2014年10月26日日曜日

説教集A2011年:第30主日(三ケ日)

第1朗読 出エジプト記 22章20~26節
第2朗読 テサロニケの信徒への手紙一 1章5c~10節
福音朗読 マタイによる福音書 22章34~40節


   出エジプト記20章では、モーセがシナイ山で神から授かった十戒についての話がありますが、それに続いて23章の終りまでは、その十戒に従って生活する場合に心掛けるべき事柄が、具体的に細かく詳述されています。本日の第一朗読はその個所からの引用で、長年エジプトで外国人寄留者として虐待された体験を持つ神の民が、その奴隷状態から解放されたこれからの時代に心掛けるべき隣人愛について、神は具体的に教え諭しておられます。古代の男尊女卑の家父長社会では、父親の保護を失っている寡婦や孤児は弱い立場の人間の代表ですが、神は何よりもそういう弱い立場にある人たちの味方で、そういう人たちが苦しめられて叫ぶ時には、怒りに燃えて苛める者たちに復讐することを宣言し、警告しておられます。続いて同じく神の民の中にいる貧しい者たちを助けようとしない無慈悲な人たちに対しても、警告しておられます。彼らがその貧しさ故に苦しみ、神に叫びをあげるなら、憐れみ深い神はその叫びにも耳を傾けられますが、その神の御心に背いて貧者を苛める者は、神からの復讐を受けるであろうという警告が、その背後に読み取れます。いずれも、弱い者・貧しい者の背後にはいつも神がおられることを忘れないように、という勧めであると思われます。

   本日の第二朗読は、先週の日曜日に朗読されたテサロニケ前書冒頭の挨拶に続く話ですが、パウロはここで、テサロニケの信徒たちがユダヤ人や町の有力者たちから迫害されながらも、「聖霊による喜びをもって神の御言葉を受け入れ、私たちに倣う者、主に倣う者となり」それが、「マケドニア州とアカイア州にいる全ての信者の模範となるに至った」ことを喜んでいるようです。「主の御言葉があなたがたの所から出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至る所で伝えられているので」とも書いています。ギリシャの他の町々にいる人たち自身が、使徒たちがテサロニケでどのように迎えられたか、そしてテサロニケの信徒たちがどのようにして迫害に耐え、生ける真の神に仕えるようになったかを、他の人々に言い広めていたようです。

   ローマ帝国が支配していた時代のギリシャは、テサロニケを中心都市とするマケドニア州と、アテネやコリントを中心とするアカイア州との二つに分けられていましたが、そのどちらの州でも、迫害に耐えて信仰に生きた貴婦人たちを含むテサロニケ信徒団の模範が話題にされ、人々に語り伝えられていたのではないでしょうか。キリスト教の宣教は、福音の知識を伝えることよりも、力強く信仰に生きる実践的模範を世に示して人々の心を感動させることにより世界中に広まって来た、と申しても過言ではありません。既に古代から数多くの実例に基づいて、「殉教者の血は新しいキリスト者の種」という言葉が言い伝えられています。どんな困難や迫害に直面しても、忍耐と希望の内に信仰に生きる心の熱意を世に示すよう、日頃から心を堅めていましょう。1925年に教皇ピオ11世が10月最後の日曜日を「布教の主日」と定めて世界の宣教を大きく推進して以来、その伝統は今でも教会の中で、10月の第三日曜日に変えて受け継がれていますが、多くの信者がその日を単に「世界宣教のために献金する日」と受け止めて、各人の中の宣教熱を新たに堅め発展させようとしていないのは、少し残念だと思います。

   本日の福音では、一人の律法学者が主イエスを試そうとして、「先生、律法の中でどの掟が最も重要でしょうか」と尋ねています。打ち続く国際的平和の内に、国際貿易や商工業が盛んになって人口移動が激しくなり、社会も豊かになって若者たちの価値観も変動し始めると、過渡期のこの大きく揺れ動く社会の変化に対処してユダヤ教の伝統を守り継がせようと、聖書を研究し、その中で求められている全ての掟を厳守しようと熱心に努めたのが、民衆の宗教教育を担当していたファリサイ派の学者たちであります。しかし、人の力では聖書に記されている掟の全てを細かい所まで全部守ることはできませんし、また昔とは違う社会事情のためそれは部分的に不可能であり、必要でもありません。では今の社会事情の中でどの掟が最も重要か、どの掟を優先して遵守すべきかとなると、律法学者たちの間でもいろいろと意見が分かれていて、定説がなかったようです。そこでその律法学者はこの問題を主に提示して、主の見解を試してみようとしたようです。


   主はすぐに、聖書に記されている神に対する愛の掟と隣人に対する愛の掟との二つを、第一と第二と順序をつけて提示し、「律法全体と預言者(すなわち当時の言い方で聖書全体)は、この二つの掟に基づいている」と力強く宣言なさいました。神に対する愛と隣人愛、この二つの愛は内的に一つに結ばれています。神によってそのように結ばれているのです。ですから人間が自分の助けを必要としている隣人の事は後回しにして、神だけを深く愛そうとしても、人間が自分の考えで自由に選び取ったそのような対神愛は、聖書によっても神から厳しく禁じられ忌み嫌われています。そして神を愛そうとする全ての努力は無駄になるだけではなく、神のお怒りを招くことになります。本日の第一朗読からも明らかなように、神は私たちの助けや奉仕を必要としている弱い者、小さい者、貧しい者の背後におられて、神に対する愛をまずその人たちに対して実践的に示すことを求めておられるのですから。私のことを話して恐縮ですが、他の司祭たちに劣らず、他人からいろいろと謝礼などをもらうことの多い私は、盲人や身障者を支援する慈善事業や、自殺を考えている人を救う「いのちの電話」、国際的救援医師団やその他様々の慈善事業のために、長年それぞれ数千円位ずつ寄付していました。しかし数年前に、失職して五人の子供たちを夫婦のバイトで何とか育てなければならない貧困家庭にめぐり逢った時からは、この人たちを助けるのが神から今自分に求められている隣人愛だと確信し、「いのちの電話」ともう一つの慈善事業への寄付を除いて、他の事業へは事情を話して寄付を断り、その貧困家庭の援助に努めています。そして時には手持ちの財布に千円札が一枚もない貧しさも体験していますが、しかし、このようにして貧者と苦労を共にしつつ清貧愛に心掛けていますと、小さな事で神からの不思議な助けを体験することも以前より多くなり、人知れず喜んでいます。神は実際に私たちのつたない日常生活の全てを隠れた所から見ておられ、私たちの小さな必要や願いにも愛を持って応えようとしておられます。その慈しみ深い神の働きと結ばれ、日々それに支えられながら生活するのが、激動する巨大な過渡期の波を無事に乗り切る秘訣だと思います。

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