2016年6月26日日曜日

説教集C2013年:2013年間第13主日(三ケ日)

第1朗読 列王記上 19章16b、19~21節
第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 5章1、13~18節
福音朗読 ルカによる福音書 9章51~62節

   本日の三つの朗読聖書は、主に従う者が身につけるべき特性について教えていると思います。第一朗読は、エリヤがエリシャを預言者として召し出す独特の仕方について伝えています。言葉で呼びかけて従わせたのではありません。何も言わずに、働いているエリシャのそばを通り、自分の外套を彼の上に投げかけただけなのです。この出来事の前に、神からエリシャに何かの話があったのかも知れませんが、この思いがけない突然の出来事に出遭った時、エリシャはすぐにエリヤの後を追い、父母に別れの接吻をさせてくれるよう願って、「それからあなたに従います」と話しています。エリヤのなした風変わりな行為を神よりのものとして受け止め、早速対応する預言者的信仰のセンスが、エリシャの心に成熟していたしるしだと思います。エリヤもそれを認めて願いを許可しましたが、その時「私があなたに何をしたのか」という言葉を口にします。よく判りませんが、これは、私があなたに為した行為を忘れず、思いがけない小さな出来事の背後にも、神からの呼びかけを感知する心のセンスを大切にしているように、というような意味ではないでしょうか。

   第二朗読には、「キリストが私たちを自由の身にして下さったのです」「自由を得させるために」という言葉が読まれます。ここで言われている「自由」とは、何からの自由を指しているのでしょうか。本日の朗読個所では説明が省かれていますが、すぐその言葉に続くガラテヤ書52~12節を読んでみますと、律法からの自由、すなわち律法の細かい規定を厳守することによって宗教的救いを得ようとする、ある意味では人間主導・自分中心のファリサイ的生き方からの自由を指していると思います。それは、自分で何かを獲得しよう、利用しよう、所有しようとする欲求や生き方からの自由ではないでしょうか。したがって、第二朗読に読まれる「奴隷のクビキに二度と繋がれてはなりません」という言葉は、そういう自分中心の生き方や「肉の欲望」に負けてはならないという意味だと思います。

   戦後の自由主義・能力主義教育の普及と核家族の激増とにより、皆で力を合わせて生きようとしていた、それまでの地域共同体や家族共同体の結束が急速に弱まった上に、現代技術文明の発達で日常生活が極度に便利になりますと、現代の日本には自分の思いのままに一人で生きて行こうとする人間が多くなり、各人の価値観も好みも違うため、家庭においても家族と皆で楽しく話し合うことが少なくなり、テレビやインターネットや携帯電話の頻繁な利用で、話し相手の顔が見えない半分バーチャルな夢世界で生きている人々や子供たちが多くなりました。夢を見ている時、人は内的には孤独で遊ぶようにして世渡りをしていますが、しかし時には不安感や恐怖感、あるいは人々からの見捨てられ感などに襲われます。「キレる」という言葉は1998年から辞書に登場しますから、その少し前の90年代中ごろから、日本の各地でそのような症状を示す、感性的に未熟な子供や若者たちが多くなったと思われます。昔にも「堪忍袋の緒が切れる」という表現がありますが、これは、まず忍耐を続けた後の怒りであるのに比べますと、現代の「キレる」人は、耐え忍ぶ心が働かずに、始めから突発的に怒りが爆発するようです。日頃他者と一緒に助け合い励まし合って生きることなく、自分独りで孤独と不安の中で生きているため、その気ままと個人主義が無視されたと感ずるような言行に出会うと、途端に見捨てられたと受け止めて怒り出す、過敏さと被害者感覚とが心の中に共存しているのかも知れません。

