2014年6月25日水曜日

説教集A2011年:2011年6月25日工藤家の追悼式に



本日の追悼ミサは、30年程前に他界なされたアンジェラ・メリチ工藤喜美子様と13年前にあの世にお移りになったフランシスコ・ザビエル工藤粛様を記念してお献げするミサと存じますが、お二人のご霊魂がいつまでも煉獄の清めの火の中におられるとは思いません。既に天国の栄光のうちにあげられ、神を仰ぎ見る喜びのうちに生きておられるのではないでしょうか。カトリック教会はそういうご霊魂たちのために111日を諸聖人の祝日として定め、その霊魂たちの取次を願い求めつつ、ミサを捧げて祝っています。そこで本日はそのようなご霊魂たちの状態について、少しだけご一緒に考えてみましょう。「少しだけ」と申しましたのは、実はその状態については聖書の中でも神学書の中でも殆ど何も書かれていないからなのです。

しかし、世の終りに全ての人間が復活するまでは、霊魂と肉体とから成る人間としてはまだ死の状態にあり、肉体の頭脳も感覚も働いていませんから、肉体ごとあの世に生きておられる主キリストと聖母マリアを別にすれば、この世の人類の歴史やその後の私たちの生活などについては、直接には何も認識できずにおられると思います。しかし、霊魂は生きているのですし、この世での人生の記憶は生前よりもはっきりと残っているのですから、お二人はあの世から私たちの無事と幸せを祈っておられることと信じます。私たちがこうしてお二人のご冥福を祈る時、その祈りをパイプとして神から恵みをお受けになったり、あいるは私たちに神よりのご保護や恵みを届けたりすることができるのかも知れません。私がこんな考えを抱くに到ったのは、日々あの世の霊魂たちのために祈っていますと、日常生活の中で不思議に助けられたり幸運に恵まれたりすることが多いからなのです。今年の東日本大震災のことなどは、お二人のご霊魂は直接には何も知らずにいると思います。しかし、死んであの世に移った霊魂たちも多いことですから、あるいはその霊魂たちから聞いたりして何らかの情報を受け止め、あの世からこの世の私たちのために祈っていて下さるかも知れません。

話は違いますが、お二人が次々とあの世に召された後、この世の日本社会はまた一段と不穏なものとなりつつあるように覚えます。心に家庭や社会に対する不満を抱えている若者たちが、次第に増えて来ているように見えるからです。五年程前に日本青少年研究所が、日本・中国・アメリカの高校生それぞれ千人に対して、自分の親に対しての意識調査をしたことがありました。「将来自分の親が高齢になって手助けなしに生活できなくなった時、親の面倒をみるか」という問いに「みる」と答えた生徒は、中国では66%、アメリカでは46%なのに対して、日本ではわずか16%でした。核家族化して狭い家に住んでいる現代日本の住宅事情から、自分の家ではなくどこかの施設に入ってもらう、と考える日本人が多いのかも知れません。続いて「親は自分の子供に介護されることを喜ぶであろうか」という問いに対しても、中国とアメリカでは「喜ぶ」の返事が70%なのに、日本では30%だけでした。今の日本の若い世代における親子の心の断絶を示した衝撃的数値ですが、心理学者たちによるとその原因は、1歳から6歳頃までの心の情緒が発達する時期に、子供が一番必要としている親子の心の交流に不足している家庭が、最近の日本では極度に増えて来ていることにあるようです。五年程前の高校生たちは、1990年頃の経済的バブル崩壊前後に生まれたと思いますが、わが国ではそれ以前の高度成長期に都会での両親の共働きが定着し、日中子供を育児園に預けて働いた母親たちは、夜は食事の世話やテレビなどで時を過ごし、子供にもテレビや一人で遊べる様々の便利な遊び道具を与えることが多くて、親子の自由で親密な語らいや心の交わりに時間を割くことが少な過ぎたのではないかと思われます。最近はこの点の反省から、小さな幼児たちに絵本を読み聞かせたり、一緒に子供の歌を歌ったりすることが広まりつつあるようですが、共働きが多い都市部の家庭では時間的余裕が少なくて、まだまだのようです。

