2013年6月2日日曜日

説教集C年:2010年キリストの聖体 (三ケ日)



朗読聖書: .創世記 14: 18~20.
       .コリント前 11: 23~26. 
    Ⅲ. ルカ福音書 11b~17.

    ご存じのように、昨年のイエスの聖心の祭日に始まった「司祭年」は、今週の金曜日、イエスの聖心の祭日で終了します。主イエスの聖心は、何よりもキリストの御聖体の内に現存し、私たちに近い存在となっておられます。そこで聖体の祭日である本日はまず、主イエスの聖心と今週で終わる「司祭年」などについて考えてみたいと思います。現教皇ベネディクト16世は昨年の六月、それまでの「パウロ年」を終える前に、全世界の主任司祭の守護聖人である聖ビアンネーの没後150周年を記念して「司祭年」を開催する、とお決めになりました。その時、「司祭年は全ての司祭が心の刷新への努力を深めることを目的としています。それは、現代世界にあってより力強く、はっきりと福音を証しすることができるようになるためです」と話しておられますが、すぐ続けて、「聖なるアルスの主任司祭がしばしば述べているように、司祭職とはイエスの聖心の愛です」と語り、司祭たちが誰よりも御聖体の主を友とし、イエスの聖心の愛に根ざして生活するよう勧めています。

    イエスの聖心に対する信心は、私たちが受洗した戦争直後の頃や1950年代の前半には、わが国でも欧米諸国でも盛んに行われていました。その頃の世界に普及していた聖心の信心は、1673年にフランスで聖マルガリタ・マリア・アラコクに出現なされた主イエスがお示しになった形の信心でした。すなわち各個人や家族が家の中にイエスの聖心の御絵を飾り、毎朝決まった奉献の祈りを唱えること、そして人々の罪の償いの業を捧げること、度々聖体を拝領し、特に毎月の初金曜日に聖体を拝領して主の聖心を崇めることなどでした。しかし1950年代の中頃から、技術文明の急速な進歩と経済的奇跡で、一般の人々の生活が益々便利にまた豊かになり始めますと、このような信心業は世界中どこでも衰え始めました。当時のカトリック者たちのこの動向を心配なさった教皇ピオ12世は、19565月に回勅”Haurietis aquas”を発して、教会の中世紀にまで遡る古い伝統である聖心の信心を新たな形で盛んにするよう、全教会に呼びかけました。これは神学的にも深く考えて書かれている回勅で、その後の教皇たちもこの路線でイエスの聖心の信心を勧めており、現教皇も20065月この回勅発布の50周年に、イエスの聖心の信心を勧めておられます。

    ピオ12世以来の歴代教皇が勧めているこの聖心の信心は、聖マルガリタ・マリア・アラコク以来の聖心の信心業とは少し違っています。何か特定の信心業や信心形態を順守してイエスの聖心を崇めるのではなく、もっと深く主イエスの聖心に自分自身を完全に献げ、己を無にして主イエスの聖心に心の底から生かされて生きようと努める信心、と申してもよいと思います。主は一度「幼児のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできない」(ルカ18:17)とお話しになりましたが、いとけない幼児のように、あるいは主の御声を正しく聞き分ける小羊のように、我なしに徹底的に主の御声に聴き従おうと励む者の心には、主の聖心が喜んで現存し働いて下さいます。このことを堅く信仰し、全てを主に委ね主に従って生きるよう心掛けましょう。これが、教皇たちが新たに勧めておられる信心だと思います。

    現教皇は、神中心主義でない現代文明の歪んだ価値観を無批判的に受け入れ、心の中まで知らないうちに人間中心の相対主義に汚染されている司祭や信者のことで、深刻に心配しておられるようです。豊かさ便利さを武器にして現代世界に広まっている相対主義的価値観を、「信仰に対する大いなる脅威」と呼んで、主の聖心に根ざし、そのような隠れた内的敵に抵抗するよう呼びかけておられます。復活なされた主イエスは、今も新約時代の預言者、大祭司、全宇宙の王として御聖体の内に現存し、私たちの心を介して今の世の変革のため働こうとしておられると信じます。御聖体を拝領する度毎にその主の聖心に私たち自身を全く献げ、生前主がなさっておられたように、いつも天の御父の御旨に心の眼を向けながら生活するよう努めましょう。そうすれば、主は小さな私たちをも道具としてお使いになりながら、多くの人を悩ましている現代世界の隠れた内的病を癒して下さると信じます。現代の私たちは、その内的病と積極的に戦うべき時代に生きているのだと思います。

    本日の第二朗読の最後に読まれる、「あなた方は、このパンを食べこの杯から飲む毎に、主が来られる時まで主の死を告げ知らせるのです」という使徒パウロの言葉も、大切だと思います。「主の死を告げ知らせる」というのは、単に口先で「主が死んだ」などと、人々に語り伝えることを指しているのではありません。パンは主のお体を、ぶどう酒は主の御血を指していますが、その二つを分けて祭壇上に置き神への供え物にするということは、主が受難死によってこの世の命に死に、救いの恵みを人類の上に呼び下すいけにえ、神への供え物になっておられること、いけにえとしてのお姿を天父に提示しつつ、今も私たちの上に恵みと祝福を呼び下しておられることを示していると思います。そしてその主のお体と御血を拝領して、自分の血となし肉となす私たちは、主の御精神、主の御力に内面から生かされ、新たに神の愛に生きる恵みを受けるのであることをも、示していると思います。主はそのためにこそこの世に死んで、ご自身を私たちの糧や飲み物となされたのですから。

    「主の死を告げ知らせる」とは、主が今も御聖体のうちに現存し、数々の恵みを齎してくださっているという隠れている霊的現実を私たちが深く自覚し、いつも信仰の内にその主と共に歩む生活を営むことにより、世の人々にその事実を実践的に証しすることを意味していると思います。私たちは御ミサの聖変化の後に、いつも「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」と唱えていますが、この言葉が口先だけの習慣的言葉にならないように気を付け、もっと御聖体の主に対する感謝と忠誠の心を込めて唱えるよう心掛けましょう。御聖体の祭日にあたり、何か一つこのような小さな決心を主にお献げして、主がこれまで以上に私たちの心の内に生きてくださるよう、照らしと導きの恵みを願いたいと思います。