2010年9月26日日曜日

説教集C年: 2007年9月30日 (日)、2007年間第26主日(三ケ日)

朗読聖書 Ⅰ. アモス 6: 1a, 4~7. Ⅱ. テモテ前 6: 11~16.
     Ⅲ. ルカ福音書 16: 19~31.


① 本日の第一朗読は、紀元前8世紀の中頃に多くの貧民を犠牲にして獲得した富で、贅沢三昧に生活していた神の民、北イスラエル王国の支配者たちに対する、アモス預言者を介して語られた神の警告であります。はじめに「災いだ。シオンに安住し、サマリアの山で安逸をむさぼる者たちは」とありますから、神はシオン、すなわちエルサレムにいるユダヤの支配者たちにも、サマリアにいる北王国の支配者たちと同様に厳しい警告の言葉を発せられたのだと思います。これらの警告の20数年後の頃でしょうか、残忍さで著名なアッシリアの襲来で、サマリアの支配者たちは徹底的に滅ぼされ、この時は難を逃れたエルサレムの支配者たちも、その後に興隆したバビロニアの襲来で亡国の憂き目を見るに到りました。過度の豊かさ・便利さ・快楽などは、人間本来の健全な心の感覚を麻痺させ眠らせて、神の指導や警告などを無視させ、怠惰な人間にしてしまう危険があります。人類が未だ嘗て経験したことがない程の大きな豊かさと便利さの中で生活している現代の私たちも、健全な心のセンスを眠らせ麻痺させないよう気をつけましょう。

② 本日の第二朗読は、「神の人よ、あなたは正義、信心、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」という言葉で始まっていますが、このすぐ前の箇所には、宗教を利得の道と考える者たちに対する厳しい非難の言葉が続いていますから、この第二朗読も、金銭欲に負けないために心がけるべきこととして読むこともできます。例えば本日の朗読箇所のすぐ前の9節と10節には、「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭欲は、全ての悪の根です。云々」とあります。富と豊かさの礼賛は、心の中に悪霊を招き入れる一種の危険な偶像礼拝だと思います。豊かさの中に生活している私たちも、このことを心に銘記し警戒していましょう。

③ 本日の福音は、先週の日曜日の福音である不正な管理人の譬え話に続いて、主がファリサイ派の人々に語った譬え話ですが、当時のファリサイ派の間では次のような民話が流布していました。ほぼ同じ頃に死んだ貧しい律法学者と金持ちの取税人についての話です。貧しい律法学者は会葬者もなく寂しく葬られたが、金持ちの取税人の葬式は、町全体が仕事を休んで参列するほど盛大であった。しかし、学者の同僚が死後の二人について見た夢によると、学者は泉の水が流れる楽園にいるのに、取税人は川岸に立ちながらも、その水を飲めずに苦しんでいたという話です。察するに、主はよく知られていたこの民話を念頭に置き、そこに新しい意味を付加し、それを新しい形に展開させながら、本日の譬え話を語られたのだと思います。主は以前に、ルカ福音書6章にあるように、「貧しい人々は幸いである。神の国はあなた方のものである」、「富んでいるあなた方は不幸である。あなた方はもう慰めを受けている」と話されたことがありますが、この逆転の思想が本日の譬え話の中でも強調されています。

④ しかし、この世で貧しかった者はあの世で豊かになり、この世で豊かに楽しく生活していた者はあの世で貧困で苦しむようになるなどと、あまりにも短絡的にその逆転の思想を受け止めないよう気をつけましょう。この世で貧しく生活していても、その貧しさ故に金銭に対する執着が強くなり、恨み・妬み・万引き・盗み・浪費などでいつも心がいっぱいになっている人や、貧しい人々に対する温かい心に欠けている人もいます。他方、この世の富に豊かであっても、事細かに省エネに心がけ、無駄遣いや過度の贅沢を懸命に避けながら、努めて清貧に生活している人、生活に困っている人たちに対する応分の援助支援に惜しみなく心がけている人もいます。これらのことを総合的に考え合わせますと、本日の譬え話の主眼は、自分の楽しみ、名誉、幸せなどを最高目標にして、そのためにはこの世の物的富ばかりでなく、親も隣人も社会も神も、全てを自分中心に利用しようとする精神で生きているのか、それとも神の愛に生かされて生きること、その御旨に従うことを最高目標にして、そのためには自分の能力も持ち物も全てを惜しみなく提供しようとする精神で生きているのか、と考えさせ反省させる点にあるのではないでしょうか。

