2008年5月18日日曜日

説教集A年: 2005年5月22日:2005年三位一体の主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 出エジプト 34: 4b~6, 8~9. Ⅱ. コリント後 12: 11~13.  Ⅲ. ヨハネ福音 20: 19~23.

① 本日の第二朗読の終わりにある「主イエス・キリストの恵み、神の   愛、聖霊の交わりが、あなた方一同と共にあるように」という祈りの言葉は、ミサの始めの司祭の挨拶にも採用されていますが、新約の神の民が神の愛、聖霊の働きによって主キリストを頭とする一つ共同体を構成しており、一つ共同体として生きる使命を神から戴いていることを、私たちの心に想い起こさせます。私たちの信奉している神も、唯一神ではあっても決して孤独な神ではなく、三位一体という共同体的神なのです。おひとりだけの孤立した神でしたら、「愛の神」とは言えないと思います。他者には閉ざされた、おふたかただけの愛の神でもありません。お三方が互いにご自身を限りなく与え合っている愛の神なのです。その神の愛に参与し生かされて、一つ共同体となって神のため、全ての人のため、全世界のために生きるというのが、私たち神の民の使命ではないでしょうか。

② 「作品は作者を表す」と申しますが、三位一体の神の被造物の中には、よく注意して観察してみますと、三つが全く一つになっているものが少なくありません。例えば「火」には、物を燃やす強力な力と、闇を明るく照らす光と、寒さを排除して温める熱とが同時に存在し、全く一つになっています。同様に「太陽」にも、私たちの地球やその他の惑星を安定した位置に保持し支えてくれている強大な万有引力と、絶えず周辺を明るく照らして闇を駆逐し、地球上の無数の植物に光合成によって酸素を産み出させてくれている光線と、物資や生物を温め育んでくれている熱線とが一つになっています。もし仮に太陽がその力と光と熱の放射を止めたとしたら、私たちの存在も地球全体も、忽ち恐ろしい死の闇とマイナス 270度以上という極度の寒冷空間を当て所もなく彷徨うことになります。それらのことをいろいろと考え合わせますと、私たちの生活は、三位一体の共同体的愛の神に何らかの意味で似せて創られている、無数の相利共存的存在(すなわち相互に利益を与え合って共存する存在)に支えられており、私たち自身も同様に、三位一体の神の愛に生かされ支えられつつ、大自然界のその相利共存的秩序や生態系を大切にし、感謝のうちに神と全ての被造物に仕えるよう召されているように思います。いかがなものでしょうか。

③ ところで、三位一体の神を特別に崇め尊ぶために中世初期から一部の地方で祝われ、14世紀前半からは一般的に聖霊降臨後の日曜日に祝われることになったこの大祝日に当たり、主イエスが「父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けなさい」とおっしゃった、この父と子と聖霊というのは、神の唯一の全く単純な神性とどう関連しているのであろうかなどと、私たちの分析的な人間理性で考えると、三位一体の神はこの世の知性では理解できない非常に大きな神秘だと思われます。古代教会には、この三位一体の奥義について人間理性に解り易く説明しようと試みた異端説が次々と現れたので、その度毎に公会議が開催され、信仰の統一と明確化が図られましたが、その結果、公会議教父たちによってこの奥義を説明するために「ペルソナ」という全く新しい用語が創られ導入されました。「ペルソナ」という用語は、元々ギリシャ悲劇などで役者が被る面のことを指しており、面を被った役者は、室町時代に日本で創作された能面を被った役者のように、素顔で登場するこの世の人ではなく、あの世に移った人の霊を示しており、面はその霊の役割や働きなどのシンボルだったようです。古代の公会議教父たちはこの「ペルソナ」という用語で、人間理性では理解し難い三位一体の神の内部における、父・子・聖霊の働きの相互関係を象徴的に示そうとしたのだと思われます。