能力主義的日本社会に広まっている心の教育のこのような失陥は、高度に発達した現代技術文明が世界中に広まり、合理的能力主義や効率主義が全人類を支配するようになりますと、他の国々でも心の情操教育が疎かにされて、貧者や弱者に対する思いやりに欠ける人間や、現代社会を憎む人間が多くなり、社会全体が次第に冷たくなって行くかも知れません。しかし、私たちは神から来世信仰の恵みを頂いています。祈りによってあの世の神、あの世の霊魂たちとの心の結びつきを深めるように努めましょう。日々よく祈る生き方を続けるなら、私たちはどんなに危険な状況や難しい事態に直面しても、あの世からの照らし、導き、助けなどを受けて、次々とそれらの難局を忍耐強く切り抜けることができると信じます。

2014年6月22日日曜日

説教集A2011年:2011年キリストの聖体(三ケ日)


第1朗読 申命記 8章2~3、14b~16b節
第2朗読 コリントの信徒への手紙1 10章16~17節
福音朗読 ヨハネによる福音書 6章51~58節
   本日の第一朗読は、これから神より約束された地に入ろうとしているイスラエルの民にモーセが語った話ですが、モーセは、これ迄の40年間彼らが主に導かれて過ごした荒れ野での体験、神から受けた信仰教育を忘れずに、これからの信仰生活のためそこからしっかりと学びとることを勧めたのだと思います。民が荒れ野で過ごした40年間に、神は、民の心に残る自己中心的な「古いアダムの精神」を徹底的に矯め直し、神がお与え下さるものを幼子のように謙虚に受け止めて、何よりもその時その時に神から与えられるものによって生かされようと努める人たちにするため、度々民に飢え渇きの恐ろしい苦しみを体験させた後に、先祖も味わったことのないマナを食べさせたり、硬い岩からの豊かな水を飲ませたりする大きな奇跡を体験させて下さいました。全能の神によるこのような救いの御業や実践的信仰心教育に、これからも幼子のように、また神の僕・婢のように、我なしの精神で素直に徹底的に従って行くようにというのが、モーセがここで民の心に促している生き方であったと思います。

   心の自己中心主義の基盤は、この世の事物現象を正しく理解し利用するために神から与えられている理知的な理性を、あの世の神に対する信仰と愛と従順の次元にまで持ち込み、人間中心・この世中心に全てを判断し決めようとする精神にあります。この精神は神よりの恵みを正しく識別するのを妨げ、神の怒りを招いて民に大きな不幸を招くことになる、とモーセはこれまでの数多くの体験から心配していたのではないでしょうか。子供の時からパソコンに慣れ、親をも学校をも社会をも全てを自分中心に利用しようとする、自由主義的価値観や生き方に汚染されている現代人にとっても、これは忌々(ゆゆ)しい問題だと思います。自己中心・人間中心の精神の毒素によって、知らない内にこの世の社会も自然界を汚染し続け、創り主であられる神や神のお定めになった秩序を無視するもの、神に敵対する悪霊たちの神に対する戦争に賛成し協力するものにして行くからです。このような精神や価値観を早急に矯め直さなければ、私たちの生きているこの世界には、これからも想定外の自然災害や未曾有の不幸な事件が、次々と発生することでしょう。私は、それらはいずれも私たちの心を目覚めさせ、神中心に生きさせるための、神よりの警告であると受け止めています。早く目覚めて神中心の新しい生き方をしなければ、もっと恐ろしい試練を受けるのではないでしょうか。

   本日の第二朗読には「キリストの血にあずかること」、「キリストの体にあずかること」という言葉が読まれます。私はこういう言葉に接すると、「各人はそれぞれキリストの体の細胞である」という考えを想起します。最近の研究によりますと、人体に60億もあると聞く細胞の各々には、ヒトゲノムという各人独自の遺伝子、すなわちその人の基本的設計図が神から組み込まれていて、細胞はそれぞれ情報の授受機能や細胞の増殖機能などを備えて独自に生きています。全体を見渡す目は持っていませんが、より大きな命に生かされてバランスよく幸せに生きることはできます。しかし、より大きな生命から離脱すると死んで灰に帰してしまいます。キリストの体に組み入れられている私たち各人も、その細胞のような存在なのではないでしょうか。キリストの体に結ばれている個々の細胞に必要な養分を届けたり、細胞から老廃物を取り除いたりする血液の働きをしているのが、主キリストからも発出されている神の聖霊と考えてよいと思います。聖霊は、主キリストがお定めになったご聖体の秘跡の中にも豊かに現存し、働いておられます。