   考える知能や機器を操作する技能はしっかりしていても、自分の思い通りにならない現実社会を蔑視する傲慢さもあって、心の奥に落ち着きがなく、心の衝動をコントロールすることが苦手なのでないでしょうか。こういう人たちは社会にとって迷惑千万の困った存在ですが、本人たち自身も自分を持てあまし、苦しんでいるのかも知れません。私は「キレる」人たちをその心から救い得るものは、神信仰以外にないと考えます。1995年にオウム真理教事件が発生すると、一時的に若者たちの宗教に対する関心が低落し、伝統宗教に対する教団離れが一層進んだばかりでなく、80年代以降に急成長していた新新宗教に対する関心も薄れたようですが、伝統的な共同体精神が次々と崩壊し、各人の思想も価値観も極度に多様化しつつある現代の終末的社会にあっては、この社会的現象は驚くほど多くの人の心を深刻な内的孤独と絶望の淵へと落ち込ませるのではないかと恐れます。現代世界は外的には各人に、富も便利さも情報も技術も楽しみも山ほど提供していますが、多くの人の心はそれらに満足できずに深い孤独と絶望に悩み始めるのです。

   こういう人たちの心の救いのためには、その人たちを既成の宗教集団の社会的組織の中に連れ戻そうとするのではなく、むしろその心を全く個人的な宗教の原点に立ち返らせ、そこで万物の創造主で全ての恵みの与え主であられる神と、自分の人生との関係について目覚めさせる必要があるのではないでしょうか。仏教の創始者釈尊は、遺言として「自灯明法灯明」、すなわち自分の今の現実体験からの光と、「法」即ち神からの光という二つの光だけを頼りとして生活することを勧めています。時代の大きな変わり目には社会的組織それ自体が大きな分裂の悩みを抱えていて、私たちの心の頼りにはならないからだと思います。主キリストも善き牧者の譬えを通して、羊たちが各々善い牧者の声を聴き分けそれに従うことを、教えておられると思います。主の創立なされたカトリック教会も、極度に多様化しつつある現代世界の流れの中で大きな悩みを抱えています。このような時代には各人がそれぞれ自分の日々の生活の中に現存し働いて下さる主キリストの御声を聴き分け、それに従う実践信仰に心がけるべきなのではないでしょうか。各人の具体的生活の場が多様化しているように、その中での主のお導きも外的には人によって大きく違うと思います。それらを人間の考えで合理的にまとめようとはせずに、唯ひたすらその時その時の自分に対する神の導きに黙々と従う実践信仰に励みましょう。それが、ますます混沌の度合いを深めつつあるこれからの時代にあって、神によって護られ救い出される生き方、そして神の道具となって隣人たちを助け、豊かな愛の実を結ぶ生き方であると信じます。

   使徒パウロは本日の第二朗読の中で、「霊の導きに従って歩みなさい」と強調しています。その愛の霊は既に私たちの心の奥底には与えられていますが、自分のこれまでの孤独な生き方や自力の限界を痛感し、神よりの助けを新たな形で祈り求めている現代の若者たちの心にも、神の憐れみによって与えられるよう祈りましょう。彼らが心の奥底に現存しておられる神の霊に信仰と信頼の眼を向け、自分中心であった古いエゴを捨てて、神中心に神の愛の霊に導かれて生きよう、この不信の闇の世に神の愛の灯を点そうと心掛けるなら、神はその恵みを下さると信じます。

   本日の福音の始めにある「天に上げられる時期」という言葉は、主のご受難ご復活の時を指しています。主は既にそのことを弟子たちに予告して、エルサレムに向かう決意を固め、ガリラヤを後にされたのです。いわば死出の旅に出発し、その旅の途中に横たわるサマリア人の村で泊めてもらおうとしたのです。しかし、エルサレムのユダヤ人たちと敵対関係にあったサマリア人たちは、主の一行がエルサレムへ行こうとしているのを知って宿泊を拒みました。使徒のヤコブとヨハネはそれを見て怒りましたが、主は二人を戒めて、一行は別の村へと向かいました。主は殺されるために、エルサレムへ向かっておられるのです。何か緊迫した雰囲気が一行の上に漂っているような、そんな状況での出来事だと思います。