⑤ 譬え話に登場している金持ちは、門前の乞食ラザロを見ても自分にとって利用価値のない人間と見下し、時には邪魔者扱いにしていたかも知れません。それが、死んであの世に移り、そのラザロがアブラハムの側にいるのを見ると、自分の苦しみを少しでも和らげるために、また自分の兄弟たちのために、そのラザロを使者として利用しようとしました。死んでもこのような利己主義、あるいは集団的利己主義の精神に執着している限りは、神の国の喜び・仕合せに入れてもらうことはできません。自分中心の精神に死んで、ひたすら他者のために生きようとする神の奉仕的愛の精神に生かされている者だけが入れてもらえる所だからです。察するに乞食のラザロは、死を待つ以外自分では何一つできない絶望的状態に置かれていても、この世の人々の利己的精神の醜さを嫌という程見せ付けられ体験しているだけに、そういう利己主義に対する嫌悪と反発から、ひたすら神の憐れみを祈り求めつつ、自分の苦悩を世の人々のために献げていたのではないでしょうか。苦しむ以外何一つできない状態にあっても、神と人に心を開いているこの精神で日々を過ごしている人には、やがて神の憐れみによって救われ、あの世の永遠に続く仕合わせに入れてもらえるという大きな明るい希望があります。福者マザー・テレサは、そういうラザロのような人たちに神の愛を伝えようと、励んでおられたのだと思います。

⑥ 一番大切なことは、この世の人生行路を歩んでいる間に、自分の魂にまだ残っている利己的精神に打ち勝って、あの世の神の博愛精神を実践的に体得することだと思います。戦後の能力主義一辺倒の教育を受けて、心の教育や宗教教育を受ける機会に恵まれなかった現代日本人の中には、歳が進むにつれて、この世の幸せ中心の従来の能力主義的「追いつけ、追い越せ」教育に疑問を抱き、もっと大らかな心の余裕をもって、相異なる多くの人と共に開いた心で助け合って生きる、新しい道を模索している人たちも少なくないようです。二、三日前のある新聞によると、名古屋市の職員の中で「心の病」を理由にして長期間休養する例が、最近非常に多くなっているそうです。仕事をするための情報技術の能力は優れていても、その地盤をなす心がその根を大きく広げて、必要な力を供給してくれないと、現代の効率主義社会の中では心にストレスが蓄積して、耐えられなくなる人が多くなるのではないでしょうか。私たちの周辺にもいるそういう人たちのため、本当に幸せに生きるための照らしと導きを神に願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2010年9月19日日曜日

説教集C年: 2007年9月23日 (日)、2007年間第25主日(三ケ日)

朗読聖書 Ⅰ. アモス 8: 4~7. Ⅱ. テモテ前 2: 1~8.
     Ⅲ. ルカ福音書 16: 1~13.


① 本日の第二朗読の始めにある勧めは、異教徒たちに大きく心を開いていたパウロの国際的精神の証しであり、現代の私たちにとっても大切だと思います。彼は、「まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とを、全ての人のために捧げなさい。王たちや全ての行政官たちのためにも捧げなさい。私たちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、私たちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、全ての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。云々」と書いていますが、キリスト者の中には、自分たちと信仰や考えの異なる異教徒には心を閉ざし、その人たちやその人たちの社会のために祈ることを怠っている人がいるのは、残念なことだと思います。

② 今から70年、80年ほど前の昭和初期に、日本のカトリック信徒たちは、日本社会のためまた天皇陛下のために熱心に祈っていました。歴史の研究をして来た私は、その頃の信徒たちの話をたくさん聞き集めていますし、またその頃のカトリック新聞やその他の定期刊行物にも目を通していますので、このことについて証言したいと思います。70年前の7月に中国との戦争が始まると、カトリック信徒の間には「日本の聖母マリア」と題する、富士山の上に聖母子の姿を配した綺麗な絵を縮小した小さな御絵が普及して、多くの信徒は軍部に牛耳られている日本国の将来のため、特に聖母マリアの取次ぎを熱心に祈っていました。そうしましたら、日中戦争は米英諸国との太平洋戦争にまで進展し、その戦争に負けて、天皇陛下はじめ日本国民は当時の軍部の過激派から解放され、新しい平和日本への道を歩むことができるようになりました。戦時中の学徒動員で、軍需工場に働いていて終戦を迎えた私は、少し後では、あの絶望的な戦争に負けて本当に良かったと思うようになりました。

