2010年8月15日日曜日

説教集C年: 2007年8月19日 (日)、2007年間第20主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. エレミヤ 38: 4~6, 8~10. Ⅱ. ヘブライ 12: 1~4.  Ⅲ. ルカ福音書 12: 49~53.

① 本日の第一朗読に登場するゼデキヤ王はユダ王国最後の王で、在位は紀元前597年から587年とされています。エルサレムが598年から翌年にかけ、強力な新バビロニア王ネブカドネザルに侵略されて、国王はじめ一群の貴族・祭司たちが第一次バビロン強制移住でいなくなり、後に残されたユダ王国を新バビロニアの属国として統治するために立てられた国王でした。戦争に負けたのですから、王国の再建は容易でなかったと思われます。側近たちは国王を動かしてエジプトと提携させ、新バビロニアに反抗させたようです。それで既に有名になっていたエレミヤ預言者は、カルデア軍とエジプト軍との両大軍の間にあって揺れ動く国王とその役人たちに、いろいろと神からの言葉を伝えて活躍しましたが、それが国王を囲む役人たちに理解されずに、監禁されたり迫害されたりしました。第一朗読は、その迫害の一端を伝えています。

② 時代の大きな過渡期にこの世の人々の見解が相互に激しく対立したり、この世の諸勢力が相争ったりするような時、エレミヤ預言者のように神中心に生きようとすること、神よりの啓示を世の人たちに伝えようとすることは、この世中心の立場で生きている人たちから誤解されたり迫害されたりする危険があって、決して容易なことではありません。主キリストも、2千年前のユダヤ人たちが政治的にも宗教的にも意見が分かれて一致できずにいた過渡期に、神中心に生きる模範を実証しつつ、神よりの新しい啓示を世に伝えようとして、誤解されたり迫害されたりした人であります。

③ 本日の第二朗読であるヘブライ書の著者は、恐らくは紀元1世紀の末葉に、使徒たちがほとんどいなくなりエルサレムも紀元70年に滅亡して、産まれてまだ間もない初代教会の結束が内面から大きく動揺していた時代に、キリスト教に転向したユダヤ人たちに向けてこの書簡をしたため、彼らの信仰を堅めようとしたのだと思います。本日の朗読箇所12章の始めに読まれる、「このように夥しい証人の群れに囲まれている以上」という言葉は、11章に読まれる、アベルを始めとして、アブラハム、モーセなど旧約時代の数多くの信仰の証人たちを指しており、ユダヤ人たちの誇りであるそれら信仰の偉人たちの模範に倣って、時代の大きな過渡期に増大する「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、(神から) 自分に定められている競争(のコース) を忍耐強く走り抜こう」と励ましているのだと思います。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」という言葉も、大切だと思います。

④ 「グローバル時代」と言われる現代に生きる私たちも、一つの大きな過渡期に生きています。人類史上にいまだ嘗てなかった程の、規模の大きな過渡期と称してもよいと思います。現代文明、特に交通・通信機器の目覚しい発達で、これまで各種の壁で分断されていた人類全体が一つの群れとなり、大小無数の伝統的文化も宗教も慣習も皆一つの巨大な海の渦の中で相互に出会い、切磋琢磨させられるような激動の過渡期に、私たちは既に入って来ているのだ、と言ってもよいでしょう。この大きな渦の中で、私たちの受け継いでいるキリスト教信仰も、日本文化や理知的な西洋文明も、他の多くの文明文化との接触・軋轢・抗争・協働などによって、徹底的に試され、磨かれ、鍛えられることになるかも知れません。この渦の中で、自力ではどうしても耐えられなくなって苦しみ滅んで行く人たちもいるでしょうが、しかし、その渦の背後に、私たちの魂を磨き高めようとしておられる神の御摂理、神の導きや働きを感知し受け入れている人たちは、主キリストのようによくその苦しみに耐え、神の力に基づく本当の平和と祝福を全人類の上に豊かに呼び下すことでしょう。

⑤ 本日の福音の中で、主が「私には受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、私はどんなに苦しむことだろう」と話しておられることから察しますと、この話は既に主を殺そうとしている大祭司たちの勢力がいるエルサレムへの、最後の旅の途中で弟子たちに語られた言葉であると思われます。「洗礼」は、自分のこの世の命に死ぬことと、神の新しい不滅の命に生きることとの両面の恵みを与える秘跡ですが、ここでは主キリストの受難死と復活の二つを指していると思います。この地上の人々の心に神への信仰と愛の火を点し、燃え広がらせようと3年間ひたすら尽力して来たのに、生活を共にしている弟子たちの心にさえ、まだその火を大きく燃え上がらせることができずにいる程なのに、既に御父の御摂理によってご自身をいけにえとして神に献げる時が間近に迫って来たのを切実に感じ取りつつ、人間としての主の御心は、いろいろと深く苦しんでおられたのではないでしょうか。迫り来る死苦を目前にした時に覚えるその苦しみや孤独感なども、主は人類救済のため天の御父にいけにえとして献げておられたのだと思います。

⑥ 福音の後半には、「私が地上に平和をもたらすために来たと思うか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂である」というお言葉がありますが、ここで言う平和は、単に外的争いのない平穏無事の状態を指していると思います。主はこの世の支配階級中心、既にある社会的価値観中心に、全ての不備や労苦やしわ寄せを超越し我慢させようと説く、そんな消極的我慢の生き方を広めるためにこの世に来られたのではありません。人類の生活の営み全体を、宇宙の創造主・所有主であられる神の御旨中心のものへと積極的に変革し高めるために、そしてあの世的神の国を広めるために、来られたのだと思います。それは、一つの大きな内的改革を各人の心の中に導入することを意味しています。そのため、その神の国を受け入れるか拒むかで、同じ家族に属していても、人の心と心とが互いに対立し分れるということは大いに起こり得ます。

⑦ そのような場合、神に従わないこの世の一切は、神ご自身によってやがて徹底的に滅ぼされてしまうこと、ならびに私たちの永遠に続く本当の人生は、神中心に生きる者たちだけの住むあの世にあることを思って、神のみに頼って生きる一念発起の決意を新たにし、あくまでも主キリストの御後に従って行きましょう。過ぎ行くこの世の命を日々いけにえとして神に献げつつ、その命の奥に宿る神よりの博愛の命に生き抜くこと、それが主がこの世で歩まれた道であり、主はその道を歩むための力を私たちにも、「洗礼」の秘跡を通して豊かに提供しておられます。そして世の終りまで、私たちのそば近くに内的に伴っていて下さいます。「信仰の創始者また完成者」であられる主イエスを見つめながらという聖書の勧めを心に銘記しつつ、今の世のこの大きな過渡期の流れを乗り切りましょう。