2011年3月20日日曜日

説教集A年:2008年2月17日四旬節第2主日(宝塚の売布で)

第1朗読 創世記 12章1~4a節
第2朗読 テモテへの手紙2 1章8b~10節
福音朗読 マタイによる福音書 17章1~9節

① 本日の第一朗読は、後にアブラハムと改名したアブハムの、ある意味で召し出しの話と称してもよいと思います。先週の水曜日に名古屋の南山教会で、カトリック者たちのあるグループでアブラハムの話をしましたら、後で「アブラハムはその声を天から聞いたのでしょうか」という思わぬ質問を受けました。実は皆様も私の著書『一杯の水』からご存知のように、私も昭和22年の夏に受洗して、翌年3月始めの早朝、暗い橋の上で見送る母と別れて多治見修道院へと行く時、はっきりと同じような神よりの声を聞いたことがあります。その声は自分の外からではなく、自分の胸の方から聞こえました。それで私の推察ですが、アブハムも、恐らく自分の胸の方から神の声を聞いたのではないでしょうか。

② 勿論、主イエスのヨルダン川でのご受洗やご変容の時のように、神の声が外から聞こえることもあるでしょうが、私は、アブラハムはいつもはっきりと心臓の方から聞こえるその声を神の声と識別し、その声に従おうとしておられたのではないかと想像しています。私は南山大学で「キリスト教思想史」について教えた時、いつも理知的な頭の考えと心に思い浮かぶ考えや勧めなどとを識別して、賢明に対処するよう話していました。お名前を失念しましたが、ある作曲家は戦争中に小学生として都会から父の出身地である新潟県に疎開させられた時から、美しい大自然に触れる度毎にメロディーが次々と心に浮かび、もしそれらをすぐ記録していたら、数千の作曲に成っただろうと語っているのを聞いたことがあります。作曲家に多いこのような現象の時も、それらのメロディーは察するに頭にではなく、心に浮かぶのではないかと思われます。恐らく天才モーツァルトも、4歳の時から自分の心に浮かぶそのようなメロディーを書き下ろすことによって、数多くの美しい音楽を作曲したのではないでしょうか。ベートーベンは、こうして書き下ろしたメロディーを後で頭を使って幾度も磨き上げたようですが、作曲の段階で心が大きな役割を演じていたことは変わりないと思います。

③ 私たちの心は、真に神がお創りになった霊界の道具でもあると思います。そこには、悪魔も巧みに囁きかけることがあるかも知れません。それで、悪霊からの呼びかけには毅然として拒否しつつ、神からの呼びかけを正しく識別し、アブラハムのように、その声に従うよう心がけましょう。それが、私たちの接する多くの人々の上に、神の祝福を呼び下す道であると信じます。本日の朗読の中で、神はアブラハムに「あなたにしよって地上の全ての民族は祝福を受ける」と約束しておられます。ご聖体の秘跡を身に受ける私たちも、主キリストと一致して祈りと愛の業に励むなら、この世の多くの人の上に神の祝福を呼び下すのではないでしょうか。

④ 本日の第二朗読には、使徒パウロが愛弟子テモテに、「神の力に支えられて、福音のため私と共に苦しみを忍んで下さい」と願っています。これは、自分が苦しみを献げれば、それによって主キリストの救いの恵みが他の人たちの所で豊かな実りをもたらすという、度重なる体験に基づく言葉であると思います。主イエスの受難死の功徳による救いの恵みは、主と一致して苦しみを献げる実践を介して、多くの人の心に実りをもたらすのではないでしょうか。朗読の最後に読まれる「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現して下さいました」という使徒の言葉も、自分の苦しみや死を、今病気や死に直面して苦しんでいる人々の救いのため、喜んで献げようとする心で受け止めるように致しましょう。

⑤ 本日の福音によると、高い山の上での主イエスの光輝くご変容に見とれていた三人の弟子たちを、突然光輝く雲が覆い、その雲の中から「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」という、恐らく威厳に満ちた声が聞こえたので、弟子たちはひれ伏し、非常に恐れたとあります。神が使徒たちから、また私たちから求めておられることは、この世に貧しい人間の姿で、あるいは御聖体のパンの姿で出現なされた主イエスを、神の御独り子として堅く信じることと、そのお言葉に聞き従うことなのではないでしょうか。

⑥ 大勢いるキリスト者の中には、聖書の言葉に従って教会を改革しようとする人や、主の福音を多くの人に伝えるために、自分の全てを捧げて献身的に働こうとしている人もいますが、自分で考え自分の力で神のために何かしようとする、その善意には敬服します。しかし、それが果たして神の望んでおられることなのかとなると、首をかしげたくなります。神が望んでおられるのは、何よりもアブラハムのように、神の声、神のご計画に実践的に聞き従う信仰の人であることなのではないでしょうか。主の御変容を目撃した使徒たちも、主のご復活の後は自分中心の夢や考えに死んで、ひたすら神のお考え中心・神の働き中心に生きようと努めています。四旬節にあたり、とかく自分中心に、あるいは規則中心に考え勝ちな私たちも、神の御旨中心に生きる生き方を新たに見出すよう、神の照らしと導きの恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。