2014年10月19日日曜日

説教集A2011年:第29主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 45章1、4~6節
第2朗読 テサロニケの信徒への手紙一 1章1~5b節
福音朗読 マタイによる福音書 22章15~21節

   本日の第二朗読はテサロニケ前書の冒頭からの引用ですが、この書簡は新約聖書の中で最も早くに書かれた文書と考えられています。使徒言行録16章によりますと、使徒パウロは第二回伝道旅行の途中小アジアで夜に幻の内に現れたマケドニア人の男から、「マケドニアに渡って来て、私たちを救って下さい」という強い依頼を受け、シラスと一緒にマケドニアにあるローマの中心的植民都市フィリッピに行って数日間滞在し、かなり良い宣教成果を上げ始めました。ここでシラスとあるのは、エルサレムでの使徒会議の決議を異教から改宗した信徒たちに立証するため、エルサレム教会から特別に派遣された二人の預言者的宣教師の一人であります。しかし、フィリッピでは若い占い女の叫び声によって宣教活動が邪魔されたので、パウロがその女に取り付いていた占いの霊を主イエスの御名によって追い出したら、その占いの霊によって利益を挙げていたその女奴隷の主人から役人に訴えられ、パウロもシラスも投獄されました。でも、大地震によってその牢獄の土台や扉が異常な状態になった事件を機に二人は釈放され、役人からフィリッピを去るように願われたので、そこから西に二百数十キロ離れているテサロニケの町に移ったのでした。

   このテサロニケは、ローマから海を越えてギリシャやオリエント諸国に行く軍用・商工業用の国道「エグナティヤ街道」に面していて、当時のマケドニアで最も重要な港町でした。古くはテルマ(温泉)と呼ばれていたそうですが、マケドニア王国が大きく発展すると、前315年頃からアレクサンドロス大王の妹の名をとつて、テサロニケと呼ばれる国際的港町に発展し始めたのだそうです。アウグストゥスとアントニウスの連合軍がブルートゥスとカシウスの連合軍と戦った時、この港町は前者の連合軍に忠節を尽くしたので、その功によりローマ総督の支配下に置かれていない自由都市とされたので、市の内政に関しては自治権をもっていました。それで、使徒言行録の17章にも述べられているように、長年この港町に住んで市の有力者たちを味方にしていたユダヤ人たちが、新しくこの町に来て福音を宣べ、少なからぬ貴婦人を含む大勢のギリシャ人をキリスト者にした使徒パウロたちに強く反対した時、市の当局者たちはユダヤ人の言い分に従ったので、パウロたちはアテネの方へ移らなければなりませんでした。その後、パウロの弟子で同行者であったテモテが、テサロニケの教会を再び訪れ、その信徒団が「信仰によって働き」「希望をもって忍耐している」喜ばしい様子をパウロに知らせたので、本日の第二朗読に引用されているこの書簡を認めたのです。

   パウロはそこで、テサロニケの信徒たちがキリスト教信仰を受け入れ、その信仰を堅持していることを神に感謝した後、「私たちの福音があなた方に伝えられたのは、言葉だけによらずに、力と聖霊と強い確信によったからです」と書いています。この最後の言葉は、現代においても大切だと思います。神の子イエスの福音宣教は、何よりも各人の奥底の心を目覚めさせ、それまでの人間中心の生き方を根本的に悔い改めさせて、心から神中心に生きようと決心させ生活させる、信仰生活へと導くことでした。単に言葉だけで宣教したのでは、教えは相手の頭に正しく理解されたとしても、その奥底の心を目覚めさせ、それまでの生き方を変えさせる所にまで導くことはできないと思われます。宣教する人の奥底の心が力と強い確信に満たされて語ってこそ、言葉が多少不完全であっても、相手の奥底の心に訴えて、その心を信仰へと導くのではないでしょうか。奥底の心が目覚めれば、そこに神の霊が働き始めます。悩む人、新しい道を模索している人の多い現代社会においても、そのような宣教活動が盛んになって、一人でも多くの人が生き生きとしたキリスト教信仰に生かされるよう祈りましょう。


   本日の福音の最後に読まれる「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という主イエスの御言葉も、深い意味を秘めていると思います。私たちのキリスト教は、ユダヤ教のような民族宗教ではありません。私たちは、先祖から受け継いだ宗教文化をなるべくそのままに子孫に伝えて行こうとしているのではありません。「あなたたちは行って、全ての国の人を(私の)弟子にしなさい」「私は世の終わりまで、いつもあなたたちと共にいる」という主の御言葉に従って、積極的に他の宗教文化の人たちの所へ出て行き、その人たちの生き方や文化を内面から真の神中心のものに高めて行くようにと、神から求められているのです。主イエスは、この世の皇帝に対しても御心を大きく開いておられるのです。としますと、単に自分が過去から受け継いだものだけではなく、キリスト教信仰を伝えて行くべき相手国の伝統や文化をも尊重しつつ新しく学び、そこに信仰の種を根付かせるよう努める必要があります。これが、1980年代から唱道されるようになったインカルチュレーション(文化内伝道)という働きだと思います。したがって福音宣教には、神から受け継いだものへの忠実と、それを伝えるべき異文化への大きく心を開いた温かい愛の配慮という、両方の努力がバランスよくなされる必要があります。本日の福音に読まれる「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という主の御言葉は、そのことをもほのめかしているのではないでしょうか。それは簡単なようでいて、現実には意外と難しいと思います。神の霊の照らしと導きによって、現代世界への宣教活動が豊かな実を結びますよう、お祈り致しましょう。来週の主日は十月の第三日曜日で、「布教の主日」とされています。布教熱の乏しいわが国の教会に、再び終戦直後頃のように布教が盛んになるよう、聖霊の恵みを祈り求めましょう。