくこの町に来て福音を宣べ、少なからぬ貴婦人を含む大勢のギリシャ人をキリスト者にした使徒パウロたちに強く反対した時、市の当局者たちはユダヤ人の言い分に従ったので、パウロたちはアテネの方へ移らなければなりませんでした。その後、パウロの弟子で同行者であったテモテが、テサロニケの教会を再び訪れ、その信徒団が「信仰によって働き」「希望をもって忍耐している」喜ばしい様子をパウロに知らせたので、本日の第二朗読に引用されているこの書簡を認めたのです。

   パウロはそこで、テサロニケの信徒たちがキリスト教信仰を受け入れ、その信仰を堅持していることを神に感謝した後、「私たちの福音があなた方に伝えられたのは、言葉だけによらずに、力と聖霊と強い確信によったからです」と書いています。この最後の言葉は、現代においても大切だと思います。神の子イエスの福音宣教は、何よりも各人の奥底の心を目覚めさせ、それまでの人間中心の生き方を根本的に悔い改めさせて、心から神中心に生きようと決心させ生活させる、信仰生活へと導くことでした。単に言葉だけで宣教したのでは、教えは相手の頭に正しく理解されたとしても、その奥底の心を目覚めさせ、それまでの生き方を変えさせる所にまで導くことはできないと思われます。宣教する人の奥底の心が力と強い確信に満たされて語ってこそ、言葉が多少不完全であっても、相手の奥底の心に訴えて、その心を信仰へと導くのではないでしょうか。奥底の心が目覚めれば、そこに神の霊が働き始めます。悩む人、新しい道を模索している人の多い現代社会においても、そのような宣教活動が盛んになって、一人でも多くの人が生き生きとしたキリスト教信仰に生かされるよう祈りましょう。


   本日の福音の最後に読まれる「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という主イエスの御言葉も、深い意味を秘めていると思います。私たちのキリスト教は、ユダヤ教のような民族宗教ではありません。私たちは、先祖から受け継いだ宗教文化をなるべくそのままに子孫に伝えて行こうとしているのではありません。「あなたたちは行って、全ての国の人を(私の)弟子にしなさい」「私は世の終わりまで、いつもあなたたちと共にいる」という主の御言葉に従って、積極的に他の宗教文化の人たちの所へ出て行き、その人たちの生き方や文化を内面から真の神中心のものに高めて行くようにと、神から求められているのです。主イエスは、この世の皇帝に対しても御心を大きく開いておられるのです。としますと、単に自分が過去から受け継いだものだけではなく、キリスト教信仰を伝えて行くべき相手国の伝統や文化をも尊重しつつ新しく学び、そこに信仰の種を根付かせるよう努める必要があります。これが、1980年代から唱道されるようになったインカルチュレーション(文化内伝道)という働きだと思います。したがって福音宣教には、神から受け継いだものへの忠実と、それを伝えるべき異文化への大きく心を開いた温かい愛の配慮という、両方の努力がバランスよくなされる必要があります。本日の福音に読まれる「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という主の御言葉は、そのことをもほのめかしているのではないでしょうか。それは簡単なようでいて、現実には意外と難しいと思います。神の霊の照らしと導きによって、現代世界への宣教活動が豊かな実を結びますよう、お祈り致しましょう。来週の主日は十月の第三日曜日で、「布教の主日」とされています。布教熱の乏しいわが国の教会に、再び終戦直後頃のように布教が盛んになるよう、聖霊の恵みを祈り求めましょう。

2014年10月12日日曜日

説教集A2011年:第28主日(三ケ日)

栄光の賛歌 信仰宣言<祈願460 叙唱578~>
 第1朗読  イザヤ書 25章6節~10節a
 答唱詩編  123(1, 3, 4)(詩編 23・2+3, 5, 6)
 第2朗読  フィリピの信徒への手紙 4章12節~14節,19節~20節
 アレルヤ唱 273(28A)(エフェソ1・17+18参照)
 福音朗読  マタイによる福音書 22章1節~14節 △22・1-10