   しばらく行くと、次々と三人の人が登場しますが、ルカがここで登場させている人たちは、マタイ8章の平行記事では「弟子」と明記されていますので、エルサレムへと進んでおられた主に話しかけたのは、いずれも一行の後を追って来た主の弟子であったと思われます。数多くの大きな奇跡をなされた主イエスが、その主を殺害しようとしているユダヤ教指導者たちの本拠エルサレムに向かっておられると聞いて、メシアの支配する新しい時代が始まるのだと考え、この機会にメシアのために手柄を立てて、出世したいと望んで駆けつけたのかも知れません。最初の人は「どこへでも従って参ります」と申し上げていますが、主は、メシアに敵対する悪霊たちが策動する大きな過渡期には、どんな貧困や苦労をも厭わぬ覚悟や、日々清貧愛の精神で生活することが必要であることを諭すためなのか、「人の子には枕する所もない」などと話されました。その後に来た弟子たちにも、それぞれ自分の考えや夢を捨てて、ひたすら黙々と主に従って来ることを要求なさいました。神信仰に基づいて孤独に悩む自己の生きる道を見出そうとしている現代人に対しても、主は各人がそれぞれ自分を捨てて、ひたすら神の御旨に従順に従うことをお求めになると思います。その人たちが、主のこの厳しいお求めに従って、キリストの内にこれまでよりも遥かに大きな自由と生きる喜びとを見出すに至るよう、神よりの照らしと助けを願い求めましょう。

2016年6月19日日曜日

説教集C2013年:2013年間第12主日(三ケ日)

第1朗読 ゼカリヤ書 12章10~11、13章1節
第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 3章26~29節
福音朗読 ルカによる福音書 9章18~24節

   本日の第一朗読はゼカリヤ書からの引用ですが、ゼカリヤ書は、旧約聖書の最後の書であるマラキ書のすぐ前に置かれている預言書で、14章から成る幾分長い預言書です。その前半には6章を費やして、ユダヤ人に好意的であったペルシャのダレイオス皇帝の初期に神から示された、八つの黙示録的幻が語られています。そして第7章以降の後半部分には、エルサレム復興の約束や、諸国民に対する神の裁きとイスラエルの救いなどが語られています。本日の第一朗読はそのイスラエルの救いについての神の御言葉からの引用です。「私は憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者である私を見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」とあるのは、メシアの受難死を幻の内に示しながら語られた神のお言葉ではないでしょうか。神は続いて、「その日ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と穢れを洗い清める一つの泉が開かれる」と予告しておられます。これは、メシアの受難死によって無数の人の罪の穢れを洗い清める、霊的には真に豊かな恵みの水を溢れ流す泉が一つ、メシアの苦しめ苛まれた御心臓の内に、この世の人々に開かれることを約束なされたお言葉であると思います。そのメシアの十字架上での御死去を、聖母と共にすぐ近くで目撃した使徒ヨハネは、「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を突き刺した。するとすぐに、血と水が流れ出た」と証言し、「これは目撃者の証しであり、その証しは真実である。その人は自分が真実を語っていることを知っている」と、少しくどい程に、死去したメシアのわき腹から実際に血と水が流れ出たことを証言しています。

   死んでもまだ心臓に残っていた血が、槍に刺された時に流れ出たことは理解できるが、その血と一緒にある程度まとまった量の水が流れ出たという話は、信じられないという異論を退けるための証言であると思います。一体このようなことがあり得るのでしょうか。私が神学生時代に読んだ西欧の医師たちの証言によりますと、何かの事情で医師の世話を受けることも鎮痛剤を飲むこともなく、しかも極度の苦しみが長時間続いた後に死去した人の体を解剖しますと、心臓の周囲に水がたまっていることがあるのだそうです。前日から一睡もせずに苛酷な責め苦を受け続けた主イエスの心臓の周辺にも、水が多くたまったのではないでしょうか。としますと、主がその恐ろしい苦しみに耐えて、十字架上でも最後まで適切な言葉を話すことがおできになったのは、自然の人間の力を凌ぐ神の霊の特別な助け・支えによるのだと思います。

