2014年6月8日日曜日

説教集A2011年:2011年聖霊降臨の主日(三ケ日)



  本日の福音に述べられていますように、復活なされた主は既にその復活当日の晩、弟子たちに息吹きかけて聖霊を与えておられます。そして聖霊を与えた直後に、その弟子たちを派遣しておられます。聖霊の霊的力を魂に受けることは、神から一つの新しい使命を受けることを意味しているからでしょう。私たちが洗礼や堅信の秘跡を通して神から頂戴した聖霊の恵みも、自分一人の救いのためとは思わずに、自分の周囲の人たちや全人類の救いのために、積極的にその恵みに生かされ導かれて、祈りと奉仕に努める使命を神から頂戴したのだ、と考えましょう。「生かされ導かれて」と申しましたのは、その恵みは、人間が主導権をとって自分の思いのままに自由に利用する資金や能力のようなものではなく、生きておられるペルソナであられる聖霊が主導権をとって、私たち各人の内にお働きになる恵みだからです。私たち各人はその僕・婢となって、謙虚にまた従順に奉仕するよう求められていると思います。そのため各人は心の奥底に神から与えられている、あの世の霊の導きに対する心のセンスを目覚めさせ、磨く必要があります。それは、この世の事物現象を正しく理解するために与えられている、頭の自主的理知的な能力とは違って、直観的に察知し洞察する芸術的能力であり、主イエスや聖母マリアがその模範を示されたように、神の御旨に対する神の僕・婢としての従順の精神と深く結ばれているからです。

  ところで三か月前の東日本大震災が、今多くの人の生き方を変えつつあるようです。これまでのように一人で自由な独身生活を続けていては危ない、早く家庭を持ち人々と助け合って共に生きる人生に切り替えなくては、と考える若者たちが増えたようで、結婚したい女性たちも増え、大阪では結婚指輪の売り上げが50%も伸びたそうです。子供と遊ぶ時間を多くしたり、親しい友人との連絡を小まめにして、人とのつながりを大切にする人が多くなったと聞いています。阪神淡路大震災は「日本のボランティア元年」と呼ばれていますが、その時以来の流れで今回の大震災に際しても、非常に多くの人がボランティア活動に参加し奔走しています。昨年は高齢者の孤独死が多数明るみに出て、世界一の高齢化を達成しつつある日本社会が、実は世界一の孤独社会になりつつあるという現実に驚きましたが、この大震災を機に、今新しい建設的な流れが始まりつつあるのかも知れません。

  先日3年前に読んだ中公新書の『地震の日本史』を取り出して再度読み直し、幾つかの新しい考えを温めています。それは、日本人はこれまで数多くの大地震を体験して来ましたが、その度毎に新しい国家観や新しい人生観が多くの人の賛同を得て、日本社会や日本文化を新しく発展させて来たということです。その全てを語ることはできませんが、百済を助けたわが国の軍勢が西暦663年に白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗し、大急ぎで大宰府周辺の防備を固めたり、672年の壬申の乱で勝った天武天皇が飛鳥で即位したりして古代国家の基礎が確立され、日本書紀が編纂され始めた7世紀後半から、わが国には数多くの地震の惨状が記録されており、その規模の大きさなども近年の地盤発掘で調査確認されています。例えば、平安時代に末法思想が広まったのも、平安末期から鎌倉時代にかけて庶民の救済を目指したわが国独自の鎌倉仏教が誕生したのも、当時の大地震が関係しているように思われます。

  来年は鴨長明が『方丈記』を著してから八百年になりますので、何かの記念行事が営まれると思いますが、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」と、河の流れの動きから世の中や人生の無常を瞑想し、美しく深く描いている長明は、1181, 2年の飢饉の記述に続けて、1185年の京都辺りの巨大地震についても細かく詳しく描いています。この地震の余震は(長明はそれを「なごり」と呼んでいますが)、数か月も続いたようです。その後1192年に鎌倉幕府が開かれてからも、鎌倉周辺で大地震が幾つも発生しています。1256105日の大地震で多くの神社仏閣が倒壊したのを見た日蓮は、今の静岡県富士市の実相寺に3年間こもって『立正安国論』を書き上げ、608月に鎌倉幕府に提出しています。あの世の幸せを願う浄土宗の称名だけでは国が滅びる、戦闘的法華仏教によらなければ、日本は外国から侵略されると悟ったからだと思います。蒙古からの使者が来日したのは681月ですが、日蓮の法華宗はその後次第に信徒を増やしました。
『吾妻鏡』、『武家年代記』その他には、1293年の鎌倉大地震によって多くの神社仏閣が倒壊し、死者が23千人以上になったことなどが記されています。創立されて間もない建長寺も、倒壊して炎上しています。鎌倉の由比ヶ浜から由比ヶ浜通りにかけての発掘調査で、その時発生した液状化現象の砂の層は、1.3mの高さに達しています。その後も大地震は発生し、秀吉の活躍した時代にも、江戸時代末期のペルー艦隊が来日した翌年の185412月にも、わが国は巨大な大地震や津波に襲われました。でも、その度毎にわが国の社会はそれまでの流れから大きく脱け出て、新たな国造りに生まれ変わっています。それを思うと、今回の東日本大震災についても悲観せずに、むしろ明るい希望の内に新しい社会造り、温かい家庭的共同体造りに励む方へと、積極的に社会の流れを建て直すべきだと思います。