③ ところで今から50数年前、私がまだ南山大学の学生であった頃、一部の古いカトリック信徒たちの間で、この太平洋戦争は聖母マリア様の特別の執り成しによって導かれ、日本の国を新しく生まれ変わらせるための、ある意味では神からのお恵みだったのではなかろうか、などとささやかれていました。というのは、日本国にとっては、いずれも聖母マリアの大きな祝日である12月8日に始まり、8月15日に終わって、1951年の9月8日にサンフランシスコで講和条約が調印されたからでした。その後の日本社会の動きを見ても、戦後の日本は、戦前とは比較できない程の大きな自由と経済的豊かさを享受していると思います。それを思うと、数多くの犠牲を出した太平洋戦争でしたが、今の日本の繁栄はその犠牲の上に築かれた神よりの恵みであると、感謝のうちに受け止めることもできると思います。

④ 現代の人類世界は手段選ばずのテロ攻撃に脅かされていますが、これも、単に怒りと嘆きのうちに消極的に成り行きを見守るのではなく、70年前ごろの日本のカトリック信徒たちのように、今こそ聖母マリアの執り成しを願うべき時と考え、神の働きに対する信頼と希望をもって祈り続けているなら、数々の犠牲の上に神の働きによってこれまで以上の平和で自由な人類社会が新たに生まれることを、期待してよいのではないでしょうか。自分個人の救いと幸せのためばかりでなく、広く人類社会全体のため、すべての人のため、また特に政治家・指導者たちのために、聖母マリアと共に希望をもって、神の御憐れみを願い求め続けましょう。

⑤ 本日の福音は、先週の日曜日の福音であったなくした銀貨や放蕩息子の譬え話のすぐ後に続く譬え話ですが、なぜか「その時イエスは弟子たちに言われた」という導入の言葉で始まっています。しかし、先週の日曜福音の譬え話はファリサイ派の人々や律法学者たちに語られた話とされていますし、本日の福音のすぐ後の14節には、「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いてイエスをあざ笑った」とありますから、本日の福音の譬え話はファリサイ派の人々にも語られたのだと思われます。キリスト時代のユダヤ社会では、律法上では金や物品を貸してもその利息を取ることが禁じられていましたが、実際には様々なこじつけ理由で利息が取られていたと考えられています。本日の譬え話に登場する不正な管理人は、事によると日ごろから主人からの借りを返却してもらう段階で、その量をごまかして差額を着服したり、借り主に与えて友人を作ったりしていたのかも知れません。現代でも管理人任せにしてチェック体制を確立していない所では、密かに似たようなごまかしや着服が横行しているかも知れません。2千年前のオリエント世界よりも大きな過渡期に直面している今の世界でも、心の教育が不十分なための「誤魔化し人間」が少なくありませんから。主がこの話を直接ファリサイ派に向けて話されず、むしろ弟子たちに向けて話されたのは、その危険性が新約の神の民にもあることを、弟子たちによく理解させるためであったと思われます。

⑥ この譬え話の末尾に、主人が不正な管理人の抜け目ないやり方を褒めて、「この世の子らは、自分の仲間に対して光の子らよりも賢くふるまっている」と話していることは、注目に値します。私は勝手ながら、主キリストはこの「光の子ら」という言葉で、暗にその場にいたファリサイ派の人々を指しておられたのではないか、と考えます。彼らは競って律法を忠実に守ることにより、この世においてもあの世に行っても神の恵みを豊かに得ようと努めており、自分の生活を光の中で眺めていて、律法を知らず忠実に守ろうと努めていないこの世の子らを、闇の中にいる者たちとして批判し、神に呪われた罪人たちとして断罪していました。彼らは、その罪人たちに背負わせている重荷を少しでも軽くしてあげよう、助けてあげようとして指一本も貸そうとせず、罪人たちの心の穢れに感染しないよう距離を保ちながら、ただ批判し軽蔑するだけだったようです。それで、彼らから遠ざけられ軽蔑されていたこの世の子らは、年老いて今携わっている仕事や生活から離れる時のため、せめて自分の仲間たちに対しては親切と奉仕に努めて、孤立無援の状態に陥った時に助けてもらおうなどと考えていたのではないでしょうか。