   ご存じのように、フィリピ2章には「キリストは神の身分でありながら、神としてのあり方に固執しようとなさらず」「ご自身を無にして僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、謙って死に至るまで従順でした」と述べられています。私は聖書のこの言葉を読む時に、神の全能に驚き入っています。人類救済のために天の御父から派遣なされた神の御言葉は、ご自身の神の身分を全く無となして、百%人間になられたのです。しかも、人間社会の最下層に感受性の鋭敏な肉体をもって生まれ、大きな過渡期に直面していた人間社会の全ての罪科を受け止めて、苦悩のうちに神の内的僕の身分に成長なされたのではないでしょうか。そして最後には、ご自身の人間としての体力の最後の一滴までも苦しみ抜き、天の御父に捧げ尽くして全人類の罪を償い、私たち罪人にあの世の救いに至る道を開き、その道を歩む霊的力も提供なされたのではないでしょうか。無数の人の罪の穢れを洗い清める救い主の泉は、このようにして掘り起こされ、あの世からこの世へと豊かな恵みの水を流してくれているのだと思います。
   しかし、私たちがその恵みの水を霊魂の内に取り入れ、その恵みに内面から生かされるためには、悔い改めによって人間中心主義の古いアダムの精神を心の中から取り除き、主キリストと共に自分の心を無にして神の僕となること、そして神から与えられる苦しみを人類の罪の償いとして耐え忍び、神にお捧げすることが必要であると思います。神から与えられる苦しみは、大小を問わず全て私たちの心に恵みを注ぐ手段や器でもあると信じます。思わぬ失敗や不運、病苦や生活の煩わしさなどを、信仰と愛をもって神の御手から受け取り、厭わぬように心掛けましょう。いくら待ってもなかなか来ないバスを待つ苦しみ、あるいは人身事故が発生して遅れている列車を待つ苦しみなども、嫌な顔を見せずに神よりの試練として祈りつつ快く耐え忍んでいますと、後で不思議に神が便宜を図って下さるのを、私はこれまでに幾度も体験しました。神は実際に、私たちの捧げる小さな奉仕や苦しみを、愛をもってご覧になっておられるようです。

   本日の第二朗読には「あなた方は皆、信仰によりキリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」「キリストを着ているからです」「皆キリスト・イエスにおいて一つになっており」「アブラハムの子孫です」などという言葉が読まれます。神の御眼から見れば、もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、私たち全人類は主キリストにおいて一つの共同体、一つの存在「神の子」となるよう召されているのではないでしょうか。神はかつてアブラムをお召しになった時、「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。地上の氏族は全てあなたによって祝福に入る」とおっしゃいましたが、イサクが生まれる前年には、「もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。私はあなたを多くの国民の父とするからである」と話しておられます。それで教皇ピオ11世はある時、「私たちも皆アブラハムの子孫です」と、ヴァチカンで公然とお話しになったことがあります。現代の技術文明が世界的にここまで普及し、アジア人も白人も黒人も一緒に助け合って生活するようになってみますと、聖書に読まれる神のこれらのお言葉が、新たに実感されて来ます。神は私たち全人類が主キリストにおいて一つの共同体、一つの大きな群れになるよう、現代においても新たに呼びかけ働いておられるのではないでしょうか。日々心を大きく開いて、小さいながらも全人類のため、全ての人のために祈り、奉仕するよう心掛けましょう。これまでの宗派の違いや民族・慣習の違いなどに囚われてはなりません。福者マザー・テレサのように、助けを必要としている全ての人に奉仕するよう努めましょう。それが、終末時代の様相を強めている現代世界の中に生きるキリスト者の生き方、第二ヴァチカン公会議の精神に適う生き方だと信じます。


   本日の福音の中ほどには、「イエスは弟子たちを戒め、このことを誰にも話さないように命じた」という言葉が読まれます。それは、そのすぐ前にペトロが主に話した、「あなたは神からのメシアです」という信仰宣言のことではありません。ギリシャ語の原文では、21節と主のご受難を予告している22節とはひと続きの文になっていて、22節の冒頭にある分詞「と言って」で結ばれていますから、メシアの受難死と復活についての主の予言を、誰にも言わないようにという戒めだと思います。ルカ福音書の2章には、聖母は「これらのことを心に納めて考え合わせていた」という言葉が二度読まれますが、神から受けた新しい教えや心に共鳴した聖書の言葉、あるいは私たちが個人的体験から新しく学んだ悟りなどもすぐには口外せずに、心に納めて考え合わせていることは、そこに込められている真理を、心の奥深くに根付かせる秘訣であると思います。神はそのような心の人に、もっと多くのことを次々と教え、優しく導いて下さるようです。聖母マリアもこのようにして、次々と非常に多くのことを、神の御子と共に歩んだ人生体験から学んでおられたことでしょう。私たちも、同じその主イエスに伴われて今の人生を営んでいる身であることを、忘れないよう気を付けましょう。主は私たちにも、「自分を捨て、日々自分の十字架を背負って私に従いなさい」と呼びかけておられます。その復活の主に信仰の眼を注ぎながら、日々与えられる小さな十字架の苦しみを嫌がらないよう、心掛けましょう。

