2013年6月30日日曜日

説教集C年:2010年間第13主日(三ケ日)



朗読聖書:  
. 列王記上 19: 16b, 19~21. 
 . ガラテヤ 5: 1, 13~18. 
. ルカ福音書 9: 51~62. 

    本日の三つの朗読聖書は、主に従う者が身につけるべき特性について教えていると思います。第一朗読は、エリヤがエリシャを預言者として召し出す独特の仕方について伝えています。言葉で呼びかけて従わせたのではありません。何も言わずに、働いているエリシャのそばを通り、自分の外套を彼の上に投げかけただけなのです。この出来事の前に、神からエリシャに何かの話があったのかも知りませんが、この思いがけない突然の出来事に出遭った時、エリシャはすぐにエリヤの後を追い、父母に別れの接吻をさせてくれるよう願って、「それからあなたに従います」と話しています。エリヤのなした風変わりな行為を神よりのものとして受け止め、早速対応する預言者的信仰のセンスが、エリシャの心に成熟していたしるしだと思います。エリヤもそれを認めて願いを許可しましたが、その時「私があなたに何をしたのか」という言葉を口にします。よく判りませんが、これは、私があなたに為した行為を忘れず、思いがけない小さな出来事の背後にも、神からの呼びかけを感知する心のセンスを大切にしているように、というような意味ではないでしょうか。

    第二朗読には、キリストが「私たちを自由の身にして下さったのです。自由を得させるために」とあります。ここで言われている「自由」とは、本日の朗読個所では省かれていますが、すぐその言葉に続くガラテヤ書52~12を読んでみますと、律法からの自由、すなわち律法の細かい規定を厳守することによって宗教的救いを得ようとする、ある意味では人間主導・自分中心のファリサイ的生き方からの自由を指していると思います。それは、自分で何かを獲得しよう、利用しよう、所有しようとする欲求や生き方からの自由ではないでしょうか。したがって、第二朗読に読まれる「奴隷のクビキに二度と繋がれてはなりません」という言葉は、そういう自分中心の生き方や「肉の欲望」に負けてはならないという意味だと思います。

    戦後の自由主義・能力主義教育の普及と核家族の激増とにより、それまでの地域共同体の結束が急速に弱まった上に、現代技術文明の発達で日常生活が極度に便利になると、現代の日本には自分の思いのままに一人で生きていると思われる人間が多くなり、各人の価値観も好みも違うため、家庭においても家族と皆で楽しく話し合うことなく、テレビやインターネットや携帯電話の頻繁な利用で、話し相手の顔が見えない半分バーチャルな夢世界で生きている人々や子供たちが少なくないようです。夢を見ている時、人は内的には孤独で遊ぶようにして世渡りをしていますが、しかし時には不安感や恐怖感、あるいは人々からの見捨てられ感に襲われます。「キレる」という言葉は1998年から辞書に登場しますから、その少し前の90年代後半から、日本の各地でそのような症状を示す、感性的に未熟な子供や若者が多くなったと思われます。昔にも「堪忍袋の緒が切れる」という表現がありますが、これはまず忍耐を続けた後の怒りであるのに比べると、「キレる」人は、耐え忍ぶ心が働かずに、突発的に怒りが爆発するようです。日頃他者と一緒に助け合い励まし合って生きることなく、自分独りで孤独と不安の中で生きているため、その気ままと個人主義が無視されたと感ずるような言行に出会うと、途端に見捨てられたと受け止めて怒り出す、過敏さと被害者感覚が心の中に共存しているのかも知れません。

    考える知能や機器を操作する技能はしっかりしていても、自分の思い通りにならない現実社会を蔑視する傲慢さもあって心の奥に落ち着きがなく、心の衝動をコントロールすることが苦手なのでないでしょうか。こういう人たちは社会にとって迷惑千万の困った存在ですが、本人たち自身も自分を持てあまし、苦しんでいるのかも知れません。私は「キレる」人たちをその心から救い得るものは、神信仰以外にないと考えます。1995年にオウム真理教事件が発生すると、一時的に若者たちの宗教に対する関心が低落し、伝統宗教に対する教団離れが一層進んだばかりでなく、80年代以降に急成長していた新新宗教に対する関心も薄れましたが、21世紀の初め頃からは、個人の心の安定のため再び宗教に対する関心が深まって来たようです。しかし、今流行のこの関心は宗教教団に対してではなく、神信仰に基づく各人の自己決定や自己責任を重視する、スピリチュアル・ビジネスへの関心のようです。形は個人的であっても、真の神信仰が孤独と不安に悩む人々の心を、新たな形で主キリストによる救いへと導いてくれるよう、陰ながら主の恵みを祈りたいと思います。

