2011年3月27日日曜日

説教集A年:2008年2月24日四旬節第3主日(三ケ日で) 

第1朗読 出エジプト記 17章3~7節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章1~2、5~8節
福音朗読 ヨハネによる福音書 4章5~42節

① 本日のミサ聖祭には、集会祈願にも拝領祈願にも、また第一朗読にも福音にも、「渇く」という動詞が登場しています。第一朗読によると、神の言葉でエジプトを脱出したイスラエルの民が、水の少ないシナイ半島を通る時に喉の渇きに苦しみ、モーセに不平を並べ立てたようです。「なぜ我々をエジプトから導き出したのか。私も子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」などと。モーセが神に、「彼らは今にも、私を石で打ち殺そうとしています」と叫んでいることから察すると、飢え渇いた民の苦しみは耐えがたい程のものであったと思われます。神はモーセに、神がある岩の上にお立ちになるから、以前にモーセが神から戴いた奇跡の杖でその岩を打つようお命じなり、モーセがイスラエルの長老たちの目の前でその通りにすると、その岩から大量の水が流れ出て、民はその奇跡の水によって喝を癒すことができました。

② ところで、神はいったいなぜ、大勢のイスラエル民族を水の少ないシナイ半島を通らせて、死ぬかと思われる程の苦しみをお与えになったのでしょうか。自分の欲望や自分の考え中心の古い生き方に死んで、もっと神のお望みや神の御旨中心の新しい生き方へと、移行させるためであったと思われます。神からの幻示に基づいて記されたと思われる創造神話によると、人祖は神のご命令に背いて「善悪を知る木」の実を取って食べ、神のようになろう、自分が主導権を取って生きようとしたために、神の恩寵を失ってこの世に罪と死の苦しみを招き入れてしまいました。それで、神の導きに従って神の恩寵の内に生きるようになるためには、自分の望みや考え中心のこれまでの生き方に死ぬことと、死の苦しみを耐え忍ぶこととが、神から求められるのではないでしょうか。

③ イスラエルの民だけではなく、全ての民に神の国に入る救いの恵みを提供するため、天の御父からこの罪の世に派遣されて人類の一員になられた主イエスも、死の苦しみを経て神の永遠の命に復活するという新しい生き方の模範を、身をもってお示しになりました。そして主が私たちに神の恩寵を与えるためにお定めになった洗礼の秘跡も、自分に死んで神の御旨中心に生きるという、いわば「死」と「生」という二つの側面を持つ秘跡であります。永瀬清子という詩人は、『短章集』という著書の中で、「好都合と好運とはちがう、云々」と書いて、この世的好都合や便利さなどからの過ぎ行く幸せと、本当の幸せとを区別し、「本当の幸と不幸は、もっと深く運命に根ざしたもの」と述べ、「島がよいのボートには、太平洋を渡れないのと同じだ」と結んでいます。この詩人は、「運命」という言葉で、人間の能力や努力ではどうにもならない神の御旨や働きを考えているようですが、島通いの小さな舟は乗り捨てて、その神の御旨や働きに深く根ざして生きるところに、私たちの本当の幸福があるという見解には、私も大賛成です。今あの世で幸せに暮らしている聖人たちや、私たちの先輩知人たちは、皆そのような生き方をしているのではないでしょうか。四旬節にあたり、私たちも自分に与えられる寒さや、失敗・誤解等々の苦しみを喜んで耐え忍ぶよう心がけ、主イエスと内的に一致するように努めましょう。

④ 本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」と、主キリストに従って信仰に生きる者の、将来に対する明るい大きな希望を表明しています。主キリストの霊で神の愛である聖霊は、洗礼の秘跡を受けた私たち各人にも与えられています。私たちもこの聖霊の力、愛の命に魂の内面から支えられ生かされて、激動する今の世がどれ程荒れ狂おうとも、明るい大きな希望をもって苦しみを厭わずに清く生き抜きましょう。渦巻いて濁らない滝壺の水のように。

⑤ 本日の福音によると、旅に疲れて井戸のそばに座っておられた主イエスは、水を汲みに来たサマリアの女に、「水を飲ませて下さい」と願っておられます。しかし、この願いはその女の心への呼びかけでもあって、主はこの後、礼拝すべき場所はこの山かエルサレムかという、この女の宗教的質問に答えて、新しい真理を啓示なさいます。「真の礼拝者たちが、霊と真理の内に(神なる)父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるから。云々」というお言葉です。