   晩年に幻の内に出現なされた主キリストから、「よく書いてくれた」とのお褒めを頂戴した聞く、天使的博士聖トマス・アクィヌスによりますと、純粋の霊として創られた天使は各位が一つの独自の種なので、神は殆ど無限と思われる程多くの種類の被造物天使を創造なされたようですが、その恵みに感謝し神中心に生きる無数の善天使とは別に、神に感謝せずに自己中心に生きる悪天使、すなわち悪魔たちも大勢おり、純粋単純な霊であるため彼らには改心の可能性がないのだそうです。それに比べると、創造の御業の最終段階で神から三位一体の神に特別に似せて創られた人間は、霊魂と肉体から成る一つの種類であって、人祖アダムの体からエワが造られたように、肉体の命は親から子孫へ次々と受け継がれるので、人間は人数がどれ程多くなっても、神の御前では一つの共同体、一つの種類とされているのだそうです。人祖アダムとエワが悪霊に騙されて神の掟に背いた自己中心の罪に穢れた罪は、その人間の肉の命を受け継ぐ私たち子孫が皆死ぬまで背負っていますが、ご自身の受難死によってその罪を浄め、神によって超自然的あの世の命に復活なされた主キリスト、すなわち第二の人祖アダムの命に、死と生の秘跡と言われる洗礼を受けて参与するなら、この世の人生ではまだその復活の主キリストの命で古いアダムの精神と戦わなければなりませんが、死後にはその神の御子キリストと一つ共同体、一つの「キリストの体」となって、永遠に万物を支配する栄光の存在、神の御子として生きる存在になるのだそうです。受難死によって人祖アダムの罪を清め新しい命に復活なされた主は、その御命をご聖体の秘跡にして、私たちの命を内側から養ってくださる第二の人祖なのです。

   本日の集会祈願文には、「主のお体を受け救いの力にあずかる私たちが、主の死を告げ知らせることができますように」とありますが、これは単に口先で主キリストの死を人々に告げることではありません。主と一致して私たちが自分中心・この世中心の生き方に死ぬことを、日々実践的に証しすることを意味していると思います。最後の晩餐の時ご聖体の秘跡を制定なされた主は、ご自身の御命が神を信じる人々によって実際に噛み砕かれ、その人々の心と体を内側から養い支えることを望まれたのだと思います。その主のご聖体を受ける私たちも、主と一致して自分の受け継いだこの世の人生と体が食べられ犠牲にされて、共に生きている人たちの糧とされ、その人たちの人生を内側から養い育てるものとなることを喜ぶよう心掛けましょう。この世に80年も生きる恵みに浴したからなのでしょうか、この頃の私の脳裡には時々このような望みが去来します。キリストの聖体の祭日に当たり、私たちが主と共にそのような犠牲奉仕の生き方をなすことができますように、本日のミサ聖祭の中で主の恵みを願い求めましょう。

2014年6月15日日曜日

説教集A2011年:2011年三位一体の主日(藤沢の修道院で)



  私たちの信じている唯一神は、決してお独りだけの孤独な神ではなく、三位一体という共同体的愛の神であります。三方(さんかた)で唯一神であられるという現実は、この世の自然的物質世界での事物現象を合理的に理解し利用するために神から与えられている人間理性には、理解することも説明することもできないあの世の現実で深い神秘ですが、神は御自身に特別に似せてお創りになった人間たちに、その神秘なご自身を御子を介して啓示し、人間たちから信仰によって正しく知解され愛されることを望んでおられます。使徒ヨハネはその福音書の冒頭に、神の御ことばが人となって私たちの内に宿ったこと、そしてご自身を受け入れた者には神の子となる資格を与えたこと、こうして信仰により神から生まれた人たちが、神の恵みによりその栄光を見たことを証言しています。したがって、人間理性にとっては全く近づき得ない大きな神秘ですが、神からの啓示や神の御子の働きを信仰と愛をもって受け入れる人の心の奥には、神の霊が働いて超自然の現実を悟る愛のセンスや能力が目覚めて来て、数々の体験を通してゆっくりとその大きな神秘に分け入り、三位一体の神と共に生きる喜びを見出すに至るのだと思います。使徒ヨハネのように、私たちの心も、いつかは神の栄光を見るようになるのです。