    使徒パウロは本日の第二朗読の中で、「霊の導きに従って歩みなさい」と強調しています。その愛の霊は既に私たちの心の奥底に与えられていると思いますが、自分のこれまでの孤独な生き方や自力の限界を痛感し、神よりの助けを新たな形で祈り求めている現代の若者たちの心にも、神の憐れみによって与えられるよう祈りましょう。彼らが心の奥底に現存しておられる神の霊に信仰と信頼の眼を向け、自分中心であった古いエゴを捨て、神中心に神の愛の霊に導かれて生きよう、この不信の闇の世に神の愛の灯を点そうと心掛けるなら、神はその恵みを下さると信じます。

    本日の福音の始めにある「天に上げられる時期」という言葉は、主のご受難ご復活の時を指しています。主は既にそのことを弟子たちに予告して、エルサレムに向かう決意を固め、ガリラヤを後にされたのです。いわば死出の旅に出発し、その旅の途中に横たわるサマリア人の村で泊めてもらおうとしたのです。しかし、エルサレムのユダヤ人たちと敵対関係にあったサマリア人たちは、主の一行がエルサレムへ行こうとしているのを知って宿泊を拒みました。使徒のヤコブとヨハネはそれを見て怒りましたが、主は二人を戒めて、一行は別の村へと向かいました。主は殺されるために、エルサレムへ向かっておられるのです。何か緊迫した雰囲気が一行の上に漂っているような、そんな状況での出来事だと思います。

    しばらく行くと、次々と三人の人が登場しますが、ルカがここで登場させている人たちは、マタイ8章の平行記事では「弟子」と明記されていますので、エルサレムへと急いでおられた主に話しかけたのは、いずれも一行の後を追って来た弟子であったと思われます。数多くの大きな奇跡をなされた主イエスが、その主を殺害しようとしているユダヤ教指導者たちの本拠エルサレムに向かっておられると聞いて、メシアの支配する新しい時代が始まるのだと考え、この機会にメシアのために手柄を立てて、出世したいと望んで駆けつけたのかも知れません。最初の人は「どこへでも従って参ります」と申し上げていますが、主は、メシアに敵対する悪霊たちが策動する大きな過渡期には、どんな貧困や苦労をも厭わぬ覚悟が必要であることを諭すためなのか、「人の子には枕する所もない」などと話されました。その後に来た弟子たちにも、それぞれ自分の考えや夢を捨てて、ひたすら黙々と主に従って来ることを要求なさいました。神信仰に基づいて孤独に悩む自己の生きる道を見出そうとしている現代人に対しても、主は自分を捨てて、ひたすら神の御旨に従順に従うことをお求めになると思います。その人たちが、主のこの厳しいお求めに従って、キリストの内に内的にはこれまでよりも遥かに大きな自由の内に生きる喜びを見出すに至るよう、神よりの照らしと助けとを願い求めましょう。

2013年6月23日日曜日

説教集C年:2010年間第12主日(三ケ日)



朗読聖書: 
. ゼカリヤ 12: 10~11, 13: 1.
. ガラテヤ 3: 26~29. 
. ルカ福音書 9: 18~24.

     本日の第一朗読は、紀元前520年頃にバビロン捕囚からエルサレムに戻って来たユダヤ人たちに、まず神殿を再建することを先にするよう説いたハガイ預言者と同じ頃に、少し遅れて活躍した預言者ゼカリヤを介して語られた神の御言葉であります。ゼカリヤ書は、旧約聖書の最後の書であるマラキ書のすぐ前に置かれている預言書で、14章からなるある程度長い預言書ですが、前半には6章を費やして、ユダヤ人に好意的であったペルシャのダレイオス皇帝の初期に神から示された、八つの黙示録的幻が語られています。そして第7章以降の後半部分には、エルサレム復興の約束や、諸国民に対する神の裁きとイスラエルの救いなどが語られています。本日の第一朗読はそのイスラエルの救いについての神の御言葉からの引用ですが、「私は憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者である私を見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」というのは、メシアの受難死を幻の内に示しながら語られた神のお言葉ではないでしょうか。

