2010年8月29日日曜日

説教集C年: 2007年9月2日 (日)、2007年間第22主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. シラ 3: 17~18, 20, 28~29. Ⅱ. ヘブライ 12: 18~19, 22~24a. Ⅲ. ルカ福音書 14: 1, 7~14.

① 本日の聖書朗読のテーマは、神は遜る者を高められると言ってもよいと思います。第一朗読であるシラ書(「集会の書」とも言う) には、旧約のユダヤ人たちの間に伝えられ愛用されていた多くの格言や教訓が集められていますが、本日の朗読箇所には「偉くなればなる程、自ら遜れ。そうすれば主は、喜んで受け入れて下さる。」「主は、遜る人によって崇められる。」などの言葉が読まれます。「遜る」と聞くと、多くの人は人前で出しゃばった言行を慎み、謙虚に振舞うというような意味で理解し勝ちですが、聖書に言われている遜り、神がお求めになっておられる遜りは、そんな人前の外的遜りとは大きく違っています。それは、神に背を向け神の愛を裏切った人間の罪を自覚し、それを背負って神の御前に遜る姿、心を大きく開いて全てを神から受けながらも、神の無益な僕として我なしに生きようとする内的姿勢を指しています。それは、主イエスが御自ら生きてみせた生き方であり、聖母マリアも神の婢として実践していた生き方ですが、神はそのように遜る者を通して、救いの恵みを人類に豊かにお与え下さったのです。

② 主は一度、この世の成功や快楽だけを追い求めている町々の不信を厳しくお咎めになった後に、「天地の主なる父よ、私はあなたを褒め讃えます。あなたはこれらのことを知恵ある人や賢い人には隠し、小さい者に現して下さいました。云々」と祈っておられます。神の御前に神にあくまでも従順で忍耐深い「小さな者」として生きるのが、聖書の教えている「遜り」であると思います。ヘブライ語の「アニィ」という言葉には、「小さな」という意味と共に「遜る」という意味もあると聞いています。アウグスチヌスはこのような遜りを「メシアの徴」としていますが、神はこの遜りを実生活の中で実践している人を通して、この世で働き、救いの恵みを豊かにお与え下さるのです。そのことを幾度も体験し確信するに到ったからでしょうか、聖母はその讃歌の中で「神はその力を現し、思い上がる者を打ち砕き、権力をふるう者をその座から下ろし、見捨てられた人を高められる。云々」と歌っています。運命の神が、遜った神の子ら「小さな者たち」を通して、救う働きをして下さる新しい時代が始まったのです。私たちも、聖書の教えているこの内的遜りの生き方を体得し実践するように努めましょう。本日の第二朗読は、そのような遜る生き方をする者たちの行く着く先について教えています。神の子らのこのような内的遜りを体得している人は、外的言動においても、慎みや謙遜の態度をごく自然に体現するでしょうが、それらの振る舞いを単に外的に真似るだけでは、ファリサイ派の教師たちのように心の内容が伴っていない「偽善者」と非難され、神から救いの恵みを人々の上に呼び下すことはできないと思います。幼子のように謙虚で素直な心、いつも神の御前で生きていようとする心が、何よりも大切だと思います。

③ 本日の福音は、安息日にファリサイ派のある議員から食事に招待された主イエスが、一緒に招待された客が上席を選ぶ様子を見て話された譬え話ですが、ギリシャ語原文の「パラボレー」という言葉は、日本語の「譬え」よりはずーっと広い意味であり、二つの全く異なる領域にあるものを比較し、よく知られたものを通して他のまだ知られていない真理を説明する時にも、よく使われます。本日の福音で主が語られた譬え話は、正にそのような「パラボレー」でした。ですからこの譬え話の言葉をこの世の社会にも適用して、この世の社会生活においても「昼食や夕食の会を催す時には、友人も兄弟も、親類も近所の金持ちも呼んではならない」などと考えてはなりません。それは、主のお考えではないと思われますから。主は神より遣わされた使者、神の僕として、人々の救いのために奉仕する場合の内的心構えについてだけ語っておられるのです。相手からの報いを全く期待せずに、この世では全然お返しできないような貧しい人や助けを必要としている身障者・弱小者たちに優先的に奉仕しなさい。そうすれば、正しい人たちが皆復活する時に、あなた方は神によって報われるから幸せです、というのが主の教えだと思います。婚宴に招待された時の席次の譬え話も、この世の社会生活のための心構えであるよりは、あの世の宴会に招かれている者としての内的心構えについての教えであると思います。

④ この世的損得勘定を全く度外視して、ひたすら神のお望み、神の御旨にだけ心の眼を向けながら、神の救いの御業に奉仕する人生を営むのが救い主の生き方であり、今の世に生き甲斐を見出せずに悩む人たちの心に、神からの照らしと導きの恵みを豊かに呼び降す道でもあると思います。私たちが、小さいながらもそのような生き方を身につけることができるよう、恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

⑤ 福者マザー・テレサは、「誰からも必要とされない病気」という言葉を話されたことがあります。病気にはそれぞれ医薬品や治療法がありますが、心を極度の内的孤独感で蝕むこの病気は、「喜んで差し伸べられる奉仕の手と、愛の心があるところでない限り、癒されることがない」というのが、福者マザー・テレサのお考えだそうです。来日なさった時に話された、「日本は豊かな国ですが、内的には貧しい国です」というというお言葉は、必要なものは何でもあり余る程所有している外的豊かさの故に、非常に多くの人たちの間に心と心との献身的愛の交流が育たず、外的豊かさの中にあって「誰からも必要とされていない」という病気に苦しんでいる人が少なくないことを見抜いて、話されたのではないでしょうか。自由主義・個人主義・能力主義などは皆それぞれに個人や社会を発展させる長所を持つ善ですが、ただその対極にある共同体精神や連帯精神などと共にバランスよく心の中に育てないと、個人をも社会をも内面から病的にする危険なものでもあります。近年外的豊かさの中でメタボリック症候群の病人が急増したら、適度の運動の必要性や食生活のバランスなどが強調されるようになりましたが、同様のバランスの必要性は精神面についても強調されないと、多くの日本人も日本社会も、いずれ恐ろしい内的病魔に苛まれることになるでしょう。一人でも多くの人が早くその危険性を察知するよう、神からの照らしと導きの恵みも祈り求めましょう。