2016年6月12日日曜日

説教集C2013年:2013年間第11主日(三ケ日)

第1朗読 サムエル記下 12章7~10、13節
第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 2章16、19~21節
福音朗読 ルカによる福音書 7章36~8章3節

   本日の第一朗読は紀元前千年頃の話で、カナンの地の先住民ヘト人、すなわちヒッタイト人の出身者である家臣ウリヤの妻を奪って子を身ごもらせたダビデ王が、その姦通罪の発覚を恐れてウリヤを戦場で死なせたという、もっと酷い二重の罪を犯したことを、預言者ナタンが主の名によって厳しく咎めた話であります。預言者はこの叱責に続いて、ダビデ王の家族の中から反逆者が出てもっと恐ろしい罪を公然と犯すという、耐え難い程の天罰も王に予告しています。しかし、王がナタンに「私は主に罪を犯した」と告白し、悔悟の心を表明すると、本日の朗読箇所にもあるように、ナタンは「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」と、神からの赦しと慰めの言葉を告げます。現代の私たちにとっても、神からのこのような赦しと励ましの言葉は大切だと思います。
   御存じのように、数年前からカトリック司祭による子どもたちや若い女性たちへの性的虐待事件が、欧米の先進諸国でマスコミにより次々と明るみに出され、カトリック教会は大きく揺さぶられています。少なからぬ司祭たちが数カ月、数年もそんな犯罪を極秘に続けていたそうですから。一般社会の裁判所に訴えられ、被害者たちへの莫大な賠償金の支払いや多額の裁判費用などのため、赤字財政に悩んでいる教区もあると聞きます。神より聖なる司祭職に召されても、現代世界を深く汚染し続けている古いアダムの人間中心主義や利己的欲情に対しては、節制と清貧に励みつつ日々弛まず戦い続けないと、知らない裡に心の奥底まで汚染されて行きます。罪に陥った司祭たちは、自分に対するこの「心の戦い」をゆるがせにしていたのだと思います。そのような司祭が問題を起こしたような時は、上長はすぐに厳しい態度で問題の解決に努めなければならないと思います。大阪の池長大司教は、数年前に配下の70歳代前半の司祭がセクハラ事件を起こした時、すぐに厳しい態度を公然と表明して犠牲者に対する償いにも務め、裁判騒ぎになるのを阻止しました。この厳しい態度ですぐに悪と戦う姿勢は、現代のような時代には大切だと思います。
   私たちの人間性を歪めている、自己中心の利己的傾きは心の奥に深く隠れていて、自分の持って生まれた自然の力ではなかなか勝てません。しかしたとい倒れても、ダビデ王のように神の憐れみの御心にひたすら縋りつつ、罪を赦して下さる神の愛と力に生かされて生きようと努めるなら、晩年のダビデ王のように、憐れんで救う神の新たな働きを生き生きと体験するのではないでしょうか。「罪が増す所には、恵みがなお一層満ち溢れる」と聖書にあります。近年大きな罪を犯して教会の名誉を傷つけた元司祭たちが、神の憐れみに縋って改心と償いに励み、いつかはダビデ王のように幸せな老後を迎えるに至るよう、神の憐れみと恵みを願い求めましょう。あわせて、司祭たちのセクハラの犠牲になった人たちの上にも、神の恵みと助けを祈り求めたいと思います。私は30年ほど前にそのような事件を起こしてしまった日本人の司祭と、その相手の女性の更生のために深く係わったことがありますが、二人は結婚して二児の親となり、その子供たちが東京の下町で立派な小学生になっているのに会ったのを最後に、もうその家族と交際していません。しかし今頃は子供たちも皆それぞれ大きくなり、カトリック者として信仰の内に生活していると信じます。
   使徒パウロは本日の第二朗読の中で、「人は律法の実行によってではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」と書いていますが、ここで「信仰」とあるのは、ハバクク書2章やローマ書1章その他に「義人は信仰によって生きる」とある言葉なども総合して考えますと、ルッターが考えたように心でひたすら信奉することや、自力で神に縋ることではなく、もっと広く、神の新しい働きに従う実践的従順の信仰と考えてよいと思います。パウロはそれと対比して、「律法の実行によっては、誰一人として義とされないからです」と述べていますが、この言葉の背後には、彼が若い時にキリストの教会を迫害したという、苦い体験があると思います。改心前の彼は、誰にも負けない程熱心に律法の全ての規定を、自力で自主的に順守しようとしていた律法学者だったと思います。しかし、復活なされた主キリスト御出現の恵みに出会い、その主から厳しく叱責された時、神と社会のためと思ってなしていた律法の厳守は、神の新しい救いの御業を妨げるものであったことを痛感させられました。
   彼はその時から、人間が自力で研究し順守する律法中心の立場や、自力で神の掟を守り神を崇めようとする熱心などは捨てて、ひたすら神の新しい働きや新しい導き中心の立場に転向し、その働きや導きに対する信仰と従順の感覚を鋭敏に磨き、復活なされた主キリストの御命に心の奥底から生かされる、新しい信仰実践に励むようになりました。本日の第二朗読に読まれる、「キリストが私の内に生きておられるのです。云々」の言葉は、この新しい信仰体験に根ざした述懐であると思います。私たちも使徒パウロの模範に見習い、他人に負けまいとして頑張る自力主義には死んで、まず心を空っぽの器となし、そこに主キリストの御命と聖霊を受け入れ、主キリストが新約の神の民から求めておられる、神の御旨に僕・婢としてひたすら従って行こうとする信仰実践を、しっかりと体得するよう心がけましょう。その過程で、弱さから幾度倒れても構いません。すぐに立ち上がって自力主義を捨て、神の御旨中心の愛の信仰実践に努めましょう。復活の主ご自身も本日の福音にあるように、幾度も「あなたの罪は赦された」とおっしゃって喜んで下さることでしょう。

