2014年6月22日日曜日

説教集A2011年:2011年キリストの聖体(三ケ日)


第1朗読 申命記 8章2~3、14b~16b節
第2朗読 コリントの信徒への手紙1 10章16~17節
福音朗読 ヨハネによる福音書 6章51~58節
   本日の第一朗読は、これから神より約束された地に入ろうとしているイスラエルの民にモーセが語った話ですが、モーセは、これ迄の40年間彼らが主に導かれて過ごした荒れ野での体験、神から受けた信仰教育を忘れずに、これからの信仰生活のためそこからしっかりと学びとることを勧めたのだと思います。民が荒れ野で過ごした40年間に、神は、民の心に残る自己中心的な「古いアダムの精神」を徹底的に矯め直し、神がお与え下さるものを幼子のように謙虚に受け止めて、何よりもその時その時に神から与えられるものによって生かされようと努める人たちにするため、度々民に飢え渇きの恐ろしい苦しみを体験させた後に、先祖も味わったことのないマナを食べさせたり、硬い岩からの豊かな水を飲ませたりする大きな奇跡を体験させて下さいました。全能の神によるこのような救いの御業や実践的信仰心教育に、これからも幼子のように、また神の僕・婢のように、我なしの精神で素直に徹底的に従って行くようにというのが、モーセがここで民の心に促している生き方であったと思います。

   心の自己中心主義の基盤は、この世の事物現象を正しく理解し利用するために神から与えられている理知的な理性を、あの世の神に対する信仰と愛と従順の次元にまで持ち込み、人間中心・この世中心に全てを判断し決めようとする精神にあります。この精神は神よりの恵みを正しく識別するのを妨げ、神の怒りを招いて民に大きな不幸を招くことになる、とモーセはこれまでの数多くの体験から心配していたのではないでしょうか。子供の時からパソコンに慣れ、親をも学校をも社会をも全てを自分中心に利用しようとする、自由主義的価値観や生き方に汚染されている現代人にとっても、これは忌々(ゆゆ)しい問題だと思います。自己中心・人間中心の精神の毒素によって、知らない内にこの世の社会も自然界を汚染し続け、創り主であられる神や神のお定めになった秩序を無視するもの、神に敵対する悪霊たちの神に対する戦争に賛成し協力するものにして行くからです。このような精神や価値観を早急に矯め直さなければ、私たちの生きているこの世界には、これからも想定外の自然災害や未曾有の不幸な事件が、次々と発生することでしょう。私は、それらはいずれも私たちの心を目覚めさせ、神中心に生きさせるための、神よりの警告であると受け止めています。早く目覚めて神中心の新しい生き方をしなければ、もっと恐ろしい試練を受けるのではないでしょうか。

   本日の第二朗読には「キリストの血にあずかること」、「キリストの体にあずかること」という言葉が読まれます。私はこういう言葉に接すると、「各人はそれぞれキリストの体の細胞である」という考えを想起します。最近の研究によりますと、人体に60億もあると聞く細胞の各々には、ヒトゲノムという各人独自の遺伝子、すなわちその人の基本的設計図が神から組み込まれていて、細胞はそれぞれ情報の授受機能や細胞の増殖機能などを備えて独自に生きています。全体を見渡す目は持っていませんが、より大きな命に生かされてバランスよく幸せに生きることはできます。しかし、より大きな生命から離脱すると死んで灰に帰してしまいます。キリストの体に組み入れられている私たち各人も、その細胞のような存在なのではないでしょうか。キリストの体に結ばれている個々の細胞に必要な養分を届けたり、細胞から老廃物を取り除いたりする血液の働きをしているのが、主キリストからも発出されている神の聖霊と考えてよいと思います。聖霊は、主キリストがお定めになったご聖体の秘跡の中にも豊かに現存し、働いておられます。

   晩年に幻の内に出現なされた主キリストから、「よく書いてくれた」とのお褒めを頂戴した聞く、天使的博士聖トマス・アクィヌスによりますと、純粋の霊として創られた天使は各位が一つの独自の種なので、神は殆ど無限と思われる程多くの種類の被造物天使を創造なされたようですが、その恵みに感謝し神中心に生きる無数の善天使とは別に、神に感謝せずに自己中心に生きる悪天使、すなわち悪魔たちも大勢おり、純粋単純な霊であるため彼らには改心の可能性がないのだそうです。それに比べると、創造の御業の最終段階で神から三位一体の神に特別に似せて創られた人間は、霊魂と肉体から成る一つの種類であって、人祖アダムの体からエワが造られたように、肉体の命は親から子孫へ次々と受け継がれるので、人間は人数がどれ程多くなっても、神の御前では一つの共同体、一つの種類とされているのだそうです。人祖アダムとエワが悪霊に騙されて神の掟に背いた自己中心の罪に穢れた罪は、その人間の肉の命を受け継ぐ私たち子孫が皆死ぬまで背負っていますが、ご自身の受難死によってその罪を浄め、神によって超自然的あの世の命に復活なされた主キリスト、すなわち第二の人祖アダムの命に、死と生の秘跡と言われる洗礼を受けて参与するなら、この世の人生ではまだその復活の主キリストの命で古いアダムの精神と戦わなければなりませんが、死後にはその神の御子キリストと一つ共同体、一つの「キリストの体」となって、永遠に万物を支配する栄光の存在、神の御子として生きる存在になるのだそうです。受難死によって人祖アダムの罪を清め新しい命に復活なされた主は、その御命をご聖体の秘跡にして、私たちの命を内側から養ってくださる第二の人祖なのです。

   本日の集会祈願文には、「主のお体を受け救いの力にあずかる私たちが、主の死を告げ知らせることができますように」とありますが、これは単に口先で主キリストの死を人々に告げることではありません。主と一致して私たちが自分中心・この世中心の生き方に死ぬことを、日々実践的に証しすることを意味していると思います。最後の晩餐の時ご聖体の秘跡を制定なされた主は、ご自身の御命が神を信じる人々によって実際に噛み砕かれ、その人々の心と体を内側から養い支えることを望まれたのだと思います。その主のご聖体を受ける私たちも、主と一致して自分の受け継いだこの世の人生と体が食べられ犠牲にされて、共に生きている人たちの糧とされ、その人たちの人生を内側から養い育てるものとなることを喜ぶよう心掛けましょう。この世に80年も生きる恵みに浴したからなのでしょうか、この頃の私の脳裡には時々このような望みが去来します。キリストの聖体の祭日に当たり、私たちが主と共にそのような犠牲奉仕の生き方をなすことができますように、本日のミサ聖祭の中で主の恵みを願い求めましょう。