  本日の第二朗読には、「兄弟たちよ、喜びなさい。完全な者になりなさい」「思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」などの勧めが読まれます。当時のコリントが様々な国の出身者が富を求めて集まって来ていた国際的商業都市であったことを考慮しますと、この勧めは、生まれも育ちも異なる人々が相互に心を開いて話し合ってみても、なかなか実現し難い生き方を意味していたと思われます。現代都市の個人主義化した住民たちと同様に、職場の違う隣近所の住民とは挨拶もせず、ただ利害を共にしている同業者や同国人、あるいは同じ教会の人たちとだけ共に生きている人が多かったのではないか、それに自然的には纏めようがない程に人々の考えも性格も多様化していたのではないか、と思われるからです。

  使徒パウロはそのキリスト者たちに、神中心に生きる主イエスにおいて喜ぶこと、完全な者になろうとすること、思いを一つにして平和を保とうとすることを勧めたのですが、ここで「完全な者」とあるのは、非の打ちどころがないようなこの世の道徳的人格者を意味してはいません。主も山上の説教の中で、善人にも悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせて下さる「天の父が完全であられるように」「完全な者になりなさい」と勧めておられますが、これも律法の掟を全て完全に守る人格者になることを意味してはいません。ここで言う「完全な者」とは、神の愛をもって誰にでも心を開いている人を意味していると思います。従って使徒パウロも、平和な喜びの内に隣近所の人にも、誰に対しても、心を開き思いを一つにして話し合える人になるようにと勧めているのだと思います。「そうすれば、愛と平和の神があなた方と共にいて下さいます」と続けているからです。全てが極度に多様化しつつある現代の国際的グローバル社会においても、もし皆が主イエスの精神と一致して生きようと心がけるなら、生まれも育ちも文化も異なる人たち同志が、心を一つにして愛し合い、平和に暮らすことは難しくありません。主イエスを介して、共同体的な三位一体の神が相異なる人々の心を、一つの霊的共同体に纏めて下さるからです。始めに申しましたように、私たちの信奉している唯一神は孤独な神ではなく、共同体的な愛の神、三方(さんかた)が一緒になって働いて下さる力強い愛の神なのですから。使徒パウロも最後に、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなた方一同と共にあるように」と祈っています。

  本日の福音の中で使徒ヨハネは、「神はその独り子をお与えになった程、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と、神の御子・主イエスがこの世に派遣されて人となった目的について説明しています。三位一体の神が、「我々にかたどり、我々に似せて」とおっしゃって、私たち人間を創造なされたのは、ほんの百年間程この苦しみの世に生活させるためではありません。私たちは皆、神のように一つ共同体になって永遠に万物を支配し、永遠に幸せに生きるために創られたのです。私たちの本当の人生は、たちまち儚く過ぎ行くこの世にあるのではなく、永遠に続くあの世にあるのです。しかし、その本当の人生に辿り着くには、神がお遣わしになった御子イエス・キリストを信じ、「キリストの体」という一つ共同体の細胞のようにして戴かなければなりません。私たちは皆、三位一体の神に似せて、神の愛の共同体的存在になるよう神から創られているのです。天使的博士と言われた聖トマス・アクィヌスによると、純粋の霊である天使は、各位が夫々独自の種類・独自の霊的命ですが、人間は皆一つの種類で、一つの共同的命を人祖から受け継ぎ、それに参与して生きているのです。「自分」というのは、私が受け継いでいる私の担当部分のことで、それは私個人の所有物ではなく、ちょうど人体の一つの細胞のように、私はその自分を先祖のためにも子孫のためにも、神のためにも人類全体のためにも立派に生きて、皆の期待に応える使命を受け持っている一つの小さな部分なのです。このことを心にしっかりと銘記し、国や民族、文化、宗教などの相違を超えて全ての人を、特に社会の中で無視され勝ちな小さな人たち、苦しんでいる人たちを愛するように努めましょう。そのための広い大きな愛の恵みを三位一体の愛の神に願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。