2008年5月4日日曜日

説教集A年: 2005年5月8日:2005年主の昇天(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒言行録1: 1~11. Ⅱ. エフェソ 1: 17~23. Ⅲ. マタイ福音 28: 16~20.

① 五月の第二日曜日を「母の日」として祝う慣習が全国的に広まって定着していますが、戦後のわが国で能力主義教育だけが強調され、心の教育が軽視され勝ちであった風潮の中で、多少なりともバランスを取り戻そうとして広まったのかも知れません。しかし、母子の愛が冷えている家庭が今なお少なくないようですから、せめてこの「母の日」に、子供たちが単に言葉で母に感謝し、プレゼントするだけの行事ではなく、その心が自分を生み育ててくれた母の存在と愛にあらためてもっと深く目覚めるように、また母親たちの心にも新たに母性愛が深まり成熟するように、本日のミサ聖祭の中で神の霊の照らしと導きとを祈り求めましょう。

② 本日の福音には、問題となる表現が一つあります。11人の弟子たちがガリラヤの山で復活なされた主と出会って伏して拝んだ後に、ギリシャ語原文によると、「しかし、疑った」と続いている言葉です。それ以前に何度も復活の主に出会って、もう主の復活を確信していたと思われる弟子たちなのに、ここでは主を伏し拝みながら疑ったとあるのは、少しおかしいのではないかという疑問からか、ラテン語訳の聖書は、「しかし、ある者たちは疑った」と訳しかえ、多くの訳書はそれに従っており、日本語の共同訳でも「しかし、疑う者もいた」と訳しています。これについて聖書学者の雨宮慧神父は、ギリシャ語の「疑う(ディスタゾー)」という言葉は、語源から見て、「二つの方向に歩む」という意味を持つので、弟子たちの心は主に出会って、二つの思いに分かれ戸惑うような試練を体験したのではなかろうか、と解説しています。雨宮神父によると、マタイは他にも一度14章に、水上を歩いて主に近づいたペトロが風に荒れる波を見て溺れかかった時、主が同じ言葉を使って、「なぜ疑ったのか」と叱責なされたように書いているので、ペトロの信仰心の奥に、まだ眠っている心の側面に活を入れて徹底的信仰へと立ち上がらせるための叱責であったと思われます。としますと、この「ディスタゾー」という言葉は、弟子たちの信仰に揺さぶりをかけて、それを一層深く固めさせる試練の時に使われる言葉であると思われます。主のご昇天直前の場面でも、11人の弟子たちが皆一瞬心の中にそのような一時的試練を体験し、そこに主が近寄って話し始めると、すぐその試練から解放され、一層徹底的に主に従う心になったのかも知れません。

③ 主はここで、弟子たちに三つのことを話されます。その第一は、主が天と地の一切の権能を授かっていること、第二は、弟子たちが全ての民を主の弟子とし、洗礼を授けて、主が彼らに命じたことを全て守るように教えること、第三は、主が世の終わりまでいつも弟子たちと共にいることであります。「全ての民を私の弟子にしなさい」というギリシャ語の原文が、ラテン語に「全ての民に教えなさい」と訳されたために、古いラゲ訳聖書などには「汝等往きて万民に教えよ」と邦訳され、それが昔のカトリック界に広まったこともありましたが、無学なガリラヤ出身者たちが高度の文化を持つギリシャ・ローマ人たちに教えるなどということは、とてもできない話です。しかし、彼らが人々に自分の信仰体験を語り、人々の心を主の弟子にすることは可能だと思います。主との師弟関係は心と心の関係であって、文化的知識や教養などの上下とは無関係だからであります。このことは、現代の宣教者にとっても大切だと思います。教えるのではなく、自分の信仰体験から語ったり証ししたりして、主の弟子となるように人々の心に呼びかけ、人々の心を主の方へと導けばよいのです。初代教会の宣教者たちは、ペトロもパウロも、皆自分の見聞きした神の働きについて多くを語っていたと思われます。自分の失敗や弱さについても、神から受けた恵みの豊かさについても。ですから、聴く人々の心に「自分もそのような生き方をしたい」という憧れの火を点火して、神信仰へと導くことができたのだと思います。

④ 現代の宣教師たちが大きな成果を挙げることができずにいるのは、神の働きについての自分の不思議体験よりも、形骸化した宗教的知識を教えようとしているからではないでしょうか。パウロはローマ書の第1章に、「福音は信じる全ての者に救いをもたらす神の力です」と力説しています。頭に説明し伝えることのできる単なる知識やノーハウの技術ではありません。驚きと畏れの心が目覚めてこそ受けることのできる、神の救う力、神秘な力なのです。使徒パウロは本日の第二朗読の中でも、「栄光の源である御父が、あなた方に知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の眼を開いて下さるように」、「また、私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれ程大きなものであるかを悟らせて下さるように」などの祈りをなしています。いずれも頭の理知的能力では理解できない神の力とその働きを、神の霊によって照らされ高められた心で悟るようになる恵みを、願い求めている祈りだと思います。現代の宣教師たちも、頭よりも心に語りかけ、心に神の働きと力を悟る恵みを執り成し伝える宣教師であるように、と祈りたいものです。

⑤ 最後に、主のご昇天についても少し考察してみましょう。集会祈願には、「主の昇天に、私たちの未来の姿が示されてします。云々」という言葉が読まれます。私たちは皆、主キリストと一致してこの世の過ぎ去る命に死に、主のように天に昇るよう召されているのです。日々天体を観測している天文学者の多くは、小さな地球世界とは違う悠久広大な宇宙の神秘に感動し、しばしば自分とは何かなどという人生の神秘についても、考えさせられることがあると聞きます。神はご自身に似せてお創りになった人間を、いつまでもこの小さな地球世界にだけ居住させて置くのではなく、主キリストと一致して罪の体に死んだ後の将来は、もはや死ぬことのない主の復活体のような霊的体にして、広い宇宙を自由に駆け巡りながら神を讃え、神の愛に生きるようにすることを望んでおられるのではないでしょうか。

⑥ しかし、そのような霊的体に復活するためには、最後の晩餐の時の主のように、人々を神の愛をもって極限まで愛することと、何らかの形で主と共に多くの人の罪科を背負い、自分を神へのいけにえとして捧げることが必要なのではないでしょうか。死の苦しみは、私たちキリスト者が一生のうちで為すことのできる最高の業、主と一致して神に捧げる最も価値ある司祭的いけにえだと思います。私たちが主と共に、いつの日か多くの人の救いのために自分を一つの司祭的いけにえとなして天父に捧げ、主のように晴れて昇天できるよう、そして多くの人の上に神からの恵みと助けを呼び下すことができるよう、大きな明るい希望と愛のうちに、今から主と共にこの世に死に、主と共に天に昇る心の準備をしていましょう。主も天上から「私に従いなさい」と、温かい眼差しを向けておられることと信じます。自力では不可能ですが、主の体の無数の細胞の一つとなり、日々自分の中の古いアダムに死んで、主の聖霊、主の御血潮、主の復活の力に生かされて生きることに心がけるなら、可能になるのではないでしょうか。明るい意欲的希望に生きるよう努めましょう。希望は銀の食器のように、この世においては日々心を込めて大切にし、磨いていないと灰色になってしまいます。私たちの希望は、輝きを失っていないでしょうか。反省してみましょう。