④ しかし、ここで気をつけなければならないことは、後の時代になって「ペルソナ」という言葉は人間にも類比的に使われるようになり、英語ではperson と言いますが、例えば哲学者たちが「理性的本性の個別的実体」などという意味で使う人間のペルソナと、神のペルソナとは本性的に違っていることであります。人間のペルソナには自存する個別的実体という側面も伴いますが、三位一体の奥義を説明するために導入された本来の「ペルソナ」という概念には、そういう個別的実体という側面は全くなく、ただペルソナとペルソナとの愛の実存関係、協力関係だけしか内包していません。従って、私たち人間の知性にとっては理解し難い大きな神秘なのですが、同じ全く単一の神性の内部に三つのペルソナが相互に愛し協力し合って、存在し活動していることも可能なのです。

⑤ 主はその三つのペルソナを「父と子と聖霊」と表現なさいましたが、私たち人間には、父と子のイメージは何とか心に思い浮かべることができても、聖霊のペルソナとしてのイメージを思い浮かべるのは難しいです。そこでヘリベルト・ミューレンというドイツ人の神学者は、聖霊のペルソナを「我々」と表現して、近年多くの神学者たちの注目を引いています。父と子の相互関係から発出された愛の霊は、言わば「我々」というペルソナとなって、父と子を一つに結ぶ愛の命、愛の火に燃えていますが、神が創造なされた全ての被造物の中でも「我々」として内在し、内面から生かし支え導いて、神に所属する共同体にしているという神学思想です。聖霊は無数の人間のペルソナとは全く違う超越的神の次元にあるペルソナで、その次元から全ての事象や人々の背後にあって、「我々」として独自の全く自由な働きを展開し、神の下に統括しておられるペルソナなのではないでしょうか。

⑥ 私は数年前にこの考えを知り、深い感動を覚えました。聖霊のこのような内在は、ここでは詳述しませんが、聖書の多くの言葉にもよく適合していると思うからです。例えばルカ12章には、権力者たちの前に連れて行かれても、「どのように弁明しようか、何を言おうかと心配することはない。言うべきことは、聖霊がその時教えて下さるから」という主のお言葉がありますし、同じ主はご昇天の直前に、「父と子と聖霊の名において洗礼を授けよ」と命じておられます。これは、父と子と聖霊の愛の交流に受洗者を参与させ、私たち人間を神の愛によって生かされて生きる存在に高めようとする恵みを、意味している言葉ではないでしょうか。使徒パウロはアテネのアレオパゴスで、「私たちは神のうちに生き、動き、存在する」という前6世紀のギリシャの詩人の言葉を引用して、それを肯定していますが、私たちは実際、太陽の引力・光・熱よりももっと遥かに大きく三位一体の神の存在と働きに依存し、こうして日々の生活を営んでいるのではないでしょうか。本日は、神からのその隠れている絶大な恵みに感謝しながら三位一体の神を讃美し、その計り知れない神秘を崇め尊ぶ祝日なのではないでしょうか。

⑦ 始めに「新約の神の民は神の霊・聖霊の働きによって主キリストを頭とする一つ共同体を構成している」と申しましたが、最後に、この一つ共同体について、少しだけ考えてみましょう。これは、使徒パウロがコリント前書12章の中で、「全てのものの内に全てのことをなさるのは」同じ神の霊であることと、「あなた方はキリストの体であり、一人一人はその部分なのです」などと詳述している教えに基づいて申した話ですが、私は、キリストの体の部分とされている私たち各人は、現代風に言うなら、成人した人体に60億もあると言われる個々の細胞のような存在であると考えています。各細胞は、それぞれヒトゲノムと言われる人体全体の設計図のようなものを持っており、増殖機能・代謝機能・情報授受機能等々を備えて、かなり主体的に生存しています。しかし、より大きな生命に生かされて生きている存在であり、その生命から切り離されたら死んでしまう小さなか弱い存在であります。同様に私たち各人も、自分では自覚していなくても、より大きな神のいのちの内に生かされているのではないでしょうか。パウロは、その大きな神のいのちを「キリストの体」と呼んでいるのだと思います。その一つ共同体の中を自在に駆け巡って各細胞に必要な養分を供給したり、老廃物を運び去ったり、痛んだ部分を癒したりしてくれる血液は、聖霊の働きに譬えてもよいのではないでしょうか。三位一体の祝日に当たり、神のこのような隠れた働きに対する感謝の心を新たにしながら、本日の感謝の祭儀を捧げましょう。