⑦ 主はこの譬え話で、たとえ律法上では不正にまみれた富であっても、神から委託されているその富を人助けに積極的に使って友達を作るなら、愛の実践を何よりも評価なされる神はその実践的努力を嘉し、その人たちを永遠の住まいに迎え入れて下さると教えておられるように思います。本日の第一朗読の中で、アモス預言者は、「このことを聞け。貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける者たちよ」という呼びかけに続いて、貧しい農民に対する支配階級の搾取を列挙し、最後に、「私は、彼らが行った全てのことをいつまでも忘れない」という、神の厳しいお言葉を伝えています。神の摂理によって豊かな富に恵まれている者たちは、それだけ多く貧しい人たちへの奉仕に配慮しなければならないと存じます。

⑧ 実は私たちも、神から日々非常にたくさんのお恵みを頂戴しています。この世の命も健康も、日光も空気も水も、日々の食物も聖書の教えも洗礼も、全ては直接間接に神よりのお恵みであり、委託物であります。私たちはそれらを人助けに積極的に利用しているでしょうか。自分を光の中において眺め、この罪の世の社会やその中で苦悩している人々のためには別に何もしなくても、天国に入れてもらえる「神の子」の身分なのだなどと、慢心を起こさないよう気をつけましょう。私たちに委託されている数々の内的外的富や、神の導き・啓示などを最大限に利用しながら、この世の社会や人々のためにも、せめて祈りによって積極的に奉仕するよう励みましょう。そのように心がける人たちだけが、神に忠実に生きようとしている「神の子ら」であり、そうでない人たちは、神よりも富(マンモン) に仕えようとしているのではないでしょうか。ここで「富」というのは、物質的富だけでなく、ファリサイ派が大切にしていたこの世での自分の地位、名誉などをも指していると思います。それらを神よりも崇めている人たちは、神から一種の偶像礼拝者と見做されると思います。私たちも神の御前で謙虚に反省し、神よりの委託物をより忠実に利用するよう、決心を新たに致しましょう。

2010年9月12日日曜日

説教集C年: 2007年9月16日 (日)、2007年間第24主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 出エジプト 32: 7~11, 13~14. Ⅱ. テモテ前 1: 12~17. Ⅲ. ルカ福音書 15: 1~32.

① 本日の第一朗読の話を読んで、ふと2世紀の古代教父聖エイレナイオスの「人祖はその幼児性の故に罪に落ちた」という言葉を思い出しました。聖人の言う「幼児性(子供っぽさ)」は、心の幼児性を指しています。外的に体も理知的な頭の働きも一人前の大人であっても、内的には自分の身の回りにあるこの世のこと、今目前にあることにしか関心がなく、何事も自分中心に「今の自分にとって」という立場から価値評価してしまう、そして自分の欲求をコントロールすることのできない人が、今の時代にも少なくありません。それが、エイレナイオスの言う「幼児性」だと思います。

② 私たちは時々、生まれてから一歳半くらいまでの幼子の目の美しさや従う態度の素直さに感心することがありますが、人間は皆、心の奥底にそういう美しい素直な命を神からいただいているのではないでしょうか。それが、神が本来意図してお創りになった人間の心だと思います。しかし、人祖が神の掟に背く罪を犯した時からその心にもう一つ、何でも自分中心に評価し、自分の欲のままに利用しようとする根強い利己的毒麦の種が芽を出すようになりました。この毒麦が私たちの心の美しさや素直さを台無しにして、事ある毎に自分の心の中でも、神や人との関係においても、無意識の内に対立や争いを造り出して、私たちのこの世の人生を複雑で悩ましいものにしています。