     神は続いて、「その日ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と穢れを洗い清める一つの泉が開かれる」と予告しておられます。これは、メシアの受難死によって無数の人の罪の穢れを洗い清める、霊的には真に豊かな恵みの水を溢れ出す泉が一つ、メシアの苦しめ苛まれた御心臓の内に、この世の人々に開かれることを約束なされたお言葉であると思います。そのメシアの十字架上での御死去を、聖母と共にすぐ近くで目撃していた使徒ヨハネは、「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を突き刺した。するとすぐに、血と水が流れ出た」と証言し、「これは目撃者の証しであり、その証しは真実である。その人は、自分が真実を語っていることを知っている」と、少しくどい程に、死去したメシアのわき腹から実際に血と水が流れ出たことを証言しています。死んでもまだ心臓に残っている血が槍に刺された時に流れ出たことは理解できますが、その血と一緒にある程度まとまった量の水が流れ出たという話は、信じられないという異論を退けるための力強い証言だと思います。

     一体このようなことがあり得るのでしょうか。私が神学生時代に読んだ西欧の医師たちの証言によると、現代では肉体の苦しみを緩和するモルヒネなどの薬品が使用されますので、内臓に水がたまる程苦しむ患者はいませんが、何かの事情で医師の世話を受けることなく、しかも極度の苦しみが長時間続いた後に死去した人の体を解剖しますと、心臓の周囲に水がたまっていることがあるのだそうです。前日から一睡もせずに苛酷な責め苦を受け続けた主イエスの心臓の周辺にも、水が多くたまったのではないでしょうか。としますと、主がその恐ろしい苦しみに耐えて、十字架上でも最後まで適切な言葉を話すことがおできになったのは、自然の人間の力を凌ぐ神の霊の特別な助け・支えによるのだと思います。無数の人の罪の穢れを洗い清めるメシアの泉は、それ程の苛酷な苦しみによって掘り起こされ、あの世からこの世へと豊かな恵みの水を流すに至ったのではないでしょうか。神から与えられる苦しみは、大小を問わず全て私たちの心に恵みを注ぐ手段や器であると信じます。思わぬ失敗や不運、病苦や生活の煩わしさなどを、信仰と愛をもって神の御手から受け取り、厭わぬように心掛けましょう。いくら待ってもなかなか来ないバスを待つ苦しみ、あるいは人身事故が発生して遅れている列車を待つ苦しみなども、嫌な顔を見せずに神よりの試練として祈りつつ快く耐え忍んでいますと、後で不思議に神が便宜を図って下さるのを、私はこれまで幾度も体験しました。神は実際に、私たちの捧げる小さな奉仕や苦しみを、愛をもってご覧になっておられるようです。

    本日の第二朗読には「あなた方は皆、信仰によりキリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」「キリストを着ているからです」「皆キリスト・イエスにおいて一つになっており」「アブラハムの子孫です」などという言葉が読まれます。神の御眼から見れば、もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、私たち全人類は主キリストにおいて一つの共同体、一つの存在「神の子」となるよう召されているのではないでしょうか。神はかつてアブラムをお召しになった時、「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。地上の氏族は全てあなたによって祝福に入る」とおっしゃいましたが、イサクが生まれる前年には、「もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。私はあなたを多くの国民の父とするからである」と話しておられます。それで教皇ピオ11世はある時、「私たちも皆アブラハムの子孫です」と、ヴァチカンで公然とお話になったことがあります。現代の技術文明が世界的にここまで普及し、アジア人も白人も黒人も一緒に助け合って生活するようになってみますと、聖書に読まれる神のこれらのお言葉が、新たに実感されて来ます。神は私たち全人類が主キリストにおいて一つの共同体になるよう、現代にも新たに呼びかけておられるのではないでしょうか。日々心を大きく開いて、小さいながらも全人類のため、全ての人のために祈り、奉仕するよう心掛けましょう。