2008年5月11日日曜日

説教集A年: 2005年5月15日:2005年聖霊降臨の主日(三ケ日)

朗読聖書:  Ⅰ. 使徒言行録 2: 1~11. Ⅱ. コリント 12: 3b~7, 12~13. Ⅲ. ヨハネ福音 20: 19~23.

① 本日の第一朗読の始めに「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」とある言葉は、大切だと思います。弟子たちは、主がご昇天の直前にエルサレムを離れないようにと命じて、「数日のうちに聖霊によって洗礼をうけるから」(使徒 1:5) とおっしゃったお言葉に従ってエルサレムに留まり、聖母マリアや婦人たち、「およびイエズスの兄弟たちと共に心を合わせてひたすら祈っていた」(使徒 1:14) のだと思います。神が計画しておられる五旬祭の日が来なければ、一同が心を合わせてどんなに熱心に祈り続けても、聖霊は降臨しなかったでしょうし、五旬祭の日が来ても、その時主のお言葉に従ってエルサレムに一緒にいなかった人には、聖霊は降臨しなかったと思われます。従って、今でもあの時のように心を一つにして熱心に祈れば聖霊は降臨する筈だ、などと考えることはできません。

② 私の学生時代に、ある説教者がそのように説いて、信徒たちの熱心を奮起させようと熱弁を振るっている説教を聞いたことがありますが、私は少し冷めた心でその話を聞き流していました。神の御旨の時でなければ、どんなに熱心に祈っても聖霊は降臨しないと思っていたからでした。神のご計画とそれに従う私たち人間の準備や努力とは、このような関係にあると思います。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」という主の呼びかけについても、同様に考えてよいと思います。主が呼びかけておられるその時に、そのお言葉に従って新しい生き方に転向する人は、神の恵みを豊かに受けますが、その時怠っていて好機を逸してしまう人は、後でそのことに気づいて自力でどんなに努力しても、その時失った恵みの豊かさには達し得ないと思います。ですから、常日ごろ何よりも神の働きや導きに心の眼を向け、神のお望みの時にすぐにそれに従うことができるよう、祈りつつ準備していることが大切だと思います。自分の計画や自分の都合よりも、神からの指示や神のお望みに、何をさて置いても従おうとしているのが、主の僕・婢としての心構えであり、神よりの恵みを人々の上に豊かに呼び下す生き方であると信じます。主イエスや聖母マリアが実践しておられたそのような生き方を、現代の私たちも日々実践するよう努めましょう。

③ この東海地方では今年も春の好天に恵まれる日が多いようですが、私は都合がつく時には、そのような日によく数キロ乃至十数キロの散歩や遠足を致しています。3年前の5月3日にも、好天に恵まれて関が原近くの垂井町周辺の姫街道や東海自然歩道を十数キロ歩き、久しぶりに中天にさいずる雲雀の姿や、広々と何町歩も続く蓮華草の花畑を眺めて来ました。しかし、大型連休中なのに、農家の人たちは田植えやその他の仕事で、子供も総出で忙しく働いていました。祝日・連休というくつろぎたい人間側の都合よりも、自然界のリズムによって例年より少し早く訪れた温かい好天の日々を利用して働いていたのだと思います。自然界の草木も虫や鳥たちも、年毎に違う天候自然の動きに何よりも注目しながら、あるいは雨の降るのを忍耐強く待ち、あるいは例年よりも早く芽を出し卵を産むなどの営みをしているのではないでしょうか。私たちもそれに学んで、風のように目には見えない神の働きや導きに対する心の感覚を鋭くし、すぐに従おうとしている忠実な僕や婢の心を堅持していましょう。実際聖霊の導きや働きは、自然界の風のようにいつどちらから吹いて来るのか予測し難く、また突然変わることもあるので、その変化を見逃さないよう絶えず目覚め、気をつけていましょう。