   ご存じのように、イザヤ書の1章から39章までは、紀元前8世紀の末葉に第一イザヤ預言者が語った預言とされています。しかし、本日の第一朗読を含む24章から27章までは、「イザヤの黙示」と呼ばれていて、その百数十年後にエルサレムの滅亡とバビロン捕囚を体験し、その苦難からの解放を待ち望んでいる神の民への神の言葉であるようです。しかしそれだけではなく、更に遠い将来に神が死を永久に滅ぼす世の終りのことについても、神は啓示しておられるようです。本日の第一朗読には、前半に「主はこの山で、全ての民の顔を包んでいた布と、全ての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼして下さる。主なる神は、全ての顔から涙をぬぐい、ご自分の民の恥を地上からぬぐい去って下さる」という言葉が読まれますが、これは世の終わりに救われる人類についての預言であると思われます。「その日に人は言う。見よ、この方こそ私たちの神。私たちは待ち望んでいた。この方が、私たちを救って下さる。この方こそ私たちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び踊ろう。云々」の話も、世の終わりに救い出された人たちの口にする言葉なのではないでしょうか。主はこの「イザヤの黙示」の中で、実に遠い将来の出来事を啓示しておられるのだと思われます。

   本日の第二朗読は、フィリッピの信徒団に宛てた書簡の最後の章からの引用ですが、使徒パウロはここで、ローマで囚われの身となっている自分に対するフィリッピの信徒たちの各種の援助に感謝しています。そして「私の神は」「キリスト・イエスによって、あなた方に必要なものを全て満たして下さいます」という、フィリッピの信徒たちに対する神からの報いについて表明しています。囚われの身である使徒自身は受けたご恩に何もお返しできなくても、自分の命をかけてお仕えしている神が、彼らのその親切に豊かに報いて下さるというこの信仰は、使徒のそれまでの数々の体験に基づく確信であると思いますが、現代の私たちにとっても大切だと思います。私たちも、知人の信徒や地元の人たちから日々多くのものを頂戴しており、その親切や奉仕に十分にお報いできずにいることが多いと思います。しかし、使徒パウロのように神に信仰と希望の眼を向け、神がそれらの親切や奉仕に豊かにお報い下さるよう日々感謝の心で祈りましょう。そうすればやがてパウロのように、「神があなた方に必要なものを全て満たして下さいます」と、体験に基づく確信をもって、その人たちに申し上げることもできるようになることでしょう。私たちの信じている神は、その福音のために全てを捧げている人に対して為された親切には、ご自身で十分にお報い下さる神ですから。

   しかし、そうなるには、祈りだけではなく実践が必要だと思います。私は、単に恩人・知人のために祈るだけではなく、日々の小さな不自由、小さな貧しさと苦しみ、水や電気などの小さな節約などを、難民や孤独な老人・病人たちの苦しみを緩和してもらうために、密かに神にお献げしています。それはあどけない小さな子供がなしているような献げで、外的金銭的には何の価値もない奉仕ですが、神は幼子のような心のそのような小さな清貧愛を殊の外お喜び下さり、その心の祈りや願いを聞き入れて下さるということを、数多く体験しています。これは、全てを合理的に考える今の世の知者や賢者には神によって隠されている、人生の秘訣だと思います。幼子の心で清貧愛に励みましょう。アシジの聖フランシスコだけではなく、他の多くの聖人たちも、人目に隠れた小さな個人的清貧・節約が神の関心を引き、神から豊かな恵みを呼び下す道であることを体験しています。私たちも、あまり代り映えのない今の世の平凡な人生に、密かな心の喜びを齎すこの秘訣を大切に致しましょう。
   本日の福音は、主がユダヤ人の祭司長や民の長老たちに語られた譬え話ですが、神からの度重なる新しい招きや呼びかけを無視し、拒み続けていたその人たちの町が軍隊によって滅ぼされ焼き払われるというような悲劇は、エルサレム滅亡の時点だけではなく、ある意味ではこの世の終わりの時にも実際に、しかも大規模に発生すると思われます。私たちの奥底の心への神からの招きは、はっきりとした外的表現をとってなされると考えてはなりません。隠れた所におられて隠れた所を見ておられる神は、日常茶飯事の小さな出来事や小さな出会いの形で、そっと私たち各人の奥底の心に呼びかけておられるのですから。この世の生活の外的幸せや外的損得にばかり目を向けていますと、奥底の心に対する神からのその密かな招きを無視してしまいます。気をつけましょう。極度の豊かさと便利さ、並びに情報のネットワークを世界中に行き渡らせた現代文明の世界は、最近政治的にも経済的にも大きく揺れ動いているように見えます。内部崩壊の危険性もゆっくりと高まって来ているように思われます。人類を取り巻き支えている大自然界にも、大きな過渡期に起こり勝ちな不気味な動きが多発しているようですが、聖書に予告されている世の終りが近づいている兆しなのではないでしょうか。これまで以上に神よりの呼びかけにすぐに聴き従うよう、心の耳を澄ましていましょう。
   主の譬え話の後半には、招かれた来客には無料で提供される婚礼の礼服を、着用せずに婚宴の席、すなわち神の国に入って来た無礼者に対する、神の厳しい断罪が語られています。この礼服は何を指しているのでしょうか。私はそれを、先ほど話した幼子のような心の小さな清貧愛、貧しい人・苦しむ人たちの労苦を和らげるために献げられる小さな博愛の実践と考えています。それは神から与えられる奉仕的博愛の実践という礼服だと思いますが、いかがなものでしょうか。数多くの聖人たちの体験談や述懐などを読んでみますと、そこにはこのような小さな清貧愛や小さな事に対する忠実さが語られています。皆様の修道会の保護者聖ベルナルドも、修道者の清貧愛を積極的に推進した修道院長でした。私たちも、その実践的博愛の精神を、現代の豊かさの中で堅持し証しするよう心がけましょう。