    本日の福音の中ほどには、「イエスは弟子たちを戒め、このことを誰にも話さないように命じた」という言葉が読まれます。それは、そのすぐ前にペトロが主に話した、「あなたは神からのメシアです」という信仰宣言のことではありません。ギリシャ語の原文では、21節と主のご受難を予告している22節とはひと続きの文になっていて、22節の冒頭にある分詞「と言って」で結ばれていますから、メシアの受難死と復活についての主の予言を、誰にも言わないようにという戒めだと思います。ルカ福音書の2章には、聖母は「これらのことを心に納めて考え合わせていた」という言葉が二度読まれますが、神から受けた新しい教えや心に共鳴した聖書の言葉、あるいは体験から新しく学んだ悟りなどもすぐには口外せず、心に納めて考え合わせていることは、そこに込められている真理を、心の奥深くに根付かせる秘訣だと思います。神はそのような心の人に、もっと多くのことを次々と教え、優しく導いて下さるようです。聖母マリアもこのようにして、次々と非常に多くのことを、神の御子と共に歩んだ人生体験から学んでおられたことでしょう。私たちも、同じその主イエスに伴われて今の人生を営んでいる身であることを、忘れないよう気を付けましょう。主は私たちにも、「自分を捨て、日々自分の十字架を背負って私に従いなさい」と呼びかけておられます。その復活の主に信仰の眼を注ぎながら、日々与えられる小さな十字架の苦しみを嫌がらないよう、心掛けましょう。

2013年6月16日日曜日

説教集C年:2010年間第11主日(三ケ日)

朗読聖書:. サムエル下 12: 7~10, 13.  
        Ⅱ. ガラテヤ 2: 16, 19~21.
           Ⅲ. ルカ福音書 7: 36~50. 
 
    本日の第一朗読は紀元前千年頃の話で、カナンの地の先住民ヘト人の出身者である家臣ウリヤの妻を奪って子を身ごもらせたダビデ王が、その姦通罪の発覚を恐れてウリヤを戦場で死なせたという、もっと酷い二重の罪を犯したことを、預言者ナタンが主の名によって厳しく咎めた話であります。預言者はこの叱責に続いて、ダビデ王の家族の中から反逆者が出てもっと恐ろしい罪を公然と犯すという、耐え難い程の天罰も王に予告しています。しかし、王がナタンに「私は主に罪を犯した」と告白し、悔悟の心を表明すると、本日の朗読箇所にもあるように、ナタンは「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」と、神からの赦しと慰めの言葉を告げます。現代の私たちにとっても、神からのこのような赦しと励ましの言葉は大切だと思います。

    御存じのように、2年前に「パウロ年」が祝われていた頃から、カトリック司祭による子どもたちや若い女性たちへの性的虐待事件が、欧米の先進諸国でマスコミにより次々と明るみに出され、カトリック教会は大きく揺さぶられています。少なからぬ司祭たちが数カ月、数年もそんな犯罪を極秘に続けていたそうですから。一般社会の裁判所に訴えられ、被害者たちへの莫大な賠償金の支払いや多額の裁判費用などのため、赤字財政に悩んでいる教区もあると聞きます。引責辞任に追い込まれてしまった司教たちも少なくないようです。教会が厳しく糾弾された一番大きな理由は、問題を起こした教区司祭たちの上司である司教たちが、その犯罪を知らされても被害者たちの痛みに十分配慮せず、教会の社会的体面を守ることに腐心して、人事異動によって問題を闇に葬ろうとして来たことにあるようです。

    エフュソ書の2: 3に述べられているように、私たち人間は原罪により神の「怒りの子」として神に背を向け、神以外の被造物を自分のものとして自分中心に生きようとする、いわば神に対する忘恩と反逆の傾きをもって生れ付いています。神より聖なる司祭職に召されても、この古いアダムの精神は、心の奥底に根強く残っています。豊かさと便利さと強力なマスコミを武器にして、現代世界を深く汚染し続けているこの古いアダムの利己的精神に対しては、節制と清貧に励みつつ日々弛まず戦い続けないと、知らない裡に心の奥底まで汚染されて行きます。罪に陥った司祭たちは、自分に対するこの「心の戦い」をゆるがせにしていたのだと思います。そのような司祭が問題を起こしたような時は、上長はすぐに厳しい態度で問題の解決に努めなければならないと思います。2,3年前だったでしょうか、大阪の池長大司教は、配下の70歳代前半の司祭がセクハラ事件を起こした時、すぐに厳しい態度を公然と表明して犠牲者に対する償いにも務め、裁判騒ぎになるのを阻止しました。これは、それで良かったと思います。