④ 神の国へと召されている私たちキリスト者にとって、決定的なのは人間側の努力ではなく、神の働きであります。大洋を渡るヨットを想像してみて下さい。人間は自分の漕ぐ力によっではなく、自然の風や海流を利用して進んでいます。もちろん人間も目覚めて働いています。特に風の強い時や変わり易い時には、一瞬も休まず油断せずに、その風の動きに従っていると思います。本日の第二朗読の中で使徒パウロは、賜物にも務めにも働きにもいろいろあるが、それらをお与えになるのも働かれるのも神である、と説いています。私たち一人一人は、神の働きの器、神の使者・協力者として造られ、召されていると思います。これが、キリスト教的人間観だと思います。杯やお椀などの中心は空の部分ですが、主のお言葉にもありますように、外側はどんなに綺麗に洗ってあっても、内側に汚れた欲望や利己的計画などがいっぱいに入っているなら、神の器としては使い物にならず、神から捨てられてしまうことでしょう。私たちも、神の器・聖霊の神殿として、何よりも自分の魂の内にいらっしゃる聖霊の現存を信じ、そこからの聖霊の風に心を向けながら、生活するよう心がけましょう。

⑤ 本日の福音によりますと、聖霊が五旬祭の日に劇的に降臨する以前にも、復活の主は、既にその復活当日の夕刻に、弟子たちに息吹きかけて聖霊を与えておられます。そして聖霊を与えることと、弟子たちの派遣とを一つに結んで話しておられます。このことは、現代の私たちにとっても大切だと思います。聖霊の霊的な火を心に受けるということは、神から一つの新しい使命を受けることなのです。すなわちその火を自分一人のものとして心の奥にしまい込んだり覆い隠して置いたりしないで、積極的に自分の周囲の人たちの心を照らし温めることに努める、という使命を受けることなのです。

⑥ 人間性の罪と言われる、魂の奥底に宿る原罪に由来する心の弱さや悩みを抱えて苦しんでいる人はたくさんいますが、その人たちの魂をその原罪から解放し、罪を赦して下さるのも聖霊の火だと思います。罪は赦しの秘跡の時に告白すれば、聴罪司祭の赦しの言葉によって皆赦されるなどと、あまりにも外的法律的に考えないよう気をつけましょう。神が問題にしておられるのは、そんな外的法律的な違反行為ではなく、何よりも私たちの心の奥底に隠れ潜む罪の毒素であり、その罪から魂を浄化するのは、神の愛・聖霊の火であります。たとい聴罪司祭から赦しの言葉を戴いても、その赦しの恵みに相応しい心で神の愛に生きるよう努めなければ、その赦しの恵みは魂の中にまでは浸透できず、心はいつまでも元の木阿弥だと思います。私たちが日々の営みの中で、いつも聖霊の火を心の奥に燃やしつつ、出会う人々の心に神による赦しと平和の恵みを、また希望と喜びの光を伝えることができますように、聖霊による照らしと謙虚に仕える心とを願いつつ、本日の御ミサを捧げましょう。

⑦ 皆様もお聞きになったでしょうか、先週のラジオ深夜便に元東大教授で6年前に亡くなられた玉城康四郎氏の、「人類の教師たち」と題する7年前にも放送された話が、再放送されていました。玉城氏によると、古来人類の教師として崇敬されている釈尊もイエスもソクラテスも孔子も、その教えの内容を原典に遡って探求し吟味してみると、表面では宗教・哲学・道徳などと担当領域も、使う言葉や表現も異なってはいますが、結局は皆同じ大きな超越的霊の働きに目覚め生かされて語っています。それで玉城氏は、全人類諸民族が相互にますます密接に関係しつつある現代社会の諸問題を解決するため、これらの偉大な教師たちが等しく強調している生き方を新たに体得し広めることが緊急に必要になっていると、説いていました。私はその話を聞きながら、聖書に述べられている聖霊の働きのことを考えていました。聖霊はキリスト教会の中だけではなく、広く全人類の諸民族・諸文化の中でも旺盛に働いていると信じます。釈尊もソクラテスも孔子も、皆その聖霊の働きに生かされ導かれてその教えを残されたのではないでしょうか。玉城氏の踏み込んだ研究と提案に感謝しながら、私たちも小さいながら、争い悩む現代の諸国・諸民族の救いのために聖霊の導き・働きに一層心を込めて従うよう励み、またその恵みを全人類の上に願い求めましょう。