   今年の11月末までを「信仰年」として、神から自分に与えられた信仰を実践的に深め実りあるものとすることに励んでいる私たちは、各人の自力ではなく、そういう神の救いの新しい働きかけを感知し、それに対する協力と従順を中心とした生き方を身に付けるよう心がけましょう。これからの終末的時代には、人間が自主的に産み出し造り上げようとする人間中心主義の業績は、神ご自身によって次々と崩され葬り去られるように思われるからです。

2016年6月5日日曜日

説教集C2013年:2013年間第10主日(三ケ日)

第1朗読 列王記上 17章17~24節
第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 1章11~19節
福音朗読 ルカによる福音書 7章11~17節

   本日の第一朗読は、紀元前9世紀の預言者エリヤについての話です。エリヤがイスラエルの王アハブに、これから数年間雨が降らず露も下りない、という神の言葉を伝えると、イスラエル全土とその周辺地方に大旱魃が発生し、エリヤも神の言葉に従って、暫くヨルダン川東のケリト川のほとりで、数羽のカラスが毎朝晩運んでくるパンと肉に養われながら過ごしていましたが、その川の水も涸れ始めると、再び神の言葉に従ってシドンのサレプタに移り、そこにいた寡婦の食糧事情を奇跡的に助けてあげたら、暫くそこで生活することができました。第一朗読は、その奇跡の話に続く、寡婦の息子を蘇らせた奇跡の話であります。