    教会の歴史を細かく調べてみますと、このような事件は現代よりは遥かに少ないですが、しかし何時の時代にも多少は見られました。その殆ど全ての場合、司祭は責任を取って司祭職から離れていますが、司祭が厳しい償いを果たして司祭職に留まる許可を得た例も、例外的にあります。30年程前には、私の親しくしていた後輩の神言会司祭が、岐阜県でそのような問題を起こしたことがありました。管区長はすぐにその有能で実績の多い司祭をローマに派遣し、ゆっくりと反省し将来を考える期間を与えましたが、私は初め、彼が何のためにローマに行ったのか理由が分りませんでした。しかし、程なく日頃親しくしていた年配の女性信者の訪問を受け、その相手の若い女性が岐阜県を離れて東京で働き始めていることや、私の友人司祭との事件のことなどを聞きました。それですぐ上京してその女の人の言い分を聞き、それをその時の管区長に伝えましたら、二人の問題の解決に尽力してくれるよう依頼されました。それでその時からローマにいるその司祭と東京にいるその女性との、私を介しての文通を頻繁に繰り返しましたら、友人は間もなく自分から司祭職を去り、東京に就職してその女性と結婚し、今も幸せに暮らしています。私はその後も二度その家庭を訪問していますが、子供二人も立派に成長し、神は弱さから過ちに陥った友人をダビデのように、このようにして幸せにして下さったのだと思います。

    私たちの人間性を歪めている、自己中心の利己的傾きは心の奥に深く隠れていて、自分の持って生まれた自然の力ではなかなか勝てません。しかしたとえ倒れても、ダビデ王のように神の憐れみの御心にひたすら縋りつつ、罪を赦して下さる神の愛と力に生かされて生きようと努めるなら、晩年のダビデ王のように、憐れんで救う神の新たな働きを生き生きと体験するのではないでしょうか。「罪が増す所には、恵みがなお一層満ち溢れる」と聖書にあります。最近大きな罪を犯して教会の名誉を傷つけた元司祭たちが、神の憐れみに縋って改心と償いに励み、いつかはダビデ王のように幸せな老後を迎えるに至るよう、神の恵みと助けを願い求めましょう。

     使徒パウロは本日の第二朗読の中で「人は律法の実行によってではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」と書いていますが、ここで「信仰」とあるのは、ハバクク書2章やローマ書1章その他に「義人は信仰によって生きる」とある言葉なども総合して考えますと、ルッターが考えたように心でひたすら信奉することや、自力で神に縋ることではなく、もっと広く、神の新しい働きに従う実践的信仰と考えてよいと思います。パウロはそれと対比して、「律法の実行によっては、誰一人として義とされないからです」と述べていますが、この言葉の背後には、彼が若い時にキリストの教会を迫害したという、苦い体験があると思います。改心前の彼は、誰にも負けない程熱心に律法の全ての規定を順守しようとしていた律法学者だったと思います。しかし、復活なされた主キリスト御出現の恵みに出会い、その主から厳しく叱責された時、神と社会のためと思ってなしていた律法の厳守は、神の新しい救いの御業を妨げるものであったことを痛感させられました。

     彼はその時から、人間が自力で研究し順守する律法中心の立場や、自力で神の掟を守り神を崇めようとする熱心は捨てて、ひたすら神の新しい働きや新しい導き中心の立場に転向し、その働きや導きに対する信仰と従順の感覚を鋭敏に磨き、復活なされたキリストの御命に心の内面から生かされる、新しい信仰実践に励むようになりました。「キリストが私の内に生きておられるのです。云々」の言葉は、この新しい信仰体験に根ざした述懐であると思います。私たちも使徒パウロの模範に見習い、他人に負けまいとして頑張る自力主義には死んで、主キリストが新約の神の民から求めておられる、神の御旨に僕・婢としてひたすら従って行こうとするこのような信仰実践を、しっかりと体得するよう心がけましょう。その過程で、弱さから幾度倒れても構いません。すぐに立ち上がって自力主義を捨て、神の御旨中心の愛の信仰実践に努めましょう。復活の主ご自身も本日の福音にあるように、幾度も「あなたの罪は赦された」とおっしゃって喜んで下さることでしょう。私たちは今日、各人の自力や能力主義ではなく、そういう神の救いの働きへの協力と従順中心の、奉仕的愛の信仰実践時代に生きているのですから。