2010年9月12日日曜日

説教集C年: 2007年9月16日 (日)、2007年間第24主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 出エジプト 32: 7~11, 13~14. Ⅱ. テモテ前 1: 12~17. Ⅲ. ルカ福音書 15: 1~32.

① 本日の第一朗読の話を読んで、ふと2世紀の古代教父聖エイレナイオスの「人祖はその幼児性の故に罪に落ちた」という言葉を思い出しました。聖人の言う「幼児性(子供っぽさ)」は、心の幼児性を指しています。外的に体も理知的な頭の働きも一人前の大人であっても、内的には自分の身の回りにあるこの世のこと、今目前にあることにしか関心がなく、何事も自分中心に「今の自分にとって」という立場から価値評価してしまう、そして自分の欲求をコントロールすることのできない人が、今の時代にも少なくありません。それが、エイレナイオスの言う「幼児性」だと思います。

② 私たちは時々、生まれてから一歳半くらいまでの幼子の目の美しさや従う態度の素直さに感心することがありますが、人間は皆、心の奥底にそういう美しい素直な命を神からいただいているのではないでしょうか。それが、神が本来意図してお創りになった人間の心だと思います。しかし、人祖が神の掟に背く罪を犯した時からその心にもう一つ、何でも自分中心に評価し、自分の欲のままに利用しようとする根強い利己的毒麦の種が芽を出すようになりました。この毒麦が私たちの心の美しさや素直さを台無しにして、事ある毎に自分の心の中でも、神や人との関係においても、無意識の内に対立や争いを造り出して、私たちのこの世の人生を複雑で悩ましいものにしています。

③ 私の観察した所では、人間の心には一歳半頃から利己的幼児性の雑草がそっと芽を出し始めるようです。そこで私は30数年前から20年前頃にかけて、親族や知人の二歳、三歳ぐらいの幼児がそのような雑草の芽を露骨に現した時、その親たちの了解を得てその子の手の甲をパチンと叩いて叱り、泣かせることによりその子のもう一つの善い心の働きを目覚めさせたことが数回あります。それからその子の善い心を愛撫し励ますようにしますと、不思議なほど子供の態度は良くなります。このような幼心の教育、躾の訓練を怠り、ただ可愛がるだけ、理知的な頭の能力を伸ばしてやろうと努めているだけに努めていますと、利己主義の根強い毒麦に勝てずにいる子供の心は、心の欲求を統御する力に不足して苦しむことが多くなり、長じて自分の心の中の矛盾・対立にも苦しみ始めるようになります。そして育ての親の権威や愛に対する心の感覚が失われて、親に対しても冷たく逆らったりします。心の教育には、冬の厳しさと春の温かさとの両方が必要で、この二つがバランスよく提供される時に、心は数々の美しい花の芽を伸ばし始めるのではないでしょうか。まだ柔らかくて素直な二歳、三歳頃の心が、そういう躾を一番必要としている時だと思います。

④ 心の幼児性・心の毒麦性は現代に始まった問題ではなく、何時の時代にもあった問題であり、特に出エジプトの時代や2千年前のキリスト時代など、社会や民族の大きな過渡期には激しく表面化して多くの人を苦しめた問題でした。第一朗読からも明らかなように、神はそのような「大人の心の幼児性」に厳しいです。厳しく対処して、せめてまだ残っている健全な心を目覚めさせようとなさるのだと思います。モーセは、一方ではその神のお怒りをなだめ、他方では自分が神に代って裏切りの罪を犯した民に厳しい態度をとり、神に忠実に従わせようとしました。これが、言わば私たちの心の中での良心の働きだと思います。主イエスの「毒麦の譬え話」の中で、主人が毒麦の根を全部抜き取ることに反対したのは、毒麦と共存してその働きと絶えず戦うことによって、良い麦が一層豊かな実を結ぶようになるからではないでしょうか。

⑤ 本日の第二朗読には、若い時にファリサイ派の律法学者になり、不動の律法に対する原理主義的忠実心に駆られてキリスト者たちを迫害したことのある使徒パウロの言葉が読まれます。「私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずその私に限りない忍耐をお示しになり、私がこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」という彼の言葉から察すると、復活なされた主イエスは、現代人の心の幼児性や偏った原理主義の熱心さなどに対しても、限りない忍耐をもって、その人たちの改心を待っておられるのではないでしょうか。私たちもその主の限りない憐れみと忍耐の聖心に眼を向けつつ、あくまでも忍耐強く、心の幼児性に振り回され勝ちな現代の悩む人たちに伴い続けましょう。

⑥ 本日の福音に登場するファリサイ派の人々や律法学者たちは、この世の理知的知恵を駆使してユダヤ教内に社会的地位を築いている人たちで、自分たちの律法解釈や価値観に従おうとしない人々を罪人として軽視し抑圧していました。主はしかし、人間中心のそういう利己的律法解釈で自分を義人と思っている人々の中にこそ、神が最も忌み嫌われる「大人の幼児性」を見抜いておられたようです。そして彼らから罪人として社会的に軽蔑され抑圧されている人たちの心の中にこそ、社会的孤独の苦しみによって漸く人間本来の真心に目覚め始め、これまでの生き方を悔い改めて救いを求めようとしているもがきを洞察なされて、その人たちの所に、神による救いの恵みを届けようとなさったのだと思います。主が語られた本日の福音の譬え話は、そのような悔い改めを神がどれ程待ち望んでおられ、また喜ばれるかを示しています。福音の後半はいわゆる「放蕩息子の譬え話」ですが、時間の都合上ここでは「なくした銀貨の譬え話」についてだけ、考えてみましょう。

⑦ 当時の貧しい人々の間では価値の高いドラクメ銀貨は、現代にすれば大工さんや技術者の一日の日当に相当する程の銀貨ですが、もしもその銀貨に心があるとすれば、夜に転げ落ちて家具の後ろの暗いゴミの中にまぎれ込んでいた時は、自分がどれ程価値の高いものであるかを知らず、自分の存在に生きがいも感ぜられずに、ただ諦めて何もせずに淋しくしているだけだったでしょう。しかし、ともし火をつけて発見され、人々の手に取り上げられて大いに喜ばれた時には、どれ程嬉しかったか知りません。ゴミを吹き払われて温かい手にもまれた自分の体も、光を受けて銀色に美しく輝くのに驚いたことでしょう。この罪の世の穢れにどれほど汚れた罪人であっても、悔い改めて神の恵みの手に拾い上げられた時には、同様の大きな喜びに満たされ、新たな輝かしい生きがいを見つけるのではないでしょうか。福者マザー・テレサは、一人でも多くの孤独な人たちにそのような喜びを味わわせたいと活躍しておられました。世知辛いわが国の社会生活に失敗し、深い挫折感のうちにホームレスになっている人々の中にも、そのような「なくした銀貨」が少なからずいるように思いますが、いかがなものでしょう。そういう人たちに対して温かい眼を注ぎ、大きなことはできなくても、福者マザー・テレサの御精神に心を合わせてその人たちの幸せのため、せめて祈ることを忘れないよう、心がけましょう。