⑥ 宇宙万物をお創りになった同じ唯一神を信奉していても、どこでどのようにしてその神を拝むのかという問題については、現代でも人類社会に根を下ろしている各種宗教組織の間で大きく異なっています。一部の地方では宗教間のその相違や対立が、平和を乱す深刻な問題にもなっています。主イエスは、サマリアの女に話されたそのお言葉で、現代の宗教対立を解消するための道も示唆しておられるのではないでしょうか。主にとっては、全人類に一つの宗教しか存在していないと思います。外的人間的な宗教組織や宗教形態というものに囚われずに、神中心にもっと内的にまた柔軟に神に仕える道を模索するのが、神から私たち現代人に与えられている一つの課題だと思います。

⑦ 今はまだ溢れる豊かさの中で生活している私たち現代人が、遠からず恐ろしい飢えと渇きに苦しめられる時代が到来するかも知れません。水の惑星と言われる地球の水の約97%は海水で、残り3%の淡水のうち70%は北極や南極などでの氷ですから、私たちの利用できる水資源は、雲・川・湖・地下水などに限られていますが、過去百年の間に世界の水の使用量は9倍に増加し、安全な飲み水に不足している人たちは、人類64億人中10億人に達しています。それで、2000年に開催された世界水会議は、2025年には世界の人口の40%が、深刻な水不足に直面すると警告しています。世界各地の水不足が深刻になれば、食料の多くを輸入に頼っている日本も、大きな影響を受けると思います。高度に発達した文明の恩恵に浴している現代の若者たちの将来には、数々の思わぬ貧困が待ち受けているかも知れません。一人でも多くの人の心が、私たちの置かれているこの事態に早く目覚め、モーセよりも遥かに大きな奇跡的助けを神から呼び下すことのおできになる主キリストにしっかりと結ばれて、その苦難を乗り越えることができますように、神の憐れみと導きを願い求めて、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2011年3月20日日曜日

説教集A年:2008年2月17日四旬節第2主日(宝塚の売布で)

第1朗読 創世記 12章1~4a節
第2朗読 テモテへの手紙2 1章8b~10節
福音朗読 マタイによる福音書 17章1~9節

① 本日の第一朗読は、後にアブラハムと改名したアブハムの、ある意味で召し出しの話と称してもよいと思います。先週の水曜日に名古屋の南山教会で、カトリック者たちのあるグループでアブラハムの話をしましたら、後で「アブラハムはその声を天から聞いたのでしょうか」という思わぬ質問を受けました。実は皆様も私の著書『一杯の水』からご存知のように、私も昭和22年の夏に受洗して、翌年3月始めの早朝、暗い橋の上で見送る母と別れて多治見修道院へと行く時、はっきりと同じような神よりの声を聞いたことがあります。その声は自分の外からではなく、自分の胸の方から聞こえました。それで私の推察ですが、アブハムも、恐らく自分の胸の方から神の声を聞いたのではないでしょうか。

② 勿論、主イエスのヨルダン川でのご受洗やご変容の時のように、神の声が外から聞こえることもあるでしょうが、私は、アブラハムはいつもはっきりと心臓の方から聞こえるその声を神の声と識別し、その声に従おうとしておられたのではないかと想像しています。私は南山大学で「キリスト教思想史」について教えた時、いつも理知的な頭の考えと心に思い浮かぶ考えや勧めなどとを識別して、賢明に対処するよう話していました。お名前を失念しましたが、ある作曲家は戦争中に小学生として都会から父の出身地である新潟県に疎開させられた時から、美しい大自然に触れる度毎にメロディーが次々と心に浮かび、もしそれらをすぐ記録していたら、数千の作曲に成っただろうと語っているのを聞いたことがあります。作曲家に多いこのような現象の時も、それらのメロディーは察するに頭にではなく、心に浮かぶのではないかと思われます。恐らく天才モーツァルトも、4歳の時から自分の心に浮かぶそのようなメロディーを書き下ろすことによって、数多くの美しい音楽を作曲したのではないでしょうか。ベートーベンは、こうして書き下ろしたメロディーを後で頭を使って幾度も磨き上げたようですが、作曲の段階で心が大きな役割を演じていたことは変わりないと思います。

③ 私たちの心は、真に神がお創りになった霊界の道具でもあると思います。そこには、悪魔も巧みに囁きかけることがあるかも知れません。それで、悪霊からの呼びかけには毅然として拒否しつつ、神からの呼びかけを正しく識別し、アブラハムのように、その声に従うよう心がけましょう。それが、私たちの接する多くの人々の上に、神の祝福を呼び下す道であると信じます。本日の朗読の中で、神はアブラハムに「あなたにしよって地上の全ての民族は祝福を受ける」と約束しておられます。ご聖体の秘跡を身に受ける私たちも、主キリストと一致して祈りと愛の業に励むなら、この世の多くの人の上に神の祝福を呼び下すのではないでしょうか。