2008年5月4日日曜日

説教集A年: 2005年5月8日:2005年主の昇天(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒言行録1: 1~11. Ⅱ. エフェソ 1: 17~23. Ⅲ. マタイ福音 28: 16~20.

① 五月の第二日曜日を「母の日」として祝う慣習が全国的に広まって定着していますが、戦後のわが国で能力主義教育だけが強調され、心の教育が軽視され勝ちであった風潮の中で、多少なりともバランスを取り戻そうとして広まったのかも知れません。しかし、母子の愛が冷えている家庭が今なお少なくないようですから、せめてこの「母の日」に、子供たちが単に言葉で母に感謝し、プレゼントするだけの行事ではなく、その心が自分を生み育ててくれた母の存在と愛にあらためてもっと深く目覚めるように、また母親たちの心にも新たに母性愛が深まり成熟するように、本日のミサ聖祭の中で神の霊の照らしと導きとを祈り求めましょう。

② 本日の福音には、問題となる表現が一つあります。11人の弟子たちがガリラヤの山で復活なされた主と出会って伏して拝んだ後に、ギリシャ語原文によると、「しかし、疑った」と続いている言葉です。それ以前に何度も復活の主に出会って、もう主の復活を確信していたと思われる弟子たちなのに、ここでは主を伏し拝みながら疑ったとあるのは、少しおかしいのではないかという疑問からか、ラテン語訳の聖書は、「しかし、ある者たちは疑った」と訳しかえ、多くの訳書はそれに従っており、日本語の共同訳でも「しかし、疑う者もいた」と訳しています。これについて聖書学者の雨宮慧神父は、ギリシャ語の「疑う(ディスタゾー)」という言葉は、語源から見て、「二つの方向に歩む」という意味を持つので、弟子たちの心は主に出会って、二つの思いに分かれ戸惑うような試練を体験したのではなかろうか、と解説しています。雨宮神父によると、マタイは他にも一度14章に、水上を歩いて主に近づいたペトロが風に荒れる波を見て溺れかかった時、主が同じ言葉を使って、「なぜ疑ったのか」と叱責なされたように書いているので、ペトロの信仰心の奥に、まだ眠っている心の側面に活を入れて徹底的信仰へと立ち上がらせるための叱責であったと思われます。としますと、この「ディスタゾー」という言葉は、弟子たちの信仰に揺さぶりをかけて、それを一層深く固めさせる試練の時に使われる言葉であると思われます。主のご昇天直前の場面でも、11人の弟子たちが皆一瞬心の中にそのような一時的試練を体験し、そこに主が近寄って話し始めると、すぐその試練から解放され、一層徹底的に主に従う心になったのかも知れません。