③ 私の観察した所では、人間の心には一歳半頃から利己的幼児性の雑草がそっと芽を出し始めるようです。そこで私は30数年前から20年前頃にかけて、親族や知人の二歳、三歳ぐらいの幼児がそのような雑草の芽を露骨に現した時、その親たちの了解を得てその子の手の甲をパチンと叩いて叱り、泣かせることによりその子のもう一つの善い心の働きを目覚めさせたことが数回あります。それからその子の善い心を愛撫し励ますようにしますと、不思議なほど子供の態度は良くなります。このような幼心の教育、躾の訓練を怠り、ただ可愛がるだけ、理知的な頭の能力を伸ばしてやろうと努めているだけに努めていますと、利己主義の根強い毒麦に勝てずにいる子供の心は、心の欲求を統御する力に不足して苦しむことが多くなり、長じて自分の心の中の矛盾・対立にも苦しみ始めるようになります。そして育ての親の権威や愛に対する心の感覚が失われて、親に対しても冷たく逆らったりします。心の教育には、冬の厳しさと春の温かさとの両方が必要で、この二つがバランスよく提供される時に、心は数々の美しい花の芽を伸ばし始めるのではないでしょうか。まだ柔らかくて素直な二歳、三歳頃の心が、そういう躾を一番必要としている時だと思います。

④ 心の幼児性・心の毒麦性は現代に始まった問題ではなく、何時の時代にもあった問題であり、特に出エジプトの時代や2千年前のキリスト時代など、社会や民族の大きな過渡期には激しく表面化して多くの人を苦しめた問題でした。第一朗読からも明らかなように、神はそのような「大人の心の幼児性」に厳しいです。厳しく対処して、せめてまだ残っている健全な心を目覚めさせようとなさるのだと思います。モーセは、一方ではその神のお怒りをなだめ、他方では自分が神に代って裏切りの罪を犯した民に厳しい態度をとり、神に忠実に従わせようとしました。これが、言わば私たちの心の中での良心の働きだと思います。主イエスの「毒麦の譬え話」の中で、主人が毒麦の根を全部抜き取ることに反対したのは、毒麦と共存してその働きと絶えず戦うことによって、良い麦が一層豊かな実を結ぶようになるからではないでしょうか。

⑤ 本日の第二朗読には、若い時にファリサイ派の律法学者になり、不動の律法に対する原理主義的忠実心に駆られてキリスト者たちを迫害したことのある使徒パウロの言葉が読まれます。「私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずその私に限りない忍耐をお示しになり、私がこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」という彼の言葉から察すると、復活なされた主イエスは、現代人の心の幼児性や偏った原理主義の熱心さなどに対しても、限りない忍耐をもって、その人たちの改心を待っておられるのではないでしょうか。私たちもその主の限りない憐れみと忍耐の聖心に眼を向けつつ、あくまでも忍耐強く、心の幼児性に振り回され勝ちな現代の悩む人たちに伴い続けましょう。

⑥ 本日の福音に登場するファリサイ派の人々や律法学者たちは、この世の理知的知恵を駆使してユダヤ教内に社会的地位を築いている人たちで、自分たちの律法解釈や価値観に従おうとしない人々を罪人として軽視し抑圧していました。主はしかし、人間中心のそういう利己的律法解釈で自分を義人と思っている人々の中にこそ、神が最も忌み嫌われる「大人の幼児性」を見抜いておられたようです。そして彼らから罪人として社会的に軽蔑され抑圧されている人たちの心の中にこそ、社会的孤独の苦しみによって漸く人間本来の真心に目覚め始め、これまでの生き方を悔い改めて救いを求めようとしているもがきを洞察なされて、その人たちの所に、神による救いの恵みを届けようとなさったのだと思います。主が語られた本日の福音の譬え話は、そのような悔い改めを神がどれ程待ち望んでおられ、また喜ばれるかを示しています。福音の後半はいわゆる「放蕩息子の譬え話」ですが、時間の都合上ここでは「なくした銀貨の譬え話」についてだけ、考えてみましょう。