2014年10月5日日曜日

説教集A2011年:第27主日(三ケ日)

栄光の賛歌 信仰宣言<祈願458 叙唱578~>
 第1朗読  イザヤ書 5章1節~7節
 答唱詩編  80(4, 5, 6)(詩編 80・9+10, 15+16, 18+19)
 第2朗読  フィリピの信徒への手紙 4章6節~9節
 アレルヤ唱 270(27A)(ヨハネ15・16参照)
 福音朗読  マタイによる福音書 21章33節~43節

   本日の第一朗読は、バビロン捕囚前の頃に、神の民イスラエルのバール神崇敬で大きく乱れた信仰生活を嘆かれる主のお言葉を、イザヤ預言者が語ったものであります。神はその中で、神の民をぶどう園に譬えています。神は肥沃な丘にそのぶどう園を設け、よく耕して石を除き、良い葡萄の種を植えたのだそうです。そしてぶどう園の真ん中に見張りの塔を建て、酒舟を掘り、良い葡萄の実るのを待っておられたのですが、実ったのは酸っぱい葡萄であった、といたく嘆いておられます。当時の神の民が、その後も預言者たちの声に聞き従おうとせずに神の罰を受け、バビロン捕囚という恐ろしい試練を体験させられたのは当然だと思います。神の御旨やお望み中心の立場に立って、奉仕的愛の実践に尽力しようとせずに、神を信じてはいてもいつもこの世の自分たちの生活の豊かさを第一にする考えや生き方を続け、神の期待しておられる良い実を結ばない者たちに対しては、神は時としてそれ程厳しく愛の躾けをなさる、恐ろしいお方だと思います。

   ところで、私たちの所属している現代日本の教会も、まだ神の期待しておられる程の良い実を結べずにいるのではないでしょうか。第二ヴァチカン公会議は「教会は本質的に宣教者である」と述べて、神からキリストの教会に呼び集められ洗礼や堅信の秘跡を受けたキリスト者は皆、宣教者として働く使命も恵みも頂いていることを強調したのですが、自由主義・個人主義が蔓延している日本社会のカトリック者たちの多くは、教会には来ていても積極的宣教活動は諦め、自分個人の生活にだけ眼を向けているのではないでしょうか。20世紀の後半に韓国教会が大きく発展したのには、軍事力強化に努める北朝鮮の恐怖に対抗して、国民が相互に堅く団結する必要性や神の御保護を祈り求める必要性などに迫られていた、という社会的事情もあったでしょうが、同時に信徒たちが自発的に祈りと宣教の小グループ集団を組織して、互に協力し合いながら、神が自分たちに恵まれた信仰を一人でも多くの人に伝えようと努めていたからだと思います。

