2010年9月19日日曜日

説教集C年: 2007年9月23日 (日)、2007年間第25主日(三ケ日)

朗読聖書 Ⅰ. アモス 8: 4~7. Ⅱ. テモテ前 2: 1~8.
     Ⅲ. ルカ福音書 16: 1~13.


① 本日の第二朗読の始めにある勧めは、異教徒たちに大きく心を開いていたパウロの国際的精神の証しであり、現代の私たちにとっても大切だと思います。彼は、「まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とを、全ての人のために捧げなさい。王たちや全ての行政官たちのためにも捧げなさい。私たちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、私たちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、全ての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。云々」と書いていますが、キリスト者の中には、自分たちと信仰や考えの異なる異教徒には心を閉ざし、その人たちやその人たちの社会のために祈ることを怠っている人がいるのは、残念なことだと思います。

② 今から70年、80年ほど前の昭和初期に、日本のカトリック信徒たちは、日本社会のためまた天皇陛下のために熱心に祈っていました。歴史の研究をして来た私は、その頃の信徒たちの話をたくさん聞き集めていますし、またその頃のカトリック新聞やその他の定期刊行物にも目を通していますので、このことについて証言したいと思います。70年前の7月に中国との戦争が始まると、カトリック信徒の間には「日本の聖母マリア」と題する、富士山の上に聖母子の姿を配した綺麗な絵を縮小した小さな御絵が普及して、多くの信徒は軍部に牛耳られている日本国の将来のため、特に聖母マリアの取次ぎを熱心に祈っていました。そうしましたら、日中戦争は米英諸国との太平洋戦争にまで進展し、その戦争に負けて、天皇陛下はじめ日本国民は当時の軍部の過激派から解放され、新しい平和日本への道を歩むことができるようになりました。戦時中の学徒動員で、軍需工場に働いていて終戦を迎えた私は、少し後では、あの絶望的な戦争に負けて本当に良かったと思うようになりました。

③ ところで今から50数年前、私がまだ南山大学の学生であった頃、一部の古いカトリック信徒たちの間で、この太平洋戦争は聖母マリア様の特別の執り成しによって導かれ、日本の国を新しく生まれ変わらせるための、ある意味では神からのお恵みだったのではなかろうか、などとささやかれていました。というのは、日本国にとっては、いずれも聖母マリアの大きな祝日である12月8日に始まり、8月15日に終わって、1951年の9月8日にサンフランシスコで講和条約が調印されたからでした。その後の日本社会の動きを見ても、戦後の日本は、戦前とは比較できない程の大きな自由と経済的豊かさを享受していると思います。それを思うと、数多くの犠牲を出した太平洋戦争でしたが、今の日本の繁栄はその犠牲の上に築かれた神よりの恵みであると、感謝のうちに受け止めることもできると思います。

④ 現代の人類世界は手段選ばずのテロ攻撃に脅かされていますが、これも、単に怒りと嘆きのうちに消極的に成り行きを見守るのではなく、70年前ごろの日本のカトリック信徒たちのように、今こそ聖母マリアの執り成しを願うべき時と考え、神の働きに対する信頼と希望をもって祈り続けているなら、数々の犠牲の上に神の働きによってこれまで以上の平和で自由な人類社会が新たに生まれることを、期待してよいのではないでしょうか。自分個人の救いと幸せのためばかりでなく、広く人類社会全体のため、すべての人のため、また特に政治家・指導者たちのために、聖母マリアと共に希望をもって、神の御憐れみを願い求め続けましょう。