  本日の福音の中で主は二度も「あなた方に平和があるように」と話しておられますが、私はこの言葉を特別に大切にしています。マタイ10章やルカ10章を参照しますと、主は12使徒を派遣なされた時も72人の弟子を派遣なされた時も、「家に入ったら平安を祈りなさい」と命じておられるからです。「そこに平安の子がいるなら、その平安はその人の上に留まり、いなければあなた方の上に戻って来る」とも付け加えておられ、その祈りは無駄にはならないのです。私はこの祈りを皆様の家に入る時も、またこの頃はバスや電車に乗る時にも唱えています。すると不思議に全てが順調に行くように実感しています。復活の主や聖霊が、今も私たちの間に現存して、主のこの祈りのある所に働いておられるからなのではないでしょうか。平和は、主ご自身の祈りであると思います。それを唱える私は主の道具にすぎません。

  しかし、主や聖霊の人間社会の中での働きを、人間中心の立場であまりにも快いもの、安直なものとして受け止めないよう気をつけたいと思います。それは、私たちの心を何よりも神中心主義へと目覚めさせ悔い改めさせようとする、激しい愛と力に根ざしている「恐るべきもの」だと思います。本日の第一朗読に「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが坐っていた家中に響いた。云々」とあるのは、その激しさ・恐ろしさを示していると思います。天からのその激しい物音は、単にその家だけではなく、エルサレムの街中に響き渡ったのではないでしょうか。それでメソポタミア、アラビア、エジプト、ローマなど、当時の中近東や地中海沿岸諸国からエルサレムに来ていた大勢の巡礼者たちが、その恐ろしい物音を神よりの呼びかけと受け止め、天来のその音が響き続いている家へと集まって来たのではないでしょうか。私たちも三か月前の大震災を、現代世界に対する神よりの呼びかけと受け止め、あの世の神に対する私たち現代人の心の価値観や生活態度を謙虚に振り返り、神中心主義の新しい生き方へと目覚めるように努めたいものです。人間中心の古いアダムの価値観を捨てて、主や聖母の御模範に見習い、神の僕・神の婢として神の献身的愛に生きようとすることが大切だと思います。神のお与えになる平安と喜びはそのような心の内に留まり、その人の生活や働きを実り豊かなものに高めて下さると信じます。

  私は先日、眞田芳憲(さなだよしあき)氏の『胎児の尊厳と生命倫理』という本を読んで驚きました。私が神学生であった1950年代にわが国で妊娠中絶が流行し、日本が欧米人から「堕胎王国」と蔑視されたことのあるのは知っていましたが、その後ピルが普及したので、もう中絶は殆ど無くなったと思い込んでいましたら、何とわが国では統計が始まった昭和24年から一昨年12月までの60年間に3,779万人以上の胎児が殺されていたのです。一昨年一年間だけでも22万人も殺されているのです。聖書に基づいて胎児を人間と認めようとしない人や、巨大な現代物質文明の価値観によって心の生命観が鈍化している人は、かつてソ連の独裁者スターリンが言ったように、「それは数字でしかない」と受け止めて、この恐るべき事態を軽く見過ごすかも知れませんが、それは神のお考えではありません。

  眞田氏によると、中絶に反対している米国の医師たちが超音波で撮影した「サイレント・スクリーム(沈黙の叫び)」と題する短い記録映画が公開し、多くの人にショックを与えているそうです。妊娠12週の約10cmに成長した胎児は、目も口も心臓の拍動などもはっきりと映像に記録できるようですが、その胎児のいる子宮に中絶の器具が入れられると、胎児は激しく動いて逃げ回るそうです。心臓の拍動が速くなり、口は大きく開いて何かを叫んでいるように見えるのだそうです。もちろん何も聞こえませんから「沈黙の叫び」ですが、中絶賛成の医師たちは、まだ頭脳の働きが不完全なので、胎児には自覚がないと考えるそうです。しかし、それはこの物質世界での理解と生活のために与えられている自然の人間理性による考えで、理性は目に見えない命そのものやあの世の霊に対する感覚は持ちませんので、神を除外して無視するそんな考えに従うことは甚だ危険だと思います。私は神から創られた命には、頭脳がなくても心というものがあり、草木でも心の愛を込めて呼びかけていると、何らかの形でそれに応えるように感じています。胎児にも既に心は生きようとして働いていると思います。それに神に似せて創られた人間には、永遠に生きる霊魂が与えられており、その霊魂は既に胎児の時から生きようとして真剣になっていると思います。愛そのものであられる神も、この世の最も小さい者、最も助けを必要としている者の味方であります。神が最も心にかけておられるその無抵抗の胎児を殺す者に対して、神がどれ程怒っておられるかは、いずれ明らかになる時が来るのではないでしょうか。その恐ろしい裁きの時が来る前に、一人でも多くの日本人が目覚めて神の御旨中心主義の新しい生き方を始めるように、神の憐れみと恵みを願い求めましょう。