   キリシタン時代の日本の教会も、同様に信徒たちの若々しい自発的宣教意欲によって、目覚ましい発展を遂げていました。それまでの社会秩序が崩壊し、各地で下剋上の内戦が頻発していた戦国時代の最中で、農民も商工民もその時その時の支配者たちに搾取されることが多く、一般に不安で貧しい生活を営んでいましたが、キリスト教信仰の恵みに浴した信徒たちは、あの世での仕合わせという希望に力づけられてよくその苦難に耐え、相互に助け合ってその信仰を他の人たちにも伝えようと励んでいました。宣教活動に実績をあげた人たちがその地の異教徒の支配者から命を狙われたこともありましたが、しかし、日々神からの特別の愛や神の働きを体験し実感していた信徒たちは、あの世での仕合わせを堅く信じつつ立派に殉教の栄冠を勝ち取り、その若さと熱意に溢れた信仰精神の模範によって、他の多くの人たちの信仰に希望と励ましの火を点じていました。神が信仰の恵みを受けた私たちから求めておられるのはこのような信仰の熱意であり、それが神に納入すべき信仰生活の実りであると思います。現代日本の教会もこのような魅力ある教会になるよう、神の照らしと助けの恵みを祈り求めましょう。

   各個人の生活を可能な限り豊かにまた便利にする現代技術文明が、近年中国や東南アジア諸国やインドに急速に普及し始めると、日本の大都市にあるような、いやそれを凌ぐもっと大きくもっと便利な高層建築が、各国の諸都市に次々と出現し、能力主義・自由主義・個人主義の風潮が、今やアジア諸国に驚くほど急速に普及しつつあるそうですが、それに伴って貧富の格差が広がり、伝統的社会道徳や精神的民族文化も急速に衰えつつあるようです。豊かさ・便利さを売り物にして世界的に普及しつつある現代技術文明は、人類をどこに導こうとしているのでしょうか。神はその動向を危険視し、今の人類がこの世の富や自分中心主義に警戒して、何よりも主キリストの命に養われ、主と一致して神中心に生きるよう、新たに強く呼びかけておられるように思いますが、いかがなものでしょうか。神からの声なき声の呼びかけに、心の耳を傾けましょう。

   本日の第二朗読は、使徒パウロがフィリッピの信徒団に宛てた書簡の最後の章からの引用であります。使徒はその中で、神への信仰と委ねに生きる人たちの内におられる神に、心の思いを打ち明けることを勧めています。目前の出来事だけに眼を向け、人間の自力でそれに対応しようとしていると思い煩いが多くなりますが、本日の第二朗読にありますように、何事もまず神に打ち明け、神に感謝と願いを捧げていますと、あらゆる人知を超える神の平和が、私たちの心と考えを導き護って下さいます。これは、使徒パウロが数多くの体験から確信した生活の知恵であると思います。激動する現代社会が産み出して止まない様々な不安の中で、私たちもこの勧めに従って生きるよう心がけましょう。
   本日の福音は、主イエスが祭司長や民の長老たちに語られた譬え話と、それに続く警告ですが、当時の祭司長や長老たちは、何事もこの世の生活の安泰を判断基準にして考え、生活していたように思われます。それで主は、彼らが神のぶどう園である神の民が神に納めるべき収穫を納めず、それを受け取るために神から派遣された僕たちを殺し、神の御子をもぶどう園の外にほうり出して殺してしまった、という譬え話を彼らに語って、収穫を納めない彼らから神のそのぶどう園が取り上げられ、「季節ごとに収穫を納める他の農夫たちに」与えられるという形でその話をまとめ、彼らに、「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」と警告しておられます。現代の教会も、もし神の求めておられる信仰生活の実を結ばないなら、やがて神からその心の奥に眠って新しい実を結ぼうとしない信仰を取り除かれる時が来るのではないでしょうか。主はこの福音を通して私たちにも、神に対する畏れの心で神の御旨と導きに心の眼を向けるよう、警告しておられるように思います。