   私たち人間の平凡な日常生活の中で働く、神のこういう導きや働きについて読んだり聞いたりしますと、私は時々自分の人生や平凡な日常生活の中でも、目に見えないながら同じ神が、私を導き働いて下さっておられることを思い起こします。本日は、そのことを少しだけお知らせ致しましょう。太平洋戦争直後頃に受洗した私は、1948年の春に多治見修道院に入って小神学生になりましたが、当時の修道院敷地の庭園は大きくて桜並木や美しい庭木などが沢山ありましたので、小さな丘一つ越えた東隣の有名な虎渓山永保寺の庭園と共に、「多治見公園」と呼ばれていました。それで町のすぐ近くにある修道院の庭園には散歩に訪れる人が多く、午後4時過ぎにその庭園を一巡してゴミ拾いをするのが、神学生の日課の一つになっていました。私は神言神学院が名古屋に創立されてからも、また司祭になってローマに留学してからも、小神学生時代に身に付けたこの習慣を捨てきれずに、一般道路の歩道を歩く時には時々道端に落ちているゴミや空き缶などを拾い集めて、ゴミ箱まで運んでいました。年老いた今も、日々その習慣を続けています。社会や生活空間の大きさを考えますと、そんな事をしてもしなくても、社会の汚れは殆ど変わらないと申してよいと思います。それでそんなゴミ拾いを、時間のむだ使いとして蔑視している人も多いと思います。しかし、私がその本当に小さな行いを神に捧げる心で為していますと、神はその小さな捧げに特別の関心を持っておられるようで、そのようなゴミ拾いに心がけている私には、神が他の人たちに比べて何倍も多くの幸運や不思議な巡り合わせや助けを、数多く与えて下さるように感じております。

   中学高校の教員資格を取得して司祭に叙階された私は、これからは南山の中学高校で教えるのだと準備していましたら、3月末に突然に神言会総本部から、南山大学で歴史を教える資格を取得するためローマに留学するように、という思いがけない任命を頂戴しました。初めは語学のことなどで心配しましたが、いざ留学してみましたら、これは神からの特別の恵みであり幸運であると思いました。そして歴史の論文を作成した時には、それは社会からも多くの人たちからも捨てられ忘れられている出来事や資料を拾い集めて研究する、どこかゴミ拾いにも似ている作業だ、と思い始めましたが、南山大学に就職して1970年に名古屋キリシタン文化研究会を立ち上げてからは、キリシタン史の研究はゴミ拾いに似ている、と度々実感するようになりました。

   72年春に沖縄が日本に復帰すると、新発田で私と一緒に公教要理を学んで信者になった植物学者の相馬研吾氏が、文部省から研究助成金をもらって西表島の植物の研究をしましたが、その相馬氏が石垣教会で主日のミサに参加したら、石垣島で火刑に処せられた石垣永将について史実を明らかにしてくれる学者を捜してほしいとの依頼を受け、友人である私がその研究を為すことになりました。するとその年の秋に、上智大学で毎年開催されているキリシタン文化研究会に、四国の今治教会主任のドミニコ会員ホセ・デルガード神父が初めて出席し、私と親しくなったので、デルガード神父の協力を得てマニラの聖ドミニコ大学から、1623年にマニラから石垣島に渡ったドミニコ会員ファン・デ・ルエダ神父に関する関連史料を、ゼロクス・コピーで取り寄せることが出来ました。この全ては、神が計らって下さった不思議な巡り合わせであったと思います。300年ほど前の17世紀後半に聖ドミニコ大学で編纂された、ドミニコ会ロザリオ管区百年史の中に、初めに十数年間日本で布教したルエダ神父が、フィリピンに暫く滞在した後に琉球に行ったことが書かれていることを、他の書籍を介して知っていましたので、その原典史料が現存していたらコピーして送って欲しい、と願ったのでした。するとルエダ神父の3年後にマニラから石垣島に渡った日本人のトマス西神父が、ルエダ神父が石垣島を統治していた官吏石垣永将に受け入れられて教えを説き、洗礼を授けたことや、後で薩摩藩の支配下に置かれていた琉球王国の役人たちが来て、神父も永将も捕縛され、別々に処刑された次第を地元の人たちから詳細に聴いて、それを長崎に到着してからマニラに書き送ったスペイン語の手紙のコピーが送られて来ました。私は西神父のその手紙を利用して、石垣島で講演したり、学会で論文を発表したり、文庫本を書いたりしました。私のこの研究は石垣島でも沖縄でも歓迎され、私は五回も旅費をもらって沖縄に渡り、あちこちで講演する栄誉に浴しました。

