2013年6月23日日曜日

説教集C年:2010年間第12主日(三ケ日)



朗読聖書: 
. ゼカリヤ 12: 10~11, 13: 1.
. ガラテヤ 3: 26~29. 
. ルカ福音書 9: 18~24.

     本日の第一朗読は、紀元前520年頃にバビロン捕囚からエルサレムに戻って来たユダヤ人たちに、まず神殿を再建することを先にするよう説いたハガイ預言者と同じ頃に、少し遅れて活躍した預言者ゼカリヤを介して語られた神の御言葉であります。ゼカリヤ書は、旧約聖書の最後の書であるマラキ書のすぐ前に置かれている預言書で、14章からなるある程度長い預言書ですが、前半には6章を費やして、ユダヤ人に好意的であったペルシャのダレイオス皇帝の初期に神から示された、八つの黙示録的幻が語られています。そして第7章以降の後半部分には、エルサレム復興の約束や、諸国民に対する神の裁きとイスラエルの救いなどが語られています。本日の第一朗読はそのイスラエルの救いについての神の御言葉からの引用ですが、「私は憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者である私を見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」というのは、メシアの受難死を幻の内に示しながら語られた神のお言葉ではないでしょうか。

     神は続いて、「その日ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と穢れを洗い清める一つの泉が開かれる」と予告しておられます。これは、メシアの受難死によって無数の人の罪の穢れを洗い清める、霊的には真に豊かな恵みの水を溢れ出す泉が一つ、メシアの苦しめ苛まれた御心臓の内に、この世の人々に開かれることを約束なされたお言葉であると思います。そのメシアの十字架上での御死去を、聖母と共にすぐ近くで目撃していた使徒ヨハネは、「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を突き刺した。するとすぐに、血と水が流れ出た」と証言し、「これは目撃者の証しであり、その証しは真実である。その人は、自分が真実を語っていることを知っている」と、少しくどい程に、死去したメシアのわき腹から実際に血と水が流れ出たことを証言しています。死んでもまだ心臓に残っている血が槍に刺された時に流れ出たことは理解できますが、その血と一緒にある程度まとまった量の水が流れ出たという話は、信じられないという異論を退けるための力強い証言だと思います。

     一体このようなことがあり得るのでしょうか。私が神学生時代に読んだ西欧の医師たちの証言によると、現代では肉体の苦しみを緩和するモルヒネなどの薬品が使用されますので、内臓に水がたまる程苦しむ患者はいませんが、何かの事情で医師の世話を受けることなく、しかも極度の苦しみが長時間続いた後に死去した人の体を解剖しますと、心臓の周囲に水がたまっていることがあるのだそうです。前日から一睡もせずに苛酷な責め苦を受け続けた主イエスの心臓の周辺にも、水が多くたまったのではないでしょうか。としますと、主がその恐ろしい苦しみに耐えて、十字架上でも最後まで適切な言葉を話すことがおできになったのは、自然の人間の力を凌ぐ神の霊の特別な助け・支えによるのだと思います。無数の人の罪の穢れを洗い清めるメシアの泉は、それ程の苛酷な苦しみによって掘り起こされ、あの世からこの世へと豊かな恵みの水を流すに至ったのではないでしょうか。神から与えられる苦しみは、大小を問わず全て私たちの心に恵みを注ぐ手段や器であると信じます。思わぬ失敗や不運、病苦や生活の煩わしさなどを、信仰と愛をもって神の御手から受け取り、厭わぬように心掛けましょう。いくら待ってもなかなか来ないバスを待つ苦しみ、あるいは人身事故が発生して遅れている列車を待つ苦しみなども、嫌な顔を見せずに神よりの試練として祈りつつ快く耐え忍んでいますと、後で不思議に神が便宜を図って下さるのを、私はこれまで幾度も体験しました。神は実際に、私たちの捧げる小さな奉仕や苦しみを、愛をもってご覧になっておられるようです。

    本日の第二朗読には「あなた方は皆、信仰によりキリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」「キリストを着ているからです」「皆キリスト・イエスにおいて一つになっており」「アブラハムの子孫です」などという言葉が読まれます。神の御眼から見れば、もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、私たち全人類は主キリストにおいて一つの共同体、一つの存在「神の子」となるよう召されているのではないでしょうか。神はかつてアブラムをお召しになった時、「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。地上の氏族は全てあなたによって祝福に入る」とおっしゃいましたが、イサクが生まれる前年には、「もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。私はあなたを多くの国民の父とするからである」と話しておられます。それで教皇ピオ11世はある時、「私たちも皆アブラハムの子孫です」と、ヴァチカンで公然とお話になったことがあります。現代の技術文明が世界的にここまで普及し、アジア人も白人も黒人も一緒に助け合って生活するようになってみますと、聖書に読まれる神のこれらのお言葉が、新たに実感されて来ます。神は私たち全人類が主キリストにおいて一つの共同体になるよう、現代にも新たに呼びかけておられるのではないでしょうか。日々心を大きく開いて、小さいながらも全人類のため、全ての人のために祈り、奉仕するよう心掛けましょう。

    本日の福音の中ほどには、「イエスは弟子たちを戒め、このことを誰にも話さないように命じた」という言葉が読まれます。それは、そのすぐ前にペトロが主に話した、「あなたは神からのメシアです」という信仰宣言のことではありません。ギリシャ語の原文では、21節と主のご受難を予告している22節とはひと続きの文になっていて、22節の冒頭にある分詞「と言って」で結ばれていますから、メシアの受難死と復活についての主の予言を、誰にも言わないようにという戒めだと思います。ルカ福音書の2章には、聖母は「これらのことを心に納めて考え合わせていた」という言葉が二度読まれますが、神から受けた新しい教えや心に共鳴した聖書の言葉、あるいは体験から新しく学んだ悟りなどもすぐには口外せず、心に納めて考え合わせていることは、そこに込められている真理を、心の奥深くに根付かせる秘訣だと思います。神はそのような心の人に、もっと多くのことを次々と教え、優しく導いて下さるようです。聖母マリアもこのようにして、次々と非常に多くのことを、神の御子と共に歩んだ人生体験から学んでおられたことでしょう。私たちも、同じその主イエスに伴われて今の人生を営んでいる身であることを、忘れないよう気を付けましょう。主は私たちにも、「自分を捨て、日々自分の十字架を背負って私に従いなさい」と呼びかけておられます。その復活の主に信仰の眼を注ぎながら、日々与えられる小さな十字架の苦しみを嫌がらないよう、心掛けましょう。