⑦ 当時の貧しい人々の間では価値の高いドラクメ銀貨は、現代にすれば大工さんや技術者の一日の日当に相当する程の銀貨ですが、もしもその銀貨に心があるとすれば、夜に転げ落ちて家具の後ろの暗いゴミの中にまぎれ込んでいた時は、自分がどれ程価値の高いものであるかを知らず、自分の存在に生きがいも感ぜられずに、ただ諦めて何もせずに淋しくしているだけだったでしょう。しかし、ともし火をつけて発見され、人々の手に取り上げられて大いに喜ばれた時には、どれ程嬉しかったか知りません。ゴミを吹き払われて温かい手にもまれた自分の体も、光を受けて銀色に美しく輝くのに驚いたことでしょう。この罪の世の穢れにどれほど汚れた罪人であっても、悔い改めて神の恵みの手に拾い上げられた時には、同様の大きな喜びに満たされ、新たな輝かしい生きがいを見つけるのではないでしょうか。福者マザー・テレサは、一人でも多くの孤独な人たちにそのような喜びを味わわせたいと活躍しておられました。世知辛いわが国の社会生活に失敗し、深い挫折感のうちにホームレスになっている人々の中にも、そのような「なくした銀貨」が少なからずいるように思いますが、いかがなものでしょう。そういう人たちに対して温かい眼を注ぎ、大きなことはできなくても、福者マザー・テレサの御精神に心を合わせてその人たちの幸せのため、せめて祈ることを忘れないよう、心がけましょう。

2010年9月5日日曜日

説教集C年: 2007年9月9日 (日)、2007年間第23主日(三ケ日)

朗読聖書 Ⅰ. 智恵 9: 13~18. Ⅱ. フィレモン 9b~10, 12~17.
     Ⅲ. ルカ福音書 14: 25~35.


① 古代ギリシャでは紀元前6世紀頃から、生活に余裕のある知者たちが世界や人間や人生などについて、思弁的に深く考究するようになり、優れた哲学者や思想家たちが輩出するようになりました。紀元前4世紀の後半にアレクサンドロス大王のペルシア遠征が成功し、ギリシャ系の支配者たちがエジプトやシリアなどオリエント諸地方を支配するようになると、ギリシャ文明もオリエント全域に広まり始め、エジプトでは紀元前3世紀に、旧約聖書がギリシャ語に翻訳されたりしましたが、ユダヤ人たちはまだ信仰の伝統を堅持していて、紀元前2世紀の半ばにシリアのセレウコス王朝が支配下のユダヤにギリシャの宗教を広めようとした時には、多くの殉教者を出してまでも強い抵抗を示し、遂にセレウコス王朝も諦めて、ユダヤ人抵抗勢力に政治的自由を容認するに到りました。

② しかし、現代世界の雛形と思われるほど国際交流が盛んで、特にユダヤ人たちが優遇されていたエジプトでは、国際交流を積極的に推進したソロモン王時代の智恵に見習おうとするような知恵文学が新たに盛んになり、処世術や人生論などに対する人々の関心が高まっていたようです。本日の第一朗読である「知恵の書」は、そのような流れの中で執筆された聖書で、人間の知恵の源泉である真の神の知恵について教えています。この神の知恵に導かれ、聖母マリアのように、自分の考えや人間の知恵中心の生き方に死んで、神の婢として神の御旨中心に生きようとする信仰精神の賢明さは、国際交流が盛んで各種の思想が行き交う中で生活する現代人にとっても、大切なのではないでしょうか。理知的なこの世の知恵が万事に優先され、何事にも合理的な理由付けを求める考え方が、社会の各層に広まっている現代社会には、そういうこの世の理知的知恵やその論議に振り回され、心の奥底にストレスを蓄積している人が少なくないように見受けられます。

③ 長年岡山のノートルダム清心女子大学の学長を務め、学生指導に大きな成果を挙げて、近年各地から講演に招聘されることの多いシスター渡辺和子さんも、一時は鬱病に苦しまれたそうで、次のように書いています。「私は50歳のとき心に風邪をひきました。はっきり言えば、鬱病にかかりました。」「人様とお話していても、….. 笑顔ができない自分。そんな私をまわりの人たちが心配して、入院させてくれました。たった一人で個室に置かれ、自殺さえ考えました。何とも言えない胸苦しさ。何を見ても何の興味も湧かない。そして朝の二時ごろ目が覚めて眠ることができない。その苦しさは、自分のことしか考えられない苦しさと言っていいかも知れません。それまでの私は、学生のため、人様のため、神様のため、という生活で、幸せだったと思います。それが、自分にとらわれて自分の痛みしか考えられない。それほどつらいことはない、と私はこの病気で習いました。さらに私を苦しめたのは、修道者のくせに、自殺を考えるという事実でございます。云々」というような、恐ろしく苦しい体験談です。