   ところで、私からの依頼の手紙を受けて、三百年前の管区史の基礎資料として保管されていた大きな紙包みを開けて見た、マニラの聖ドミニコ大学のドミニコ会員たちも驚いたそうです。私も後でその大学を訪れた時に、その包みが置かれていたと聞く古い物置部屋の棚を見せてもらいましたが、全く誰も注目しない所に保管されていた紙包みの中には、17世紀前半に日本で殉教したトマス西神父ら、ドニニコ会関係者16人の日本における殉教の殉教証言集とその関連史料だったのです。ドミニコ会のコリャード神父が日本で収集し、日本二百五福者の殉教証言集と共にローマに提出する筈の貴重な書類でしたが、ドミニコ会の管区史作成中だったので、その基礎資料として一時的にマニラに留め置かれ、それが管区史発行後の会員たちには受け継がれずに忘れ去られて、埋もれてしまっていたようなのです。しかし、私の依頼が契機となって明るみに出ますと、日本二百五福者よりも先に、ドミニコ会関係の殉教者たち16人が列聖されてしまいました。その中にはフィリピン生まれの人も一人いましたので、マニラのシン大司教はその列福式が1981年に行われることを知って、マニラの司教座四百年記念も兼ね、教皇によるその列福式がマニラで挙行されることを強くローマに願い出ました。すると時の教皇ヨハネ・パウロ二世も、これを機に、マニラだけではなくその人たちが殉教した日本にも行きたいと強く希望なされたので、事はローマ教皇の来日にまで進展しました。私はこれら全ての出来事の背後に、世に埋もれている小さな私を通しても働いて下さる、神の不思議な導きや働きを感じていました。他にも数々の小さな神の導きや助けを体験していますが、これからも人目につかない日々の小さなゴミ拾いを、神に対する感謝と希望の心で続けて行く所存です。


   本日の福音の中では、一人息子の御棺に付き添っていた母親をご覧になって、憐れに思われた主が、その御棺に手を触れて埋葬の歩みを留め、その息子を蘇らせて母親に返し与えるという、驚くべき奇跡をなさった話が語られています。受難死によって人類の罪を償い、あの世の不死の命に復活して今も生きておられる主は、哀れみの心情の深い人間であり、私たちの日常生活にも伴っておられて、私たちの苦しみも悲しみも、全てをご覧になっておられると信じます。思いやり深い人間であられる主イエスの現存信仰のうちに、日々主と共に生活するよう心がけましょう。しかし、その主の助けを受けるには、その信仰を頭の中だけ、祈りの時だけのものとせずに、日々の実践生活の場でも、人知れず伴っておられるその主に自分の労苦や病苦、小さな愛の奉仕などをお見せし、助けを願う信仰心が大切だと思います。マタイ福音10章によりますと、主は12使徒を派遣なされた時、「家に入ったら平安を祈りなさい。もしその家が相応しいなら、あなた達の祈る平安はその家に留まり、相応しくなければ、平安はあなた達に帰って来るであろう」とおっしゃいましたが、ルカ福音10章の始めに72人の弟子を派遣なされた時にも、「家に入ったら、まずこの家に平安と言いなさい。云々」と全く同様にお命じになりました。私は、これはその使徒や弟子に霊的に伴っておられる主ご自身が、派遣された人の口を介してなされる祈りであり祝福であると受け止めています。そして復活なされた主は、今も私たちの口を介してその祝福を人々に与えることを望んでおられる、と信じています。それで私は、どこかの家や修道院を訪れる時にも、「この家に平安あれ」と唱えています。私のその言葉を介して、主が実際にその家に恵みを与えて下さると信じるからです。それどころか、近年はバスに乗る時も列車に乗る時も、主に心の眼を向けながら、この言葉を唱えています。するといつも主の恵みに伴われて、旅行が大過なく順調に行くように感じています。よろしければ、皆様も試してみて下さい。終末的様相が深まりつつあるこれからの社会に生き抜くには、私たちの信仰をこのような小さな実践と結んで表明することが、ますます大切になるのではないでしょうか。