③ 主はここで、弟子たちに三つのことを話されます。その第一は、主が天と地の一切の権能を授かっていること、第二は、弟子たちが全ての民を主の弟子とし、洗礼を授けて、主が彼らに命じたことを全て守るように教えること、第三は、主が世の終わりまでいつも弟子たちと共にいることであります。「全ての民を私の弟子にしなさい」というギリシャ語の原文が、ラテン語に「全ての民に教えなさい」と訳されたために、古いラゲ訳聖書などには「汝等往きて万民に教えよ」と邦訳され、それが昔のカトリック界に広まったこともありましたが、無学なガリラヤ出身者たちが高度の文化を持つギリシャ・ローマ人たちに教えるなどということは、とてもできない話です。しかし、彼らが人々に自分の信仰体験を語り、人々の心を主の弟子にすることは可能だと思います。主との師弟関係は心と心の関係であって、文化的知識や教養などの上下とは無関係だからであります。このことは、現代の宣教者にとっても大切だと思います。教えるのではなく、自分の信仰体験から語ったり証ししたりして、主の弟子となるように人々の心に呼びかけ、人々の心を主の方へと導けばよいのです。初代教会の宣教者たちは、ペトロもパウロも、皆自分の見聞きした神の働きについて多くを語っていたと思われます。自分の失敗や弱さについても、神から受けた恵みの豊かさについても。ですから、聴く人々の心に「自分もそのような生き方をしたい」という憧れの火を点火して、神信仰へと導くことができたのだと思います。

④ 現代の宣教師たちが大きな成果を挙げることができずにいるのは、神の働きについての自分の不思議体験よりも、形骸化した宗教的知識を教えようとしているからではないでしょうか。パウロはローマ書の第1章に、「福音は信じる全ての者に救いをもたらす神の力です」と力説しています。頭に説明し伝えることのできる単なる知識やノーハウの技術ではありません。驚きと畏れの心が目覚めてこそ受けることのできる、神の救う力、神秘な力なのです。使徒パウロは本日の第二朗読の中でも、「栄光の源である御父が、あなた方に知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の眼を開いて下さるように」、「また、私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれ程大きなものであるかを悟らせて下さるように」などの祈りをなしています。いずれも頭の理知的能力では理解できない神の力とその働きを、神の霊によって照らされ高められた心で悟るようになる恵みを、願い求めている祈りだと思います。現代の宣教師たちも、頭よりも心に語りかけ、心に神の働きと力を悟る恵みを執り成し伝える宣教師であるように、と祈りたいものです。

⑤ 最後に、主のご昇天についても少し考察してみましょう。集会祈願には、「主の昇天に、私たちの未来の姿が示されてします。云々」という言葉が読まれます。私たちは皆、主キリストと一致してこの世の過ぎ去る命に死に、主のように天に昇るよう召されているのです。日々天体を観測している天文学者の多くは、小さな地球世界とは違う悠久広大な宇宙の神秘に感動し、しばしば自分とは何かなどという人生の神秘についても、考えさせられることがあると聞きます。神はご自身に似せてお創りになった人間を、いつまでもこの小さな地球世界にだけ居住させて置くのではなく、主キリストと一致して罪の体に死んだ後の将来は、もはや死ぬことのない主の復活体のような霊的体にして、広い宇宙を自由に駆け巡りながら神を讃え、神の愛に生きるようにすることを望んでおられるのではないでしょうか。

⑥ しかし、そのような霊的体に復活するためには、最後の晩餐の時の主のように、人々を神の愛をもって極限まで愛することと、何らかの形で主と共に多くの人の罪科を背負い、自分を神へのいけにえとして捧げることが必要なのではないでしょうか。死の苦しみは、私たちキリスト者が一生のうちで為すことのできる最高の業、主と一致して神に捧げる最も価値ある司祭的いけにえだと思います。私たちが主と共に、いつの日か多くの人の救いのために自分を一つの司祭的いけにえとなして天父に捧げ、主のように晴れて昇天できるよう、そして多くの人の上に神からの恵みと助けを呼び下すことができるよう、大きな明るい希望と愛のうちに、今から主と共にこの世に死に、主と共に天に昇る心の準備をしていましょう。主も天上から「私に従いなさい」と、温かい眼差しを向けておられることと信じます。自力では不可能ですが、主の体の無数の細胞の一つとなり、日々自分の中の古いアダムに死んで、主の聖霊、主の御血潮、主の復活の力に生かされて生きることに心がけるなら、可能になるのではないでしょうか。明るい意欲的希望に生きるよう努めましょう。希望は銀の食器のように、この世においては日々心を込めて大切にし、磨いていないと灰色になってしまいます。私たちの希望は、輝きを失っていないでしょうか。反省してみましょう。