④ しかし、私の知っている例から察しますと、役職者や大学教授などで鬱病を体験した人は、祈りつつそこから立ち直った暁には、精神指導の面で大きな働きをするように思います。神はその方に一層大きな実を結ばせるために、数年間の苦しい試練をお与えになって、その方の奥底の心に宿る一番美しい精神を目覚めさせようとなさるのではないでしょうか。シスター渡辺さんもその試練によって鍛えられた後、今では驚くほど大きな活躍をしておられます。それで私は、鬱病で精神医にかかっている親しい知人には、「神様のため、人様のため、自分が主導権をとって何かをしよう、仕事の実績を挙げようなどとは考えないで下さい。神がお望みなのは、あなたがその試練を契機に、この世の仕事や人間関係などに対する過度の執着から心を引き離し、これまでとかく後回しにし勝ちであったご自分の奥底の心に眼を向け、そこにおられる神とのパーソナルな感謝と愛と信頼の対話に時間を割くことだと思います。そうすれば、もうあなたが主導権をとって働くのではなく、神が主導権をとり、あなたを僕・婢のようにしながら、あなたの中で働いて下さいます」などと話したり書いたりしています。これが、主が本日の福音の中で求めておられる生き方であり、この世の知恵ではなく、神の知恵によって救われる者の辿る道だと思います。

⑤ 本日の福音の中で読まれる「(父母や妻、兄弟姉妹たちを) 憎まないなら、私の弟子ではあり得ない」という主のお言葉は誤解され易いので、少し説明させて頂きます。ヘブライ語や当時パレスチナ・ユダヤ地方で一般民衆の話していたアラマイ語には比較級がないので、たとえば「より少なく愛する」、「二の次にする」というような場合には、「憎む」と言うのだそうです。従って、主が受難死の地エルサレムへと向かっておられた最後の旅の多少緊張感の漂う場面で、付いて来た群衆の方に振り向いておっしゃったことは、私に付いて来ても、私を父母兄弟や自分の命以上に愛する人でなければ、また自分の十字架を背負って付いてくる程捨て身になって私を愛する人でなければ、誰であっても私の弟子であることはできない、ということだと思います。察するに、そこにいた群集の多くは、農閑期の暇を利用し、単に大衆ムードのまま多少の好奇心もあって、主の一行にぞろぞろ付いて来ていたのだと思います。そこで主は、付いて来たいなら、各人腰を据えてよく考え、捨て身の覚悟で付いて来るようにと、各人ひとりひとりのパーソナルな決意を促されたのではないでしょうか。

⑥ 主が最後に「自分の持ち物を一切捨てなければ、誰一人私の弟子ではあり得ない」とおっしゃっておられることは、大切です。主は受難死を間近にして、全ての人の贖いのために、ご自身の命までも捧げ尽くそうと決意を新たにしておられたと思いますが、主の弟子たる者も、ご自身と同じ心で多くの人の救いのために生きることを求めておられるのだと思います。主の御跡に従う決意で誓願を宣立した私たち修道者は、その初心を今も堅持しているでしょうか。主のこれらのお言葉を心に銘記しながら反省してみましょう。ルカ福音書は、本日の話のすぐ後で「塩は良いものだが、塩気を失えば、外に捨てられる」という主の厳しいお言葉を入れていますが、メシアの存在が全く他の多くの人の救いのための存在であったように、私たち修道者の存在も、ちょうど塩のように全く他の人々のためにある存在、他の人々の心に味付けをし、その腐敗を防止するための存在だと思います。私たちは、自分が神から召されたこの素晴らしい「他者のための祈りの生き方」「他者に自分を全く与え尽くす生き方」の意義を、しっかりと自覚しているでしょうか。本日の福音に読まれる主のお言葉を心に刻みながらあらためて反省し、初心を新たに堅めましょう。