④ 本日の第二朗読には、使徒パウロが愛弟子テモテに、「神の力に支えられて、福音のため私と共に苦しみを忍んで下さい」と願っています。これは、自分が苦しみを献げれば、それによって主キリストの救いの恵みが他の人たちの所で豊かな実りをもたらすという、度重なる体験に基づく言葉であると思います。主イエスの受難死の功徳による救いの恵みは、主と一致して苦しみを献げる実践を介して、多くの人の心に実りをもたらすのではないでしょうか。朗読の最後に読まれる「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現して下さいました」という使徒の言葉も、自分の苦しみや死を、今病気や死に直面して苦しんでいる人々の救いのため、喜んで献げようとする心で受け止めるように致しましょう。

⑤ 本日の福音によると、高い山の上での主イエスの光輝くご変容に見とれていた三人の弟子たちを、突然光輝く雲が覆い、その雲の中から「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」という、恐らく威厳に満ちた声が聞こえたので、弟子たちはひれ伏し、非常に恐れたとあります。神が使徒たちから、また私たちから求めておられることは、この世に貧しい人間の姿で、あるいは御聖体のパンの姿で出現なされた主イエスを、神の御独り子として堅く信じることと、そのお言葉に聞き従うことなのではないでしょうか。

⑥ 大勢いるキリスト者の中には、聖書の言葉に従って教会を改革しようとする人や、主の福音を多くの人に伝えるために、自分の全てを捧げて献身的に働こうとしている人もいますが、自分で考え自分の力で神のために何かしようとする、その善意には敬服します。しかし、それが果たして神の望んでおられることなのかとなると、首をかしげたくなります。神が望んでおられるのは、何よりもアブラハムのように、神の声、神のご計画に実践的に聞き従う信仰の人であることなのではないでしょうか。主の御変容を目撃した使徒たちも、主のご復活の後は自分中心の夢や考えに死んで、ひたすら神のお考え中心・神の働き中心に生きようと努めています。四旬節にあたり、とかく自分中心に、あるいは規則中心に考え勝ちな私たちも、神の御旨中心に生きる生き方を新たに見出すよう、神の照らしと導きの恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2011年3月13日日曜日

説教集A年:2008年2月10日四旬節第1主日(三ケ日で) 

第1朗読 創世記 2章7~9節、3章1~7節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章12~19節
福音朗読 マタイによる福音書 4章1~11節
 
① 四旬節の日曜日の第一朗読は、いつも旧約時代の罪と救いの話から引用されますが、本日の第一朗読はその一番初めの、創世記2章と3章に読まれる人祖の創造と罪の話から引用されています。まず「主なる神は、土の塵で人を形造り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と述べられています。これは、私たちの心にある宗教的真理を教えるために神から啓示された夢幻のような神話ですから、実際の現実世界に最初の人間が出現した時の状況とは大きく違っていると思います。しかし、この話によって神は私たち人間に、忘れてならない大切な真理を教えておられるのではないでしょうか。まず、人間は多種多様の物質世界の躍動の中で偶然に産まれ出たのではなく、神が直接にその全能の力を働かせて土の塵から形造られ、大きな愛をもってその鼻に命の息を吹き入れることにより生きる者になったということです。

② こうして優れた知的能力と自由とを持つ存在、万物の霊長として創られた人間が、もしその自由を悪用して神の御言葉に従わず、神に反抗する存在に堕落するなら、神の御心を深く傷つけ、土の塵に戻されることも覚悟しなければならないことを、この神話は教えているのではないでしょうか。第一朗読にはない続きの話を読みますと、幸い神は人間に苦しみを与えるだけで、その苦しみに耐えて生きつつ、将来神が派遣なさる一人の子孫によって救われる道を、この神話の中で啓示なさいました。神のこの大きな憐れみに信頼しましょう。

③ 本日の第二朗読の中で使徒パウロは、全人類の罪を背負ってご自身を十字架上のいけにえとして神にお献げになった主イエスの御功徳、その御恵みは、人祖アダムが神に対して犯した罪よりも遥かに大きなものであり、アダムの罪の穢れが全ての被造物に及び、死が全ての人を支配するようになったのなら、主イエスの功徳による罪の赦しや新しい命の恵みも、その罪の支配を打ち砕いて、全ての人の上に豊かに与えられることを示そうとしています。

