2010年8月8日日曜日

説教集C年: 2007年8月12日 (日)、2007年間第19主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 智恵 18: 6~9. Ⅱ. ヘブライ 11: 1~2, 8~19.
      Ⅲ. ルカ福音書 12: 32~48.


① 日本のカトリック教会は、ローマ教皇が1981年に広島でなされた「平和アピール」に応え、その翌年より毎年の8月6日から終戦記念の15日までを「平和旬間」と定めて、世界平和のためのさまざまな共同的祈りと催しを致しています。今日はその平和旬間中の日曜日であります。私たちは、北朝鮮が核開発を再開した昨年の春以来、極東アジア諸国の平和共存のため、毎月一回この祭壇で、神の恵みと導きを願ってミサ聖祭を献げています。幸い事情は今では好転しつつありますが、本日は同じこの意向でミサ聖祭を献げます。ご一緒にお祈り下さい。

② 本日の第一朗読である『知恵の書』の後半10章から19章は、イスラエルの歴史の中で働いた神の知恵について語っていますが、本日の朗読箇所は、そのうちのエジプト脱出の夜のことについて語っています。その夜、神の民は神からの約束を信じて、動揺することなく神による救いと、敵ども(すなわちエジプト人たち) の滅びとを待っていたように述べられています。そして清い子らは「密かにいけにえを献げ、神聖な掟を守ることを全員一致で取り決めた。それは、聖なる民が、順境も逆境も心を合わせて受け止めるということである」と語られています。これは、エジプト脱出の出来事から千年以上も経ってから、民間の伝えに基づいて歴史を多少美化しながら語られた話ですから、事実はこれとは多少違っていたと思われます。

③ しかし、こういう描写の中に、旧約末期の神の民の歴史観や信仰心が反映していることは疑い得ません。神を信ずるということは、目前の世界の情勢がどれ程絶望的であっても、たじろぐことなく神による救いを従順に待ち続けることであり、また神にいけにえを献げ、神からの掟を守り、順境も逆境も全員で心を合わせて受け止めるということである、と考えていたことを示しています。旧約末期に伝統的信仰に忠実であったユダヤ人たちは、このような精神で救い主の到来を待ち望んでいたと思われます。現代に生きる私たちも、同様の精神で主の再臨を待ち望んでいましょう。

④ 第二朗読はヘブライ人への書簡からのものですが、そこでは「信じる」とはどういうことかについて教えられています。最初にまず、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」という言葉が読まれます。これは、どういう意味でしょうか。「信じる」とは、頭で理解し納得することではない、心で受け入れ、その受け止めたものに堅く信頼して生きることだという意味ではないでしょうか。心は意志です。神からの言葉、神からの啓示をまだよく理解できなくても、それを聖母マリアのようにそのまま素直に受け入れ、日々心の中で考え合せ模索しつつも、神の僕・婢としてそれに身を任せ、意志的に生き続けることはできます。信仰の暗闇に置かれていても、このような信頼と従順の実践に励むなら、神はその人の魂に次々と必要な導きと照らしと助けを与えて下さいます。こうしてその人は、神が自分の将来に計画しておられることについてはよく知らなくても、神の導きと助けに対しては益々大きな希望と感謝と信頼を抱くことができるようになります。第二朗読に述べられているアブラハムも、ひたすら神のお言葉、神の約束に信頼し不安と困難に耐えて歩む、そのような意志的信仰生活を実践して、神からの大きな恵みと祝福を一族の上に、また全人類の上に呼び下した太祖であります。

⑤ ある男の人が私の所に来て、洗礼を受けたいと思って一年前の春から土曜日毎に教会の神父に教理を習っていますが、まだなかなか納得できなくて悩んでいます、という話をしたことがありました。そこで私は、信仰は頭で理解するものではありません、教理の理解は道しるべとして、あるいは危険防止の柵や手すりのようなものとしてある程度必要であり有益でもありますが、信仰は神よりの言葉や啓示を自分に対する神からの呼びかけとして意志的に受け止め、それに従って生きようとすることです、というような話をしました。

⑥ その時に引用したのが、「信仰は一種の賭けである」というパスカルの言葉でした。どれ程優秀な人間理性でも、神からの啓示や聖書を疑問なく明確に解説することはできません。理性は何よりもこの世の事物を理解し利用するために創られているので、それが優秀であればある程、神からのお言葉に疑問や謎を見出すように、神は人間にお語りになっているからです。ですから、全てを自分中心に理性で考え理解しようとすることを止めて、心に次々と生じてくる疑問や不安などを全て神の御許に投げ出し、神に下駄を預けて神のお求め通りに、まず祈りと愛の実践に励むと、何でも自分中心に理知的に考え勝ちだった自分の心が、不思議に神秘な神の方へと引き上げられて、自分の頭で理解できなくても、そんなことは全然問題でなくなり、それよりも神が目に見えないながら不思議に自分に伴っていて下さるという心の感覚が目覚めて来ます。そして神が自分を守り導き助けて下さるという体験に関心が高まって来るようになります。これが、聖書の教えている信仰というものです、というようなことも話しました。

⑦ 本日の福音はルカ12章の後半部分からの引用ですが、その前半部分には、一週間前の日曜日の福音である「愚かな金持ち」の譬え話があります。それでか、主は後半部分では、まずその愚かな金持ちとは対照的に、尽きることのない富を天に蓄えるようお勧めになります。天の父なる神が喜んで神の国を下さり、天に蓄えた富には盗人も虫も近寄らないからです。また、その宝のある所に私たちの心も高められて、たとえこの世では貧困や困難の内に生活していても、内的にはいつも大きな希望と喜び・感謝の内に生きることができるからです。この世にどれ程大きな富を所有していても、自分の将来に大きな明るい希望を持てずにいる人や、日々神に守られ導かれる喜びと感謝の内に生活できない人は、決して仕合わせではないと思います。

⑧ 主は富を天に蓄えて、天に心を向けている人に、この世では「腰に帯を締め、ともし火を点していなさい」と勧めています。その人たちの所には時々天から主人が来て下さり、御自ら帯を締めてその人たちの食事の給仕をして下さるからです。ここで言われている「主人」とは誰を指しているのでしょうか。37節には「そばに来て給仕をしてくれる」という言葉が読まれますが、日本語で「そばに来て」と訳されているギリシャ語原文の動詞パレルトーンは、本来「通り過ぎる」という意味で、ラテン語でもtransiens(通り過ぎる) と訳されており、聖書では神が来臨する時に用いられる特殊用語となっています。例えばアブラハムの所を神が三人の旅人の姿で訪れた時や、主が夜に湖の上を歩いて弟子たちの船に近づいた時などに、この言葉が使われています。後者の場合、マルコ福音書では「そばを通り過ぎようとされた」と訳されています。その訳で結構なのですが、同時にそこには、神である主が来臨なされたという意味も込められていることを、見逃してはなりません。

⑨ 私は、天から来臨して給仕して下さるという「主人」を、復活なされた主キリストのことだと考えています。主は今もミサ聖祭の度毎に、眼に見えないながらも実際に私たちの所に来臨して、私たちに恵みの糧を給仕して下さるのではないでしょうか。この信仰をもってミサ聖祭にあずかる人は、その信仰ゆえに豊かな祝福を頂きますが、この信仰がなければそれだけ恵みは少ないと思います。本日の福音を、自分にそのような心の信仰、神である主の現存に対するパーソナルな愛の信仰を持つように、という神からの個人的呼びかけのお言葉として受け止め、実践的にそれに従おうとするのが、アブラハム的あるいは聖母マリア的信仰の生き方だと思います。