⑤ 本日の福音は、先週の日曜日の福音であったなくした銀貨や放蕩息子の譬え話のすぐ後に続く譬え話ですが、なぜか「その時イエスは弟子たちに言われた」という導入の言葉で始まっています。しかし、先週の日曜福音の譬え話はファリサイ派の人々や律法学者たちに語られた話とされていますし、本日の福音のすぐ後の14節には、「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いてイエスをあざ笑った」とありますから、本日の福音の譬え話はファリサイ派の人々にも語られたのだと思われます。キリスト時代のユダヤ社会では、律法上では金や物品を貸してもその利息を取ることが禁じられていましたが、実際には様々なこじつけ理由で利息が取られていたと考えられています。本日の譬え話に登場する不正な管理人は、事によると日ごろから主人からの借りを返却してもらう段階で、その量をごまかして差額を着服したり、借り主に与えて友人を作ったりしていたのかも知れません。現代でも管理人任せにしてチェック体制を確立していない所では、密かに似たようなごまかしや着服が横行しているかも知れません。2千年前のオリエント世界よりも大きな過渡期に直面している今の世界でも、心の教育が不十分なための「誤魔化し人間」が少なくありませんから。主がこの話を直接ファリサイ派に向けて話されず、むしろ弟子たちに向けて話されたのは、その危険性が新約の神の民にもあることを、弟子たちによく理解させるためであったと思われます。

⑥ この譬え話の末尾に、主人が不正な管理人の抜け目ないやり方を褒めて、「この世の子らは、自分の仲間に対して光の子らよりも賢くふるまっている」と話していることは、注目に値します。私は勝手ながら、主キリストはこの「光の子ら」という言葉で、暗にその場にいたファリサイ派の人々を指しておられたのではないか、と考えます。彼らは競って律法を忠実に守ることにより、この世においてもあの世に行っても神の恵みを豊かに得ようと努めており、自分の生活を光の中で眺めていて、律法を知らず忠実に守ろうと努めていないこの世の子らを、闇の中にいる者たちとして批判し、神に呪われた罪人たちとして断罪していました。彼らは、その罪人たちに背負わせている重荷を少しでも軽くしてあげよう、助けてあげようとして指一本も貸そうとせず、罪人たちの心の穢れに感染しないよう距離を保ちながら、ただ批判し軽蔑するだけだったようです。それで、彼らから遠ざけられ軽蔑されていたこの世の子らは、年老いて今携わっている仕事や生活から離れる時のため、せめて自分の仲間たちに対しては親切と奉仕に努めて、孤立無援の状態に陥った時に助けてもらおうなどと考えていたのではないでしょうか。

⑦ 主はこの譬え話で、たとえ律法上では不正にまみれた富であっても、神から委託されているその富を人助けに積極的に使って友達を作るなら、愛の実践を何よりも評価なされる神はその実践的努力を嘉し、その人たちを永遠の住まいに迎え入れて下さると教えておられるように思います。本日の第一朗読の中で、アモス預言者は、「このことを聞け。貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける者たちよ」という呼びかけに続いて、貧しい農民に対する支配階級の搾取を列挙し、最後に、「私は、彼らが行った全てのことをいつまでも忘れない」という、神の厳しいお言葉を伝えています。神の摂理によって豊かな富に恵まれている者たちは、それだけ多く貧しい人たちへの奉仕に配慮しなければならないと存じます。

⑧ 実は私たちも、神から日々非常にたくさんのお恵みを頂戴しています。この世の命も健康も、日光も空気も水も、日々の食物も聖書の教えも洗礼も、全ては直接間接に神よりのお恵みであり、委託物であります。私たちはそれらを人助けに積極的に利用しているでしょうか。自分を光の中において眺め、この罪の世の社会やその中で苦悩している人々のためには別に何もしなくても、天国に入れてもらえる「神の子」の身分なのだなどと、慢心を起こさないよう気をつけましょう。私たちに委託されている数々の内的外的富や、神の導き・啓示などを最大限に利用しながら、この世の社会や人々のためにも、せめて祈りによって積極的に奉仕するよう励みましょう。そのように心がける人たちだけが、神に忠実に生きようとしている「神の子ら」であり、そうでない人たちは、神よりも富(マンモン) に仕えようとしているのではないでしょうか。ここで「富」というのは、物質的富だけでなく、ファリサイ派が大切にしていたこの世での自分の地位、名誉などをも指していると思います。それらを神よりも崇めている人たちは、神から一種の偶像礼拝者と見做されると思います。私たちも神の御前で謙虚に反省し、神よりの委託物をより忠実に利用するよう、決心を新たに致しましょう。