④ 人祖アダムは、いわばこの世の土から造られた人間で、そこに神が天からの命の息、すなわち超自然の命の力と潤いを吹き入れることによって生きる者となった存在でしたが、アダムが神に背く罪によってその命の力と潤いを失ってしまうと、この世は荒れ野の大地のように乾き切って、労苦と死の世界になってしまった、と使徒パウロは考えていたのかも知れません。もちろん荒れ野といっても、本来豊かな実りをもたらす可能性を備えている土地として造られているですから、天からの雨に豊かに恵まれることがなくても、生きるための厳しい労苦から体験的に学ぶ人間の知恵の蓄積で、何とか生き抜く道は神の憐れみによって残されていたと思います。そこに万物の創造主、命の息の本源であられる全能の神の御子ご自身が人間となって出現し、人類の全ての罪科を背負って痛ましい受難死を遂げられた後、あらかじめ予告しておられた通りに三日目に、もはや死ぬことのない神の永遠の栄光の命に復活なされ、天から恵みの雨を豊かに降り注がせる道が開かれたのです。

⑤ 使徒パウロがここで、「一人の罪によりその一人を通して死が(この世に入り、)支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人(主イエス)」「一人の正しい行為によって、全ての人が義とされて命を得ることになったのです」と確信したのは、当然であると思われます。「一人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」という使徒の言葉を素直に受け止め、私たちも主イエスと内的に深く一致して多くの人の罪科を背負い、日々ご自分の身にふりかかる労苦を快く耐え忍びつつ、天の父に祈っておられた主の献身的愛の精神で生きるよう心がけましょう。

⑥ 本日の福音の始めには、「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた」という言葉が読まれます。毎年四旬節の第一主日に読まれるこの「四十日間」が、教会が古来「主の復活祭」前に伝統的に順守している四旬節の原型であります。四旬節は単に断食する、あるいは節食する、あるいは貧しい人たちに応分の寄付をするという、教会側から年毎に推奨される外的実践に努めるだけの期間ではなく、何よりも主イエスと一致して、自分の心の中にも働く悪魔の誘いに戦う心を、実践的に鍛錬する期間なのではないでしょうか。節制によって自分の心を統御するのも、その手段の一つだと思います。教会から勧められている小斉や大斉も、その手段の一つです。外的手段の実行にだけ注目して、四旬節の内的目的を見失わないよう気をつけましょう。

⑦ 明日の2月11日は、1858年2月11日に聖母マリアがフランスのルルドにご出現になった150周年記念に当たります。ルルドで奇跡の泉を湧き出させて世界各国から来る無数の病人を癒したり、生きる希望を与えたりなさった聖母のその奇跡的お働きを記念して、2月11日はカトリック教会で「世界病者の日」とされていますが、現教皇は聖母ご出現の150周年を記念し、世界に向けてメッセージをお出しになりました。皆様も既にお読みになったでしょうが、教皇はその中で、今年の6月にカナダのケベックで開催される国際聖体大会にも言及し、聖母マリアの働きとキリストの聖体の秘跡とを関連させて解説しておられます。私たちもその教えに従い、聖体の秘跡の力に生かされ力づけられて、病者のための祈りや奉仕に努めるよう心がけましょう。

⑧ 現代のカトリック者の中には、病気の医学的側面についてしか考慮せず、そこにその人の宗教心も深く関与していることを認めていない人が多いようですが、これは主キリストがお示しになった実践や主の御言葉、そして使徒たちの模範や古い教会の伝統に反していると思います。主は積極的に非常に多くの病人を癒し、そして病人を癒す権能と使命とを与えてそのお弟子たちを派遣しておられます。病苦や死が始まったのは人間が神に背を向ける罪を犯したからで、神よりの招きやメッセージを受け入れ、それに従おうとするなら、神はその人の罪を赦し病気を癒す大きな愛の持ち主であることを実証し、多くの人を神の国へと招き入れるためであったと思われます。それで使徒ヤコブはその書簡に、「病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは病人を救い、主がその人を起き上がらせて下さいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦して下さいます」などと書いています。これは、多くの病人を世話したり癒したりした体験に基づく言葉であると思います。体の病気は、その人の信仰心とも深く関連しているのです。そこに、病人のための宗教者の使命もあります。聖母は150年前に、そのことを私たちに悟らせるためルルドにご出現になったのではないでしょうか。

⑨ 私は、1970年代から南山大学の信者の元教授や職員、あるいはその家族など、多くの重病人を見舞って次々とあの世に見送って来ましたが、度々病油の秘跡を授けていますと、病気を癒すことはできなくても、病状を好転させることがありましたし、少なくとも病苦を素直な信仰心で受け止め、主のご受難に内的に参与して忍耐強く耐え忍ぶ力を与えているように思うことが、幾度もございました。信徒であっても、信仰をもって病者のために祈るなら、医学では与えることのできない心の力を神から呼び下し、その病者を慰め力づけることができると信じます。私たちには、その使命もあるのではないでしょうか。