2010年9月5日日曜日

説教集C年: 2007年9月9日 (日)、2007年間第23主日(三ケ日)

朗読聖書 Ⅰ. 智恵 9: 13~18. Ⅱ. フィレモン 9b~10, 12~17.
     Ⅲ. ルカ福音書 14: 25~35.


① 古代ギリシャでは紀元前6世紀頃から、生活に余裕のある知者たちが世界や人間や人生などについて、思弁的に深く考究するようになり、優れた哲学者や思想家たちが輩出するようになりました。紀元前4世紀の後半にアレクサンドロス大王のペルシア遠征が成功し、ギリシャ系の支配者たちがエジプトやシリアなどオリエント諸地方を支配するようになると、ギリシャ文明もオリエント全域に広まり始め、エジプトでは紀元前3世紀に、旧約聖書がギリシャ語に翻訳されたりしましたが、ユダヤ人たちはまだ信仰の伝統を堅持していて、紀元前2世紀の半ばにシリアのセレウコス王朝が支配下のユダヤにギリシャの宗教を広めようとした時には、多くの殉教者を出してまでも強い抵抗を示し、遂にセレウコス王朝も諦めて、ユダヤ人抵抗勢力に政治的自由を容認するに到りました。

② しかし、現代世界の雛形と思われるほど国際交流が盛んで、特にユダヤ人たちが優遇されていたエジプトでは、国際交流を積極的に推進したソロモン王時代の智恵に見習おうとするような知恵文学が新たに盛んになり、処世術や人生論などに対する人々の関心が高まっていたようです。本日の第一朗読である「知恵の書」は、そのような流れの中で執筆された聖書で、人間の知恵の源泉である真の神の知恵について教えています。この神の知恵に導かれ、聖母マリアのように、自分の考えや人間の知恵中心の生き方に死んで、神の婢として神の御旨中心に生きようとする信仰精神の賢明さは、国際交流が盛んで各種の思想が行き交う中で生活する現代人にとっても、大切なのではないでしょうか。理知的なこの世の知恵が万事に優先され、何事にも合理的な理由付けを求める考え方が、社会の各層に広まっている現代社会には、そういうこの世の理知的知恵やその論議に振り回され、心の奥底にストレスを蓄積している人が少なくないように見受けられます。

③ 長年岡山のノートルダム清心女子大学の学長を務め、学生指導に大きな成果を挙げて、近年各地から講演に招聘されることの多いシスター渡辺和子さんも、一時は鬱病に苦しまれたそうで、次のように書いています。「私は50歳のとき心に風邪をひきました。はっきり言えば、鬱病にかかりました。」「人様とお話していても、….. 笑顔ができない自分。そんな私をまわりの人たちが心配して、入院させてくれました。たった一人で個室に置かれ、自殺さえ考えました。何とも言えない胸苦しさ。何を見ても何の興味も湧かない。そして朝の二時ごろ目が覚めて眠ることができない。その苦しさは、自分のことしか考えられない苦しさと言っていいかも知れません。それまでの私は、学生のため、人様のため、神様のため、という生活で、幸せだったと思います。それが、自分にとらわれて自分の痛みしか考えられない。それほどつらいことはない、と私はこの病気で習いました。さらに私を苦しめたのは、修道者のくせに、自殺を考えるという事実でございます。云々」というような、恐ろしく苦しい体験談です。

④ しかし、私の知っている例から察しますと、役職者や大学教授などで鬱病を体験した人は、祈りつつそこから立ち直った暁には、精神指導の面で大きな働きをするように思います。神はその方に一層大きな実を結ばせるために、数年間の苦しい試練をお与えになって、その方の奥底の心に宿る一番美しい精神を目覚めさせようとなさるのではないでしょうか。シスター渡辺さんもその試練によって鍛えられた後、今では驚くほど大きな活躍をしておられます。それで私は、鬱病で精神医にかかっている親しい知人には、「神様のため、人様のため、自分が主導権をとって何かをしよう、仕事の実績を挙げようなどとは考えないで下さい。神がお望みなのは、あなたがその試練を契機に、この世の仕事や人間関係などに対する過度の執着から心を引き離し、これまでとかく後回しにし勝ちであったご自分の奥底の心に眼を向け、そこにおられる神とのパーソナルな感謝と愛と信頼の対話に時間を割くことだと思います。そうすれば、もうあなたが主導権をとって働くのではなく、神が主導権をとり、あなたを僕・婢のようにしながら、あなたの中で働いて下さいます」などと話したり書いたりしています。これが、主が本日の福音の中で求めておられる生き方であり、この世の知恵ではなく、神の知恵によって救われる者の辿る道だと思います。

⑤ 本日の福音の中で読まれる「(父母や妻、兄弟姉妹たちを) 憎まないなら、私の弟子ではあり得ない」という主のお言葉は誤解され易いので、少し説明させて頂きます。ヘブライ語や当時パレスチナ・ユダヤ地方で一般民衆の話していたアラマイ語には比較級がないので、たとえば「より少なく愛する」、「二の次にする」というような場合には、「憎む」と言うのだそうです。従って、主が受難死の地エルサレムへと向かっておられた最後の旅の多少緊張感の漂う場面で、付いて来た群衆の方に振り向いておっしゃったことは、私に付いて来ても、私を父母兄弟や自分の命以上に愛する人でなければ、また自分の十字架を背負って付いてくる程捨て身になって私を愛する人でなければ、誰であっても私の弟子であることはできない、ということだと思います。察するに、そこにいた群集の多くは、農閑期の暇を利用し、単に大衆ムードのまま多少の好奇心もあって、主の一行にぞろぞろ付いて来ていたのだと思います。そこで主は、付いて来たいなら、各人腰を据えてよく考え、捨て身の覚悟で付いて来るようにと、各人ひとりひとりのパーソナルな決意を促されたのではないでしょうか。

⑥ 主が最後に「自分の持ち物を一切捨てなければ、誰一人私の弟子ではあり得ない」とおっしゃっておられることは、大切です。主は受難死を間近にして、全ての人の贖いのために、ご自身の命までも捧げ尽くそうと決意を新たにしておられたと思いますが、主の弟子たる者も、ご自身と同じ心で多くの人の救いのために生きることを求めておられるのだと思います。主の御跡に従う決意で誓願を宣立した私たち修道者は、その初心を今も堅持しているでしょうか。主のこれらのお言葉を心に銘記しながら反省してみましょう。ルカ福音書は、本日の話のすぐ後で「塩は良いものだが、塩気を失えば、外に捨てられる」という主の厳しいお言葉を入れていますが、メシアの存在が全く他の多くの人の救いのための存在であったように、私たち修道者の存在も、ちょうど塩のように全く他の人々のためにある存在、他の人々の心に味付けをし、その腐敗を防止するための存在だと思います。私たちは、自分が神から召されたこの素晴らしい「他者のための祈りの生き方」「他者に自分を全く与え尽くす生き方」の意義を、しっかりと自覚しているでしょうか。本日の福音に読まれる主のお言葉を心に刻みながらあらためて反省し、初心を新たに堅めましょう。